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虫憑き少女は春を呼ぶ

 春は想像していたより、早くに訪れた。

 明日ですよ。と、満月先生が私たちに告げたのは、ちょうどドレスが仕上がった日のことだ。

 この時、ドレスができた喜びに咲は飛び上がり、私も思わずバンザイをした瞬間だった。

 そのせいで満月先生が何を言っているのか、私も咲も一瞬理解できなかった。

 沈黙のあと、とうとうその日が来たのだ……と、ようやく気付いたありさまだ。

 それは不思議な寂しさと清々しい悲しさに満ちている。


「ど? きつくない?」

「へ……平気」

 春を呼ぶのは夜だと決まっている。と満月先生は言った。だから用意をはじめるのは夜が更けてからだ。

 まず、用意したのは熱々のホットサンドイッチに、生姜紅茶がたっぷり詰まった水筒。

 それにあったかいカイロもたくさん。

 それから私は、ドレスをまとった。

 二人が時間をかけてつくってくれたドレスは、体にぴったりすぎて少し恥ずかしい。

 スカートを押さえ、襟をきちんと整え、そして私は恐る恐る咲に尋ねる。

「あ、あの、似合う……?」

「ん。かわいい」

 レトロな姿見の中には、顔を赤くした私が映っていた。

 月の貴婦人と呼ばれる紫色のドレス。今はすっかり私仕様になって、体を覆っていた。

 裾は短くなったけど、ドレープの美しさは残したまま。胸元の花のモチーフもそのままに、しかし袖は少しだけ細くしてある。

 満月先生と咲が何度も打ち合わせをして作り上げたドレスが、今、自分の体を覆っている……まるで奇跡みたいに。

「せっかくだしメイクもしよ。あたし、道具持ってる」

「え」

 咲が楽しそうにポーチをあさり始めたので、私は思わず一歩退く。

 ぷん、と鼻の先に届いたのは化粧品の匂いだった。叔母さんの化粧鏡から香るものより、少し甘い。

 それは咲の匂いだ。

「に……似合わないと思う。お化粧なんて、したことないし」

「だーいじょうぶ、まかせて。あたし、上手だよ?」

「お化粧、咲さんの顔だから似合うかもしれないけど……」

「可愛くするから」

 強引に腕を引かれて椅子に押し込まれ、顔を掴まれる。遠くに見えた満月先生はおかしそうに笑っていて、私は思わず頬を膨らませた。

「満月先生」

「葵さん、じっとして。マスカラが歪んでしまいますよ」

 気がつけば目の前に咲の真剣な顔がある。

 あまりに真剣なものだから、私は思わず口を閉ざした。手をぎゅっと握りしめ、石像になったみたいに固まったまま。

 ピンク色のチークも、真っ黒なマスカラも、赤い口紅も初めてのことだ。

 咲の小指で彩られていく自分が妙に恥ずかしく、私はまた赤くなった。

 そんな私を茶化すように、桜虫達が周囲を飛び回る。

 春が来るのは本当のことなのだろう……虫はこれまで以上に元気になった。まるまると太って、美しい淡紅色に染まった。

 羽の音も力強い。帰ろう、帰ろう、そう言っている。そんな気がする。

「あ。そうだ。髪も綺麗にしよ」

「い、いいよ。私の髪の毛って硬くて真っすぐで言う事聞かないし」

「任せて。昔は妹の髪も、あたしが全部してあげてたんだ」

 いつもの三つ編みを手早くほどかれ、私は困惑する。

 しかし、咲は動じない。少しだけうねった髪に甘い匂いのするクリームを塗り込み、ドライヤーで丁寧に伸ばされる。

 何度も髪を引っ張られ、そのつど頭がガクガクと揺れる。

 人から髪をいじられるというのは、こんなに激しいことなのだ。そんなことを、私ははじめて知った。

 何が起きているかわからないまま、気がつけば私の髪は綺麗にまとまり、頭の上にドレスと同じ布で作られた花飾りが付けられる。

「わあ……」

 鏡に映る自分を見て、私はぽかんと口を開けてしまう。

 そこにいたのは、はっきりとしたメイク。いつもと違う髪型。そして憧れのドレス姿……の、私。

「ぴったりだったね、せんせー。やっぱりさ、腕んとこ狭くして正解だったしょ。ダウン着る時邪魔だもんね」

「ええ、スカートも寒さ対策で重ねましたけど、少し膨らませたので下にズボンをはいてもスタイルが崩れませんね。それに裾は綺麗に絞ったので、歩くのに邪魔になりませんし」

 咲と満月先生が鏡を覗き込み、にっこりと微笑んだ。

「寒いし夜道は危ないから、ズボンもはくし、足はスニーカーだし……ドレスまんまでいけないのが残念だけどねー。よし、じゃあ写真だよ、葵」

「ほ。本当撮ってくの? 写真、ほんとに? だってあれ、新聞って」

「ほんとのほんと!」

 引っ張り出されたのは、満月先生の家の前。

 ちらちら降る雪の中、一人の男が立っている。大きなカメラを持ったその腕には、地域新聞報道部の腕章が揺れていた。

「あれっご家族は?」

 飛び出してきた二人を見て、若いその男は目を丸くする。

 そして足りないものを探すように、辺りをきょろきょろと見渡した。

「いや、毎年、普通なら、ご家族が集まって……」

「世の中には、いろんなパターンがあるんですよ」

 満月先生は静かに言って、二人を押し出す。

 私は寒さを堪え、ダウンを脱ぐ。

「せっかくのドレスです。綺麗に撮ってあげてくださいね」

「まって、あたしも腕、出す。寒いから一瞬だけ」

 戸惑うようにカメラを向ける男を制して、咲が慌ててダウンを脱いでセーターの右手をまくりあげる。

 寒々しい空気に右手がむき出しになる。しかし彼女はその指を、ピースサインにした。

「新聞に載るの、いいじゃん。見せつけてやろ、みんなに」

 私も覚悟を決めて、胸を張る。あの写真集の女性のように、ぴんと顎をあげて。足を揃えて。

 ドレスアップした少女に、突然腕をむき出しにした少女。それを見てカメラマンがぽかんと口を開けた。

 そんな彼を急かすように咲が叫ぶ。

「早く、撮って、寒い!」

「は、はい……撮りますよ」

 困惑したようなカメラマンが一声放ち、そして眩しいストロボとともにシャッターが切られた。

 

 満月先生に「いってきます」を告げて、森を歩きはじめたのはそれから10分後のことである。

 車の通らない夜の車道を抜けて100メートル。

 満月先生の言っていた通りの小さな鉄門を見つけて、咲が私をちらりと見た。

 懐中電灯に照らされた門には「桜門」と刻まれているのだ。

 まるで懐かしがるように、桜虫達が門に集まる。

 すっかり赤錆びた門が、明るいピンク色に染まった。

「ここだ……行こう」

 満月先生から預かった鍵は、当たり前のようにするりとはまる。

 錆びているかと思いきや、鍵穴は綺麗だった。満月先生が時折、手入れをしているのかもしれない。

 門の中に足を踏み入れ、私は息を呑んだ……想像以上に、暗い。

 ここまでの道も暗かったが、それでも街灯があった。

 しかし、門をくぐればその先は木々が生い茂り、光は通らないのだ。

「最初の道は100メートルだけ、暗いよ。葵」

 確か出発の時刻は深夜1時過ぎだった、と記憶している。カメラマンの腕時計にそう刻まれていた。

 模擬より遅い時刻だ。それもそのはずで、毎年毎年時刻は微妙に変わるのだという。

 出発の時刻は、夜の香りが決めてくれると満月先生は言っていた。

 こんな夜中に出るんですか? と、カメラマンは心配そうに満月先生を問い詰めた。

 しかし満月先生に不安の色は見えなかった。だから私たちも何の心配もしていない。

 ……しかし、目的地は思った以上に暗い。

 神社と同じような道筋なら、しばらく暗がりが続き、次は灯籠のはずだった。

「葵。目、つぶってな」

 咲が私の手を握りしめる。

 その手のぬくもりが私の心をまっすぐにした。

 暗くても道は綺麗に整っている。薄く雪の残る石畳が、まっすぐ夜の奥に吸い込まれていく。

 周囲は木に囲まれていて、風が吹くたびに、ざ、ざ、ざと音を立てるのだ。

 目を閉じれば、風音と咲の温度、それだけになる。

 私は深呼吸をして、咲の手を強く握りしめた。

(神社の道みたいだ……)

 あの時より寒くて暗くて音も無い。

 しかし、あの時よりも不安は無い。

 咲と私は同じ気持ちでここに立っているのだから。

「……暗いところがあって、そこを曲がると神社があって……灯籠があるんだよね。そこは、私がいくから」

「よし」

 咲の手が、私の手を握り返した。

「行こう」

 それが合図だ。


「……雪増えてきたね」

 ふと、咲が呟く。目を閉じたままでも雪の音は聞こえている。

 最初の100メートルは何の苦労もなかった。

 危険といえば石畳で滑りそうになるくらいだ。咲に手を引かれて進むうちに、雪の冷たさが増していく。

 暗がりのエリアが終わり、道を曲がると赤い光がまぶたの裏に見えた。

「交代」

 目を開ければ目の前は石灯籠のエリアだ。小さな炎が風と雪に煽られて揺れている。

 奥には小さな社が見えた。

「行こう」

 私は目を閉じた咲の手を握り、一歩前に出る。

 桜虫達は明らかに光を増していた。しおれていた頃が嘘だったように、薄紅から赤色へ。

 これまではただの光の固まりにしか見えなかったのに、今では羽根の形まで分かるようになっている。

 虫は桜の花びらの形に似ているのだと、そんなことを今更知った。

「わ……!」

 びゅ、と風が吹き付けたせいで目を閉じていた咲が叫ぶ。

「葵!?」

「大丈夫。ちょっと雪が強くなったみたい……うん、心配ない。それだけだよ」

 灯籠を抜けて、社をこえた。そこから先はまた暗がりだ。しかし私は目を閉じることができない。

 突然、雪がタンポポの綿毛のように一斉に降り出したのだ。

「雪……っ」

 私と咲は腰を落とし、顔をかばう。恐る恐る顔をあげると、空に渦巻く雪の筋が見えた。

 それは周囲の光を吸い込んで、光の粒になる。闇に対する恐怖は消えた。代わりに、刺さるほどの冷たさがダウンコートの向こうから染み込んでくる。

「咲、駄目だ吹雪がすごい!」

 雪が斜めに吹く。雪を運んだ風は強い。木が折れるほどしなっている。

 揺れる枝葉の向こうに見えるのは、紺色の空だ。重苦しい雲だ。

 雲の隙間から、銀色の月が白白と輝いている。

 地上はこれほど暗いのに、空はぞっとするほど明るいのだ。

「……え?」

 あまりの光景に二人、立ち尽くす。

 目の前は吹き飛ばされそうな猛吹雪、木々がしなり葉が飛び散り、小石が舞い上がる。

 闇の恐怖も炎の怖さも忘れた。ただ、目の前の雪に圧倒される。

 行く方角を見失った瞬間、桜虫がぴょんと跳ねた。

「こっち……?」

 これまでけして二人から離れなかった桜虫が跳ねる、飛ぶ。

 どこかへ行こうとするピンクの筋を、私たちは慌てて追いかけた。

 吹雪の中でも桜虫の色だけははっきりと分かる。

 ……やがて虫たちが止まったのは、古ぼけた小さな小屋の前だった。

「ここ?」

「入っていいの?」

 それは神社の道具を片付けておくような、そんな小屋だ。

「あ、開くのかな……あ、開く」

 咲が恐る恐るドアを引っ張ると、それは素直にカタンと開いた。

 その途端、風と雪がまた強くなる。もう迷っている暇もなかった。私たちは悲鳴を上げて小屋の中に転がり込む。

 と、虫が先導し、暗い小屋の中がぼんやりと明るく染まった。

「咲! ドア、しめてしめて!」

 風にドアを持っていかれそうになり、私たちは必死にノブを掴んだ。

 中に入ってもドアがなければ意味がない。こんな小さな小屋、あっという間に雪で埋もれてしまうだろう。

「思いっきり、引っ張って!」

 二人で力を込めて引っ張り、錆びついたスライド鍵を閉める……と、途端に静寂が耳を貫いた。

「……えっと、入って、良かったよね?」

「キンキューヒナンだよ。だって、外すごかったもん」

 そこは掃除道具や木箱の他には、蜘蛛の糸しか無い小屋だ。二人並んで座ればいっぱいになるくらい、狭い小屋。

 強風に小屋がきしむが、しっかりと造られているようで、壊れる気配もない。

 懐中電灯を上に向けて立てると、狭い小屋の中にぼんやりとした光が広がった。

「もしかして、ここを知ってたの、お前たち」

 虫に話しかけると、彼らは嬉しそうに跳ねる。

 ダウンコートに積もった雪を落として恐る恐る木箱に座ると、はじめて足の先から震えがきた。

 雪の冷たさだけじゃない。突然降ってきた、目の前を覆うような雪。風に負けそうになったこと。そんな小さなことが、全部恐ろしい。

「あ……あっためなきゃ」

 急いでカイロを引っ張り出して、足や手を温める。咲に近づいて、手を握る。

 最初は本当の震えから。段々と、ふざけるように足を激しく動かす。腕をぶるぶると震えさせる。

 同じように震えながら、咲がぶっと吹き出したのはそのとき。

「咲?」

「……名前」

 彼女は笑いすぎて浮かんだ涙を拭う。そして私の肩を何度も叩いた。

「何?」

「咲って言った」

「あ」

「いいよ。いつまで、さん付けるのかなって、思ってたとこ」

 私の耳が熱くなる。

 思わず、咲と叫んだ。それはつい、口が滑ったのだ。でも心の中ではずっと、ずっと、咲と呼んでいた。その心の声が漏れてしまった。

 それに気づいたか、咲がニヤニヤと私を見つめる。

「名前もっかい呼んでみて」

「さ……咲」

「いいね。これからはずっと、そうやって呼んで」

 咲は照れるように少しぶっきらぼうにいう。

「ていうか、虫たちって、この小屋のこと知ってたのかも。こんな風に迷ったり雪が降った時、ここに、みんなを連れてくるのかも」

 咲が呟いて壁を撫でた。そこに懐中電灯を当てると、4年前の日付と名前が刻まれている。別の箇所には10年前の日付と名前だ。

 咲はポケットからペンを取り出すと、木箱の隅に名前を書いた……葵、咲、そして今日の日付。

「遺伝子とか……そういうもので、繋がってるのかな、虫って」

 カイロをもう一つ開けて、咲が目を細める。肩にもカイロを置くと、桜虫達が興味深そうに集まってくる。

 そして彼らは驚くように飛び回り、やがてカイロの上にコロコロと転がりはじめた。

「……温いって分かるんだ」

「これも知識を共有してるのかな」 

「なんでこんな日に満月先生、行けっていったのかな。春なんて、来そうもないのに」

 私は膝を抱え、座る。ドレスが足をすっぽり包み込み、カイロの温度が中にこもっていくのが心地いい。

 しかし外を走る風の音は強い。びゅうびゅうと、雪混じりの風が吹いている。

 クラスメイトはみんな、今頃布団の中だ。こんな寒い中でじっと我慢をしてるのはきっと自分と咲くらいだろう。

 布団の中で中学卒業までの日数を指折り数えていた頃から、もう何ヶ月もたった。

 それが今は不思議で仕方がない。

 あのときから季節が変わり、そして自分はこんなところにいる。

「こんな時どうしたらいいのか、満月先生に聞いてくればよかったね。木も、こんな遅い時間だと実際どんなのかわかんないし、名札とか看板があればいいけど……」

「……んー。せんせーは教えてくれなさそう……こんなとき、せんせーなら、なんて言うかな」

 咲も同じように膝を抱え、小さくくしゃみをする。

 不安定だった彼女の体調も、ドレスを作っている間にどんどんと良くなった。

 私の揺れ動いていた精神も、二人のためにご飯やお菓子を作り続けている間にすっかりと良くなった。

「……満月先生が言いそうなこと、わかった気がする」

「あたしも」

「せーの、で言わない?」

「……いいよ」


「こんな時は、食事をしましょう」


 二人は同時に言って顔を見合わせ、ぱちくりとまばたきをする。そして吹き出した。

 鞄の底からアルミホイルに包まれたサンドイッチと、赤い水筒に入った生姜紅茶も引っ張り出した。そしてそれを木箱の上に置く。

 サンドイッチは冷めてしまったけれど、保温水筒に入った生姜紅茶はアツアツだ。

 まずは水筒のカップに紅茶を注ぐと、湯気が鼻を優しく撫でた。

「わ! 生姜紅茶、効く!」

「あったかい……」

 甘いものが苦手でも、今夜だけは砂糖入りを飲みなさい。と、満月先生はそう言った。そしてそれは正解だ。

 甘くて苦い生姜紅茶が、喉から胃へ。そこから全身へ、一気に駆け巡る。

「葵! サンドイッチ、食べて! 冷めてるけど、めっちゃ美味しい!」

「え、すごい!」

 サンドイッチはチーズと卵とベーコン入り。つぶつぶのマスタードがたっぷり挟まっていて、口の中でプチプチ潰れるのも楽しい。

 昨夜はボリューム満点の晩ご飯だった。さらに数時間前には夜食のラーメンまで食べてきた。

 だからこんなに大きなサンドイッチは食べられないかも。渋る私に、満月先生は「余ってもいいから」と、大きなサンドイッチを渡してくれた。

 これも正解だ。分厚いパン二枚に挟まれたそれを、私たちはあっという間に完食してしまったのだから。

「喋っていよう。黙ってるのは良くないから。ほら、なんだった? 静寂が駄目だって、センセーが……そうだ、あの歌」

 食べ終わり、アルミホイルを握りしめ、咲が音程を探るようにすっと息を吐く。

 Hello darkness……彼女は静かに、そう呟く。音程は少しずれていたが、ほどよく低い声に、その静かな曲はよく似合う。

「咲の歌声、いいな。歌手になれそう」

「歌って踊れるドレスデザイナーとか、どう?」

 照れるように咲が笑うのを、私はぼんやりと見つめていた。

 夢が彼女からあふれてくるようだ。じゃあ……私はどうだろう。私の夢はなんだろう。

 かつて私は、進学で県外に出ることだけを夢見ていた。そこから先は黒塗りで何も見えない、何も考えられない。そこから先も、人生は進むはずなのに。

(……じゃあ、私がなりたいものって?)

 手の中に残るアルミホイルを見つめ、私は考える。

 口の中に残るのは、サンドイッチの味だ。

 でもそれだけじゃない。はじめて満月先生が作ってくれたホットケーキの味も、恐怖に打ち勝って作ったイワシのトマトスープの味もずっとずっと残っている気がする。記憶の一部に染みこんだみたいに。

「私は……」

 美味しい味は、幸せな味は、人の記憶に残るのだ。忘れ去られることなく、残り続けるのだ。

 それはなんて幸せなことだろう。

「料理を、作ってみたいな……色んな人の記憶にずっと、残る、ような」

 咲が私の肩をそっと撫でた。

「なれるよ」

 外はどんどんと静かになっていく。雪が遠ざかっているのか、それとも嵐の真ん中で静かなのか、わからない。

「……だってあたし達、まだ中学生だし」

 虫たちはカイロの上に集まって、ピンク色の大きな塊になっていた。

 桜虫は中学生から高校生の女の子に憑くのだ……里村先生が語った言葉を思い出す。

 里村先生は最初、怖くない? と私に聞いた。しかし私は強がって、平気です。と答えた。それを聞いた里村先生は、やっぱりね。と苦笑した。

 そして彼女は言ったのだ……歴代の桜虫憑きも皆、そう答えたと。

(強がって……嫌なことを隠すような子を選んで憑くのかも)

 私は今、そんなことを考えている。

 虫に手を伸ばしても、声をかけても彼らは何も答えない。何も教えてくれない。

 ただ彼らとともに過ごした半年近く。私も少しだけ成長した。

「……あのね、咲。春が来たらお母さんとお父さんに会いに行こうと思うの。海外から数ヶ月だけ、帰ってくる日がある。東京だけど……」

 ダウンから手を出して、咲の手をそっと握る。咲は少し驚くように私を見た。

「咲に付いてきてほしい」

「うん、じゃあ、あたしも……もおじいちゃんに会いに行く。そんで、家族のお墓にも行く。もう何年も行けてないから……葵に、ついてきてほしい」

 咲の頭が、私の肩に乗る。金の髪がサラサラと、流れていくのが綺麗だった。

「……うん」

 どれくらい、そのままだったのか。私にはわからない。ただ少しだけ眠ってしまった気がする。うつら、とほんの一瞬だけ。

 気がつけば桜虫がまるで急かすように飛び回っている。

「雪が……止んだ?」

 咲が目をこすり立ち上がる。恐る恐る扉を開けると、白い息がふうっと前に広がった。

 音は無く、風も雪も無い。

 ただ、そこに光があった。

「……すっごい、明るい」

「月だ……すごい!」

 二人は同時に空を見上げる。雲が一掃された空には、大きな月が一つ。

 そして月の周りにはまばゆいほどの星が、溢れんばかりに広がっていた。

 まるで白い絵の具を黒い画用紙に弾き飛ばしたような、見事な星空だ。

「最初さあ、この町に越してきた時、驚いたんだ。夜、すっごく明るくて」

 咲はぽかんと空を見上げたまま呟く。

「でも、この山はもっと明るいんだ。すごいね、葵」

 雪は一瞬で去ったらしい。地面はぬかるんでいるが、もう風も吹いていない。

 桜虫たちが急かすように飛び回る。咲が手を伸ばし、私はその手をつかんだ。

 ただここから先は一本の道。

 転ばないように気をつけて、二人は同時に駆け出した。虫たちが先導するように、前を進む。

 ピンクの軌跡についていくように駆け抜けると、目の前に大きな木が見えた。大きく腕を広げた、花も葉もない木だ。

 その前には鳥居がある。鳥居に守られる、巨大な木。

 名札も説明も必要ない。

 そこが終着点であることを私たちは知っている。

「戻れるよ」 

 どちらともなく、虫に話しかけた。

 虫たちは嬉しそうに跳ね、お礼でもいうように髪に絡み、飛び、やがて高く高く、駆け上がる。

「あ……」

 私も咲も同時に木の幹にたどり着く。冷え切った指で太い幹に触れると、不思議とそこは温かい。

 顔を上げれば、太い枝に桜虫達が絡んでいた。

 枝は枯れたような色をしているが、その先に繋がる細い枝には小さな蕾が見える。

 無骨な茶色の枝には、小さな蕾がいくつも付いている。

 ……つんと尖った先はかすかにピンク色だ。それは桜虫の色である。

 一匹の虫が、蕾に止まる。もう一匹は別の蕾に。

 何匹もの桜虫が、蕾に重なる。蕾は震え、私たちの目の前でゆっくりと開いていく……月明かりの下で、奇跡のような開花がはっきりと見える。

「桜の、花?」

 開いたそれは、薄い花弁の桜の花。

 ガラスのように薄く、淡く、柔らかいそれが眼の前でゆっくりと花開いた。

 それを見上げたまま、私たちは互いの手をぎゅっと握りしめる。

「虫は……死ぬんじゃないんだ」

 虫たちは確かに姿を消した。しかし、同じ色を持った花が、そこにある。

「……花に生まれ変わるんだ」

 咲がきゃあ、と叫んで私を抱きしめた。咲の体に揺らされて私は初めて目を丸くする。

「やった……の?」

「やったよ! やったじゃん、あたしたち!」

 ダウンコートの下から漏れる紫色のドレスも、目の前で花開いていく桜の花も、半年前の私なら諦めていたものたちばかり。

 諦めなかった未来に見た風景は、あまりに美しかった。

「やったんだ……」

 私は、呆然と呟く。へらり、と笑顔が浮かぶ。咲は待ちきれないように、私の手を引っ張った。

「葵、かえろ!」

 その手は熱い。でも咲の顔は満面の笑みだ。きっと、私の顔も。

「満月せんせーのとこに!」

 帰り道は、ただ真っ直ぐだ。

 もう、灯籠に揺れる火も、闇の道も怖くない。

 避難小屋を超えて、赤錆の門をくぐり、国道を横切る。

 そうしている間に東の空が明るくなった。

 薄暗い紺色の空が靄のような青色に変わり、白い筋が入り、雲を割って光があふれる。

 温かい春の風が、春の日差しが、私たちを撫でた。

 山道の雪を蹴り上げて走り、懐かしい家が見えてくる頃。朝はゆっくりと大地を染め始めていた。

「……満月先生!」

「せんせー!」

 日差しが庭の片隅にある墓を優しく照らすのを見て、私はお腹の底から声を出す。

「春が来たよ!」

 お墓の前、姿勢の正しいその人は私たちを笑顔で迎えてくれた。

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