6-4
その頃、典生と磯貝は十分と言わず、ほんの目と鼻の先にいた。近場で秀也が溜まるところにはある程度見当がついていたし、もし電話に出なかったり、全くの遠方にいるのであれば、今日はそっとしておこうと決めていたのだ。
「じゃ、入ろうか」
「…だな」
多少の気まずさを引きずったまま、磯貝は答えた。今日だけはここにいなければいいのにとこっそり願っていたのだが、それは叶えられなかったらしい。裏口のノブを回すと、静かな音が流れていた。表にポスターの貼ってあった「サテライト」の音だ。
「おっさん達、相変わらずみたいだな」
「うん、いい音だね」
後ろでスチールのドアを閉めた磯貝を見上げながら、典生は笑んだ。
「?」
整ったハーモニーに妙な不協和音が混じったような気がして、磯貝は足を止めた。
「どうしたの」
「今、何か変な音しなかったか」
「リハだから色々やってみてるとか」
「いや、何か普段おっさんらが使わないような音」
二人は時折混ざる音を聞き取ろうとしていた。
トン、トコトコ、トコトコトン。
「太鼓?」
「それ系。おっさんらは藤本さんのドラムだから」
リハ中であろうフロアのドアは無視して、二人は更に奥に進んだ。挨拶は後でも構わないだろう。
「ここ」
典生はある部屋の前で立ち止まった。先程より聞き取りやすい音が、部屋の中から聞こえている。磯貝はニッと悪戯っぽく笑うと、ノックもせずにそのドアを開けた。
「秀也、ギター教から宗旨替えすんのか…っと」
ドアを押さえた磯貝の目に入ったのは、いつもの見慣れたのっぽではなかった。問いかけに振り向きもせず、入り口に背を向けて四角い箱に跨って夢中になって叩いているのは少年…?ちなみに、この四角い箱というのはウッドカホンという打楽器だ。箱の後ろには穴が開いていて、叩く位置や強さによってその音を変える、原始的ながら面白い楽器である。
前傾のまま鼻歌交じりにリズムを刻んでいる。歌っているのは特に聞きなれたフレーズではない。どうやら即興のようだ。
「あ…れ?君は…」
典生も学生時代はこちらでお世話になった口だが、その間のバイト仲間ではこんな人物は思い当たらなかった。ようやく侵入者に興味を向けたらしい湶琉が歌うのをやめて振り返ろうとした時、秀也が入口をふさいでいた二人に声をかけた。
「お前ら、どっからわいて出た」
尻上がりの問いかけで、笑いながらも驚きを隠せない表情で現れた秀也は、長い足を十分に活かして大またで戻ってくるところだった。その声に気付いた二人は部屋の中に進めようとしていた足を戻し、再び宝物庫の外に出た。
「よぉ」
磯貝は声だけ軽く返し、典生は声には出さずに笑顔で返した。
「えっと、今から出るか」
「あぁ。で、用事は?」
まだ微妙に目を合わせようとはしない磯貝の問いに、秀也は隔たれたドアの向こうを立てた親指で示した。
「…預かり物」
「えっ?」
「やんごとなき理由で、今、社会見学させてやってるんだ」
「ということは、ここを出るなら一緒に連れて行かなきゃいけないってことかな」
「だな」
「何者?」
「えっと、大学生」
「で?」
「実はオレもよく知らないんだ」
「は?」
「婆ちゃんに頼まれた」
「「あぁ」」
その一言で二人は顔を見合わせて頷いた。あのお婆さんの命令なら秀也にとっては絶対だから、有無を言わせず何やら引き受けさせられたに違いない、と。
「とりあえず、紹介してくれるかな」
そう言うと、典生は宝物庫のドアを開けた。今度は湶琉もこちら側を向いてカホンに腰掛けていた。
「湶琉、こいつらがこの前話してたダチ。丁度いいから一緒に出かけようぜ」
「秀也、お前何をどう話したんだ」
磯貝はジロリと横目で秀也を見やる。秀也はとりあえずそれをスルーして紹介を続けた。
「こっちのデカくて眼鏡かけてるのが磯貝。ガイって呼ばれてる。で、こっちのくるくるパーマで小さいのがテン。ホントは典生って読むんだけど、辞典の典だからテン」
「小さくないよ」という典生の小声の抗議はさておき、秀也は旧友二人に向き直った。
「こいつが湶琉。しばらく色んなところに連れて回る予定だから、ヨロシク」
淡々と自己流の引き合わせを済ませると、秀也は場繋ぎの笑みを作った。三人は秀也のペースに乗り遅れたようで、どの顔もぽけっと間の抜けた表情をしていたが、一番飲み込みが早かったのは典生のようだった。
「よろしく、湶琉クン」
座ったままの湶琉に笑顔で握手を求めると、湶琉は未だきょとんとしていた。そのぱちぱちと慌しいまばたきの度に前髪が目に刺さっているように見えたので、典生は湶琉の前髪を横に流してやろうと手を伸ばした。すると、湶琉は首をぐんっと一つ振って、触れられることを拒んだ。
「おいっ」
磯貝が前に出ようとするのを、振り返った典生が笑顔の首振りで制した。
「もしかして、ちょっと苦手なんだね。多分、触れられるのとか。ごめんね」
典生はそう言うと、近付いた分を一歩下がった。湶琉は何も答えることはせず口元をきりりと引き絞り、典生に視線を置いたまま瞳を潤ませてじっとしていた。そのまま下を向くと涙がこぼれるだろうギリギリのところで。
妙な緊張感に耐え切れず、秀也は話を逸らすために坂田が言っていた話を持ち出すことにした。
「さっきな、サテライトの坂田さんが言うんだよ。お前ら、サントラもいいけどボーカル曲も作れって。で、湶琉みたいなのをボーカルにでも入れろなんてさ。無っ責任だよなぁ」
「坂田さんがそんなことを?ふぅん。まぁ確かに試験的にそういうのを作ってみてもいいかもしれないけどね。ガイも売り込みに本気になってきたことだし。ほら、CDを送りつけるのにサントラものバージョンと歌ものバージョンを作って、それぞれの評価を試すのもいいんじゃない。これも市場調査、ってさ」
「ただ、その場合は」
「ボクが新曲作んなきゃ…だよね」
典生は微苦笑した。秀也もばつが悪そうに下を向きながら頭を掻いた。
「歌詞、どうする~」
「美代子に相談してみるよ。それより…」
典生は湶琉を見やった。
「歌ってくれるの?」
典生の視線に湶琉は壊れた扇風機のように激しく首を振った。その様子を見た典生と秀也は、顔を見合わせてクスリと笑った。
その時、磯貝は一人、眼鏡の奥で違うことを考えていた。
(こいつ、もしかして)
(そうそう同じ名前もないだろうし)
(いや、でも…あるか?)
「湶琉」
低く、声をかけたのは磯貝だ。
「お前もしかして…、東谷一中の…大里?」
湶琉は息を呑んだ。目が焦点を失うと同時に頭の中で警報が乱暴に鳴りだし、自分の意識とは無関係に膝や腕の関節から指先までガクガクと震えはじめた。答えを返そうとした口も顎に力が入らなくて、しゃくりあげるように咽喉がひゅーひゅーと音を立てるだけ。カホンにバランスよく座っていることすら危うく、背中でずるずると滑るように伝い降りて床にへたり込んだ。
「湶琉クン!」
典生が触れた時には、既に湶琉は自分を失くしていた。人形のようにコトンと横倒れになった湶琉は、雪山で凍える人のように全身を不規則に震わせていた。目は開いているが、見るためのものとして機能しているかはわからない。溜まっていた涙が機を得たりと頬に流れ出している。
「ちっ」
磯貝は軽く舌打ちをすると、湶琉の後ろに回って身体を軽く起こし、自分に寄りかからせるようにして背中から抱き込む形で気道を確保した。
「痙攣を起こしてるな。とりあえず、タオルかなんか持ってきてくれ」
「あぁ」
磯貝の指示で、店の中なら知り尽くしている秀也が動いた。
「車、取ってくるから」
近くのパーキングまで乗り付けてきた車を取りに典生も出て行き、部屋には湶琉が動く時の衣擦れと息遣いの音だけが残された。磯貝はこれで大丈夫なのかと不安を感じながらも、腕の中の湶琉の震えをただじっと受け止めていることしかできなかった。それらしく動いてはみたものの正しい対処法など知る由もないのだ。目の前の額には玉のような汗が浮かび、筋になった髪をじっとりと貼り付かせている。その額の汗を大きな手で無造作に拭い、そのまま前髪を流してすっきりと広いおでこをあらわにすると、表情がより覗き込みやすくなった。今は閉じている瞳は、睫毛が濡れて艶を増している。相変わらず引き攣るようにしゃくりあげる不規則な呼吸は荒い。
「湶琉…。お前、どうした…」
右腕できつくない程度に肩を抱き、左手で湶琉の震える腕ごと押さえつつ、立てた膝の間に楽な姿勢へと抱えなおすと、そのまま抱く腕に力を込めた。腕の中で震えて跳ねる身体は夏なのに冷たい。出る汗がどんどん冷やしていくのかもしれない。脱水症状になる前に水分を補給したほうがいいのかもと思うほどにひどい汗だ。出て行った二人が戻ってくるのが無性に待ち長かった。こんなことくらいで人が簡単に死ぬわけがない、そうわかっていても怖かった。じっとりとした冷えを感じさせる肌を抱えていることは、磯貝の焦りを煽った。耳に入るのは湶琉の荒い呼吸と部屋向こうから聞こえるくぐもったサテライトの音だけである。演奏中の静かなバラードは、時間の流れをあえてゆっくりと操ろうとしているかのようで、じりじりともどかしさを感じさせた。肩に置いていた手を移動させ、何度もよしよしと頭を撫でるが、震えは一向に落ち着いてくれない。
(土曜の午後で開いている病院は…、急患だってねじ込めばなんとかなるか)
いつものポーカーフェイスに渋面を上乗せして、眼鏡のずれを直した。
「おい、これで…」
秀也はぐっと生唾を飲み込んだ。タオルを手に慌てて駆け込んできたところが、見てはいけないシーンに割り込んだような所在無さを覚えて、それ以上進めなくなったのだ。
湶琉が痙攣を起こして、それを磯貝が拘束している、そういう緊急事態の図だったはずだ。理性ではそれを重々承知しているはずなのに、どう見ても二人が何らかの意図を持った関係であるように見えてしまう。それくらい絵になって見えたのだ。ガタイのいい磯貝の腕の中に、湶琉の細身はすっぽりと収まっている。このまま顔を近付けてキスをするんじゃないか、そう考えても不思議じゃないくらいの親密さを二人の様子に感じ、言いようのない疎外感が秀也の胸を冷やした。
(何でガイがこんな…いつもならボランティアなんてガラじゃねぇくせに)
(って、男同士だってのに何を邪推してんだ、オレ!)
「どうしたの」
パタパタと走ってきた典生が、視界をさえぎるように入り口で固まっていた秀也の肩を叩いた。
「タオルね、ありがとう」
秀也の反応の鈍さゆえに、典生は一つ微笑を向けてからタオルをするりと抜き取ると、速やかに二人の傍に駆け寄った。湶琉の顔や首筋に浮かぶ汗や流れた涙を拭いて、磯貝の顔を覗き見る。
「で、どう?このまま車に運べる?」
「あぁ」
「病院って、どこかまだ開いてるかな」
「今夜ここでイベントなんだろ。とりあえず、おっさん達に迷惑がかかる前に出ようぜ」
「そうだね」
カクッと湶琉の首が傾き、震えの終わりを告げた。
「…え?何、今の。これって…落ち着いたの?」
「かもしれん、重くなった。おっ」
湶琉の口元からつぅっとよだれが伝いそうになったのを、反射的に磯貝は親指の背で拭いていた。
「しょうがねぇやつだな」
そう言うと、指先に余る雫をぺろりと舐めた。
「あ、ごめん。タオル」
典生が差し出したタオルはちょっと遅かったようだ。磯貝は笑いながらぱたぱたと手を振って乾かしている。
(は~~~っ!?マジで、どういうこと!?)
秀也はこの行動を見て、更に固まっていた。
「ほら、おっさんに挨拶してこいよ。こいつ運び出しとくから」
完全に眠ってしまった湶琉を横向きに抱えなおそうとしながら、磯貝は当たり前のように秀也に言った。
「あ、あぁ」
友人らの視界から隠した位置で、秀也の無意識のうちに握り締めたこぶしは汗ばんで小刻みに震えていた。しかし、その気持ちの奥の引っ掛かりを今考えるべき時ではない。そう下腹に抑え込むと、「任せる」と背を向けて、秀也はフロアの面々への挨拶に向かった。