咲の夢
「咲さん。ご飯って、食べられそう?」
エプロンを握りしめ、そっと部屋を覗き込む……が、ベッドの上に咲の姿はない。
部屋を見渡せば、植物の鉢と籐籠の間で咲が小さく震えていた。
「……ごめん。もう、火、いけると思ったのに」
熱のせいで声が掠れている。顔は赤いのに、ぎゅっと握りしめた手の先は白い。
それを見た私は慌てて咲の隣へ駆け出した。
たった数歩の闇が怖い。しかし咲の手に触れた途端、ほっと息ができる。
まるで、魚が水を得たように。
そして私は彼女の手をつかみ、無理やりベッドの上に持ち上げた。
「暗いのが怖いのと、どっちがダサいと思う?」
「え?」
「見て、ほら、私の膝震えてるの」
咲の手を掴み、私は自分の膝に触れさせる。
情けないけれど、私の膝はずっと震えっぱなしだ。停電の瞬間から、叔父さんたちと向かい合ったあともずっとずっと震えが止まらない。
まだ震えが残るそこに触れ、咲がようやく笑う。
「そうだった。暗いところはあたし、火があるとこは、葵。おあいこ、だったのに忘れてた」
「懐中電灯、借りてきた。これ、ガラスに当てると明るくならないかな」
私は急な光で咲を驚かさないように先に告げて、懐中電灯のスイッチを押した。
懐中電灯の光がガラス天井に届いた瞬間、まるで映画館のスクリーンみたいに眩く輝く。上に見えるのは風で乱れる木々の葉だ。隙間から見える黒い雲だ。
夜は怖いはずなのに、光があって咲がいる。それだけで不思議なくらい勇気が湧いた。
「懐中電灯の上から布をかけると、光が広がって明るくなるんだって」
立てた懐中電灯に布をかけると、光はもっと柔らかくなる。
その光に抵抗するように桜虫がぴょんぴょん跳ねて赤い光を放った。まるで自分たちがいるから、懐中電灯なんて必要ない。というように。
その光の粒がくすぐったくて、私は目を細めた。
「うん、君たちも明るいけど、こっちも付けさせて」
「葵」
……と、咲が私の名前を呼んだ。その声がいつもよりも低く聞こえて、私は心配になる。また、熱が上がったのかと、そう思ったから。
「咲さん?」
「あたしさ。小学校んとき、家が火事になったんだ。夜……私が妹と喧嘩して、友達んちに泊めてもらった日に」
咲は震える左手で、右手の袖を捲り上げる。
「悪くなったコンセントのせいだったかな。ほんと、あっという間に」
ゆっくり、ゆっくり、咲の右手があらわになっていく。
いいよ、もういいよ。言いかけて、私はその言葉を飲み込んだ。その代わり、彼女の右手をそっと握りしめる。
咲の手が少し震えたけれど、彼女はまた袖をゆっくりと捲り続けた。
「起こされて家に戻ったら、火が、すごく……燃えてて」
咲の声が震えている。私は咲の右手から目をはなさないまま、彼女の肩をしっかり抱きしめた。
「大丈夫、続けて」
「家の中、双子の妹もいた。お母さんもお父さんも……あたし、火の中に飛び込もうとして、でも無理で、誰も、助けられなくて」
「うん」
「家がなくなって、それから、この町にきたんだ。爺ちゃんがいたから」
やがて、咲の右腕があらわになった。桜虫の光が彼女の腕を照らす。虫たちが、右手の上を跳ねている。
「見て、気持ち悪いっしょ、この腕」
「気持ち悪くない」
私はそっと、彼女の右手に触れた。
咲が隠し続けた、守り続けたそこは赤い。ただれて皮膚が縮れている。黒くなっている場所もある。
ざらりと固い感触が指に伝わる。痛みはもうないはずだ。しかし、見えない痛みがこの中にある。そんな気がする。
「気持ち悪くないよ」
私はその腕に頬を寄せた。驚いて逃げようとする咲の体を押し留め、私は彼女の腕の温度を頬で感じる。
生きている腕だ。
鼓動が聞こえる。
生きている音だ。
……生きていてよかった。そう思う。
そう思った途端、涙が溢れた。それは咲の腕に伝わり、傷の上をつるつると流れていく。
「気持ち悪くなんかない」
「葵」
「私ねお兄ちゃんが死んだとき、怖いって思ったんだ」
死。と口にする時、やはり胸の奥からどろりとした重い空気がにじみ出る。
思い出したのは、泣き声が響くばかりの葬式だとか、葬儀会場に向かうまでの暗い道。そして遠くに揺れる忌のマークが刻まれた提灯の色。
嘆く母を、悔やむ父を、私は傷つけてしまった。
「本当は悲しいって言えばよかったんだって、後で知ったの。それから両親に捨てられて、真っ暗な部屋に残されて」
「あたしさ、ここに来るまでさ」
咲の左手が、私の頭をそっと撫でる。恐る恐る、段々と優しく、力強く。
「……ずっと一人だと思ってた」
「私も」
「一人じゃなかったんだ」
泣き顔を見られないように、私は慌てて体を離した。と、鼻先にトマトの香りを感じ取り、夕ご飯がまだなことを思い出す。
「あ、そうだ。イワシのスープができたんだ。こっちに持ってくるね」
ベッドから降りた瞬間、指が机に当たって上のものが滑りおちた。
あっという間に床に滑った本を見て、咲がふと目を丸くする。
「それ、ドレスの本。持ってきたんだ」
それは、例のドレスの本だ。教科書の間に挟んでいたので、叔父さんがそのまま持ってきたのだ。
慌てて本を抱きしめると、咲が微笑んだ。
「本当にその本、好きなんだ、葵」
「に……似合わないし、着ないけど……」
「好きな服が一番似合う服だよ」
隠そうとする私の手を止めて、咲が熱っぽい手で本をつかむ。
そして懐中電灯の光を頼りに、ゆっくりとページをめくった。
「あたしさ、ずっと夢がなかったの。妹みたいに運動とかできないし。将来何になりたいとか、わかんなくて。妹はさ、おとなになったら金髪にして、モデルになるんだって言ってた」
「金髪?」
「あの、写真の。そ。黒くて俯いてたほうがあたしね。金髪が妹。あれはウイッグだったけど」
咲の家の台所に置かれていた写真を、私はぼんやり思い出した。写っていたのは金髪の少女と黒髪の少女だ。
咲は無邪気にドレスの本をめくり、めくり。やがて笑顔を私に向けた。
「決めた。あたし、ドレスのデザイナーか、パタンナーになる」
「ぱ……?」
「ドレスとか洋服作る人」
「え」
「この部屋、ミシンあるじゃん。あと糸とか。そうそう、布もそこにあった」
言い出したら、咲の動きは早い。
熱で顔を赤くしたまま、立ち上がる。
「ちょっと、熱まだあるのに」
「やりたいことはやりたいときにしなさい。って、きっとせんせーならそう言うって」
心配する私をよそに、咲は籐籠の中に詰め込まれていたハギレを取り出し、ベッドの上に並べて見せる。
「ほら、めっちゃいいじゃん」
「これハギレだよ。布だけど、大きくないし、全然足りない」
「んー。色がいっぱいで綺麗だし、並べたらドレスっぽくなるかなって思ったけど無理かあ。繋げたら、どう?」
咲は目を輝かせて首をひねる。ベッドに並べられたハギレは赤に黄色に緑。なんとも奇抜な色の組み合わせだ。
「そういや授業でやったじゃん。変な紙にペンで線をひくの……あれ、思い出せないかな。あれで半分くらいドレスつくって、下のスカートは元々あるスカートに布足してふわふわにしてさ。そしたらすっごいドレスが作れない?」
咲の勢いに押されるように、私は鞄を開く。
数学、社会、国語。その下に紛れているのは家庭、と書かれた教科書だ。
黄色の花が一面に咲き乱れたポップなそれを引き出して開けば、中には洋裁。と書かれたページがある。型紙の用紙もしっかり間に挟まれていた。
「教科書も役に立つじゃん」
「う、うん。でもこれで、作れる、かなあ……?」
咲はベッドの上にあぐらをかいて、にやりと笑った。
「あたしがさ、葵にドレス作ってあげる……それで、葵はさ、あたしにお菓子作って」
「おやおや。何をしているのかと思ったら」
賑やかな声に惹かれるように、満月先生が寝室を覗き込む。布団を被る私たちを見て、満月先生の顔がほころんだ。
「まるで秘密基地ですね」
「せんせー。あたしたち、ドレス作ろうと思ってるんだ。裁縫道具、これだけ? もっとある? ここにある布を使っても良い?」
「最初から作るのも素敵ですが、今あるものを修復するのはどうでしょう」
満月先生は二人の間を通り過ぎ、奥にある年代物のチェストに手をかける。
「こういうのは、いかがですか?」
そして彼女は中から一枚の布を取り出す……それは輝くようなドレープを持つ布。
懐中電灯と桜虫だけが光る室内で、ドレスの裾がワルツでも踊るようにゆっくりと舞った。
「……え?」
目の前で広がった布の動きを見て、私は息を飲んだ。
紫の柔らかいシフォン。裾にかけて広がる、見事なドレープ。
腰のあたりを揺らめくレースのリボン、胸元の花のモチーフ。
「これ……」
薄闇で見るからこそ美しい。そうだ。これはナイトパーティ用の、カクテルドレス。
そして、そのドレスは……。
「満月先生。この……ドレスって」
呼吸を忘れたように、私はドレスの本をめくる。
ページはすでに暗記している。目的のページを開けて私はそれを見せつけるように、満月先生に向ける。
「ドレス……の、本、これ……」
写真集のちょうど真ん中。そこに目の前にあるものと全く同じドレスが載っている。
私が気に入っている紫のドレスだ。髪をぴん、と詰めた女性が胸を張ってドレスを纏っている。
月の貴婦人。そんな名前が付いたドレス。
「なぜこのドレスを着る女性たちの顔が、明るいか分かりますか?」
満月先生はじっと、ページを見つめる。少し目を細め、ドレスを胸にあてたたまま、ダンスをするように数歩、進む。
「デザイナーが彼女たちに一番似合う、美しいものを考えて考えて、創り上げたからです」
彼女が動く度に、裾が揺れた。懐中電灯の淡い光の中、影が揺れる。
美しく、ただ、美しい。
「愛されたドレスを纏う。これが一番の自信になると彼女は言っていました」
「彼女って」
「桜虫憑きの相棒であり、そして」
満月先生の手が、ページをめくる。
最後のページに掲載されたモノクロの女性の写真。
「私の親友です」
満月先生はその写真を、愛おしく撫でた。
「私が高校生の時、彼女は学校の実習生でした。20歳でね、縫製が得意でした。そしてその年、不思議なことに私と彼女、二人に虫が憑きました。2人に憑いたのも、成人を越えた女性に憑いたのも、初めてのことでした」
寝室のベッドは広い。三人で並んでも十分な余裕がある。
真ん中に裁縫セットとドレスを置いて、満月先生は淡々と語り始めた。
サイドテーブルにはイワシのスープと少し酸味のある黒パン、そしてお茶が置かれている。ベッドの横に食事が置かれているのはなんとも背徳的で、ドキドキする。
ベッドサイドで食べるのは今日だけ特別ですよ、と満月先生は念を押したけれど。
ベッドには裁縫道具も全部積み上げて、周囲には懐中電灯をゴロゴロ転がした。
ドーム型の屋根の向こうではゆっくりと夜が進んでいるが、部屋は昼みたいに明るい。
私と咲は熱々のスープカップを手で包み込み、ふうふうと息を吹きかける。湯気が冷え切った鼻の先を温める。
少しだけ時間を置いたスープは、不思議と酸っぱくなかった。お醤油のせいなのか、時間をおいたせいなのか。
もったりとした赤いスープの中に、いくつも沈むイワシのつみれ……噛み締めると、ほろりと崩れて私の体の中に沈んでいく。
「虫送りの年、私は不幸でした。そして彼女もね。でも私は桜虫に救われて、彼女も救われました」
満月先生は冒険も過去を語らない。ただ淡々とドレスを私の体にあて、採寸し、ノートに数字を書き出していく。
「ねえ咲さん。このドレスは美しいけれど、葵さん用になるなら、もっと可愛らしくしましょうか、思い切って裾も切って」
「うん。あたしもそう思ってたとこ」
イワシのスープを美味しそうに噛み締めて、咲がいう。
熱はまだあるようだが、すっかり元気な様子だ。家庭科の教科書を開き『ワンピースの作り方』のページを真剣に見つめている。
「え、切っちゃうなんて……」
「きっと彼女も賛成するはずです」
咲は目を輝かせ、山と積まれたハギレとドレスを見つめている。
満月先生は祈るように空を見上げたあと、大きなはさみでドレスの裾を切り捨てる。
「……彼女は虫憑きのあと、教職を辞めました。夢だったドレスのデザイナーとして独り立ちしたのです。厳しいお家だったので反対されて、反対されて、それでも夢を諦めなかった。だから私も彼女についていこうと決めました。有り体に言えば家出ですね。私の家も厳しかったので」
裾を切られたドレスは、それでも美しかった。
まち針を取り出した満月先生は、咲にいくつかアドバイスをして、針を選ぶ。
咲は慌ててスープを完食し、満月先生の言う通りにノートに何かを書き出していった。
「家出……?」
ええ。と満月先生はうなずき、ドレスを伸ばす。
「もちろんあの人も最初は反対していましたよ。私はまだ子どもでしたし。しかし、私はしつこいのです」
満月先生はいたずらっぽい顔で、にこりと微笑んだ。
「……そして10年だけ一緒に生きて」
「生きて?」
「あの人は死にました」
私の心臓がどきりと跳ねる。咲の手も止まった。
私はふと窓の外、庭の奥を見る。
奥にあるという墓。それはきっと彼女の墓だ。
「でも不思議と寂しくはないのです。一緒に住んだ10年と、出会いからの数年。あの人と過ごせたことで、もう十分に幸せなのです……おや」
ふと、満月先生が手を止め、鼻を鳴らした。
「夜の匂い。ずいぶん遅い時間になりました」
はっと気がつけば、空の色が濃い。ここには時計がないので時間はわからない。ただ数週間暮らすうちに、時間の放つ匂いのようなものを感じるようになっていた。
夜の匂い、朝の匂い。そんなものが、ここにはある。
満月先生は空っぽになったスープ皿を片付け、温かいお茶を私たちの前に置きなおす。
「夢中になりすぎました。さ、水分をとってください。桜虫は植物なので、水分を欲するのです。どんどん喉が渇きますよ。これからはこうして、枕元にお茶を置いて寝たほうがいいでしょうね」
「でもせんせーまだもう少し」
「満月先生、あと少しだけ」
「駄目駄目。睡眠は大切ですよ」
ぶうぶうと文句をいう間にベッドに押し込まれ、あっという間に肩まで布団をかけられる。その素早さに私は思わず笑みをこぼした。
横を見れば咲も、くすぐったそうに笑っている。
「せんせー、二人で山いった時、どんなだったか教えてよ」
「これまで何百年も、いろんな人達が桜虫を返しに行ってるんですよね。テキストとかないんですか?」
「さっすが葵、すぐテキストって出てくる」
「だ、だって」
赤くなる私の頭と、起き上がろうとする咲の頭。私たちの頭を優しく撫でて満月先生は微笑む。
「テキストはありませんよ。春ごとに、見えるものは違うのです。だから誰もメモになんか残そうとは思わなかった。でも冬から春に移り変わる瞬間を見られるのは、虫憑き少女だけの特権です」
ぴょん、と虫が抗議するように満月先生の指に絡む。その赤い色を見て彼女は苦笑した。
「ああ、もちろん、桜虫も」
「この子たち、木についたら死んじゃうのに、怖くないのかな」
「この子たちが生まれるのは、満開の桜の枝からと言われています」
私は見たこともない桜の木を、思い浮かべてみる。山の上にあるという大きな木。それはどんな木なのだろう。
「美しい桜とともに生まれ」
きっと見たこともないほど、美しい桜の花を咲かせる木に違いない。
「やがて自分たちが春を呼ぶ風となる」
「呼ぶ……」
「命は循環する」
満月先生の言葉を繰り返し、私は枕に顔を埋める。
死んだ兄も、死んだ咲の家族も、そして満月先生の親友も……もしかすると循環しているのかもしれない。そう思うと恐怖が少し安らいだ。
なんてことはない。
ただ、私は消えてしまうことが怖かったのだ。
この世から忘れ去られて、消えてしまうことが。
「では。おやすみなさい」
ぽんぽんと布団を叩き、満月先生が立ち上がる。今宵が終わらなければいいのにと期待を込めて彼女を見上げるが、満月先生は背を向けたところだ。
「約束事をもう一つ増やしましょう」
……しかし、彼女は立ち止まった。
「晩ごはんの時間を1時間早くして、そのあと、咲さんと私はドレスをなおす。葵さんは、晩ごはんの片付けと、私達のためにお茶とお菓子の用意をする。もちろん、甘くないお菓子も一緒に」
満月先生が用意したティーポットの中、葉がゆらゆら揺れている。
懐中電灯の光を受けて、まるで踊るように。
「そうして、お茶を飲みながら、最高のドレスを仕立て直すのです」
こうしてこの家に、素敵な約束事が一つ増えた。
それは春がくる、2ヶ月前のことである。




