6-2
「ちは~」
従業員入口から通いなれた店の中に湶琉を招き入れる。中からは特に返事はないが、リハ中らしい演奏が聞こえているので人はいるようだ。むき出しのコンクリにイベントのポスターがベタベタと貼ってある通路を抜けて二つ目のドアを開けると、オーナー他数名の見知った顔に会った。このドアからフロア内に入ることができるのだ。
「お?秀ちゃん」
「お前休みじゃなかったっけ」
彼らのライブにはSEEDSスタッフとして何度も関わってきているので、他の0Gメンバーともどもしっかり顔を覚えられている。それゆえ口利きも軽い。
「ちはっす。すんません、リハの邪魔して。今夜でしたよね」
「そうそう、こいつがなかなか乗らんでな」
客入り前のスペースで、今夜の演奏予定のバンドの面々が楽器を手にしたまま、こちらに視線を向けている。昔馴染みのメンツが揃っているので、今日はオーナーも管理者として同席しているようだ。決してガラがいいとはいえないどちらかというと強面の多い「サテライト」のメンバーは、座っているだけでも男臭い独特のニオイを放つ。中には珍客の到来をこれ幸いとタバコを吸いに逃げるメンバーもいた。
「楽しみにしてたんっすよね、オレ。しばらくここにいてもいいっすか」
「いいけど、珍しいな」
「つ~か、オマケ付き…なんですけど」
「あぁ」
オーナーだけが「例のヤツか」と眉根を歪めたが、それは秀也だけが気付く程度のほんの一瞬のことだった。秀也が半開きのドアに向かって手招きをすると、怒られるのを恐れているかのような俯いたままの湶琉がのっそりと入ってくる。
「お~い、なんやなんや」
メンバーの一人が、壁に張り付いたように立ったまま固まっている湶琉の様子を茶化す。
「坂田さん、ダメっすよ。こいつちょっと難しい奴なんで、ほどほどに見て見ぬ振りしてください」
「なんや、それ」
「訳アリなんだとよ。俺もよくは知らないが」
オーナーが助け舟を出してくれた。秀也はそれに乗る。
「えっと、こいつは湶琉って言います。ちょっと見学させてやりたくて」
「ふ~ん、喋れんとか」
「え、いや、その…」
「挨拶一つできん。こんな一人前の図体の奴が自分の口で喋れんのなら、そういうことやろ」
坂田の突っ込みは容赦ない。たれ目のくせに、キツい苛立ちを隠さない瞳で湶琉の様子を伺っている。湶琉は肩を強張らせ口を真一文字に結んだまま、顔を上げることすらできないでいた。
「例えばだ、坂田。自閉症とか引きこもりっていうのは、聞いたことあるか」
オーナーが割り込んだ。
「お前の考える常識の世界には生きてない奴だっているってことさ」
「こいつが、そう…だってか」
坂田は無精髭の顎に手を当てて皮肉屋の口を噤んだ。
「…悪かったな、小僧。聞きたきゃ聞いていけや」
ほんの少し和らいだトーンを耳にして、湶琉のカチカチに強ばっていた肩の力が半分だけ抜けた。それでも肺に酸素が入ってこなくて息苦しいのは変わらない。返事をしようにも、息が詰まってしまって声を出せないのだ。
秀也は湶琉の傍に寄ると、ぽんぽんと頭を叩いた。そのまま乗せた手をぐっと押して頭を下げさせた、と共に自分も一礼する。
「ありがとうございます」
「リハだから、面白いかはわからんけどな。まぁ、楽しんでいけ、な」
「はいっ」
秀也は二人分の笑顔で答えた。
湶琉は押さえていた手がポンッと軽く跳ねて離れたところで、ようやくゆるゆると顔を上げた。
ろくに見ていなかった店の中には壮年の男が五人。そのうちの一人が楽器を持たずに椅子に跨るようにして背もたれを抱え込んで座っている。さっきの声の位置からして、この人がフォローしてくれた人だろう、と考えた。そして、坂田というのがあの楽譜とにらめっこしている無精髭の人だろう。既に気持ちを切り替えて集中していて、部外者には一切の関心を失っているかのように見える。他のバンドのメンバーは、譜面か何かの資料を手に、時折打ち合わせをしては音を出している。
ウッド調の店内には、演奏用と思われる膝の高さくらいの段差のステージが作られていて、後は広めの客席だ。ステージには高さこそないが、照明用のライトや存在感のある大きめのスピーカーなど、演奏環境はそれなりに充実しているようだ。テーブルや椅子を端に寄せて、メンバーは真ん中に集まっていた。
「座るか」
秀也が椅子を差し出してきた。
「うん」
湶琉は素直に好意を受け取る。
「なんや、アイツ喋れるやんか」
「坂田」
どうやら集中はポーズだけだったらしい坂田が聞き耳を立てていたらしい。オーナーの日向も呆れたように形だけ咎める。湶琉は思わぬ視線を再度浴びたことでひゅうと息を飲んだが、この場の空気がさっきよりも穏やかなのに気付いていた。一つ大きく深呼吸をして、咽喉を震わせた。
「すみません、おれ…緊張症で声が出せなくなることがよくあるんです」
「おぉ!」
どこからともなく感嘆の声が上がる。誰もここで湶琉が喋りだすなんて思っていなかったからだ。しかもぼそぼそと陰気な声じゃなく、なかなか通りのよいハスキーなボーイソプラノである。上げた顔は髪型こそザンバラでも、そこには眼力の効いた不思議な引力があった。あえて表現するとすれば、少年の危うさを保った孵化しかけの蝶のような繊細さと、更に脱皮して化け物になりそうな未知数を小さな身体の中に押さえ込んでいる、というところか。しかし、細い。細すぎて危なっかしい身体つきだ。
「おい秀也、こいつ何処の隠し玉や」
坂田が茶化す。
「は?隠し玉って何すか」
「こりゃまた磯貝とは違う種類の美人さんや。お前、手駒よすぎるやんか」
「って、意味わかんないんすけど」
「だから、お前んトコ、こういうのをボーカルに入れたらいいったい」
「は?」
「お前らはそこそこうまくなった。曲もまぁいけるし、お前がスタジオミュージシャンになりたいなら、今の程度でやっていきゃあいい。ただ、バンドとして見れば、正直押しが足りん。『お前らやないと!』って、そういう押しがないんやな。お前らのやるサントラみたいなのもいいけど、耳流しの気持ちよさやろ?やっぱり歌もないとファンはしっかり付かんし。考えたことないとや」
「いや、うん…そうかも…ですけど…」
秀也のいつもの快活さが嘘のように、しおしおと語尾が縒れていく。考えたことがないわけじゃない。ただ、瀬戸際めいた話を日に何度も聞かされるのはちょっとキツかった。
「おれ、無理ですよ」
勝手にネタにされた話に割り込んで、湶琉はきっぱりと言い放った。
「そもそも人前に立つのなんて、さっきのでさえいっぱいいっぱいだったのわかるでしょう。その上歌うなんて無理ですよ」
「面白い奴やな。無理って言ってる割には饒舌やんか、お前」
「そうだな」
坂田の突っ込みにいかにもと日向が苦笑しながら被せてくる。
「ドーン!俺の直感が命ずる。お前は歌わないかん」
びしっと指をさされて顔を引きつらせた湶琉は更に怯む。
「笑う音楽マンや」
「パクりだろ、おい」
「知ら~ん」
大人達は勝手に盛り上がっていた。
「えっと、オレ、茶ァ淹れてきます」
とりあえず預けておいても大丈夫だろうと、秀也はお茶の準備を理由にその場を後にした。
人数分のコーヒーを用意して戻ってきてみると、坂田達の演奏が始まっていた。湶琉は日向と並んで部屋の隅に用意された椅子に腰掛けていた。あくまで行儀よく、ただ静かに聴いている。真剣そのものの横顔で、意外にも身体はリズムに合わせて素直に揺れていた。
リズム&ブルースの渋めのサウンドは相変わらずカッコいいと秀也も聞き惚れる。なんでこの渋さが女にはわからないかなぁと思うくらい、彼らの客席には男の方が多いのが常だ。もしいたとしてもカップルで、女性同士で聴きに来ている客は稀だった。前にそんな話をした時、「女は音楽よりも、わかりやすいイケメンの方が好きなんだろうよ」と坂田が嘯いていたのを思い出す。
曲が終わって、静かに座っていた二人が拍手をした。それで我に返ったように秀也も拍手をする。
「やっぱ、巧いっすわ」
「伊達にこれで飯食ってねぇよ」
「は~~~~~」
言葉を返す代わりに感嘆の息を吐く。
「やっぱりさ、観客がいると手は抜けんしな」
「お前いつもリハは流すくせに」
「パッションは本番用に溜めとく主義やから」
「んじゃ今のは」
「えっと、今日こいつに出会った記念に捧げてみた」
「くっせ~」
「つかイタイ」
一曲だけのステージを終えたメンバーは相変わらず口が減らない。ミュージシャンなんて、いくつになってもガキの集まりだ。わいのわいのと騒いでいられるうちが花。皆が口を噤むようになれば、その先には解散が待っている。
口に出せない時は音で出す。態度で示す。何かを壊してでも隠さずに伝える。それができなきゃ仲間じゃない。このスタイルは秀也にとって理想だった。秀也達「0G」よりもキャリアの長い彼らがどれだけの荒波を超えてきたのか想像すらできないが、それでも、できればいつまでも、彼らのようにこうやって軽口を叩き合ってぶつかり合える仲間でいたいと思う。
「なんかいい匂いだな」
「あ、はい。コーヒー入ったんでどうぞ」
トレーにバランスよく乗せてきたカップをそれぞれが受け取りに来た。ドラムスの藤本だけは、動きにくそうだったのでこちらから運んでいった。
「お、ありがとな」
「いえ、こっちこそカッコいいやつ聴かせてもらって」
「って、お前途中からだろうが」
「聴こえてたっすよ、あっちでも」
「そうか」
藤本は熊のようなボディビルダー体形を揺らしながら豪快に笑った。
「お前らはどうだ、最近」
一口飲みながら尋ねてくる。
「ぼちぼちっす…かね」
「か~っ!若いのに勢いがねぇな。ガンガン行けよ、ガンガン」
「そっすよね。案ずるより生むが易し、か」
「撃沈しても治りは早いだろう」
「できれば、したくないんすけど」
「その年で保険を考えるな、ウツケ者が」
「はい~」
今日は星の巡りが悪いのか、あちこちで叩かれる…と苦笑いしながら、秀也はトレーを脇に抱えた左腕を右手で掴んだ。視線を移すと、さっき二人分のコーヒーを受け取った日向が、その一つを座ったままの湶琉に差し出していた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
スティックシュガーにミルクとマドラーを添えて渡してくれる。
終わったステージに視線を向けたまま頬を紅潮させ耳まで真っ赤にしていた湶琉は、興奮も冷め遣らぬ様子で言葉を紡いだ。
「おれ、こんな風に生で演奏を聴くのは初めてです。CDとかラジオではあるけど、こんなに身体ごと楽器になったみたいに音が響くなんて、すごく驚きました。凄すぎて…えっと、なんて言ったらいいのか」
「坂田ァ、よかったらしいぞぉ」
「おぅ、サンッキュー」
右手でメガホンを作っての日向の呼びかけに、離れた所から腕を振る声が返ってくる。
「自分ではやらないのかな」
坂田とのボディランゲージを終え、身体ごと向き直った日向が湶琉に尋ねた。
「楽器とか触ったこともないですよ。あ、音楽の授業でリコーダーくらい。でも不器用すぎて小指で押さえる時に何か変な音になったりして」
「確かに俺も笛はそう好きじゃあないな。同じ吹くならハーモニカの方が楽しい」
「吹かれるんですか」
「まぁな。これでも昔はステージで演ってた口なんだ」
「へぇえ」
湶琉は目頭からクルリと立ち上がった目をキラキラさせて日向を見つめた。
真直ぐに期待の眼差しを受けてドギマギさせられるのは日向の方だ。こいつの目はちょっと危ない、と一瞬身構えた。危ないというのはイってるとかそういう意味ではなくて、自分の問題。この目にじっと見つめられたら十中八九があらぬ勘違いをしてしまうだろう、という意味だ。そう前もってシールドを張れる程度には場数を踏んでいるので、顔にこそ出さないが。座りなおして、視線をいったんはずしてから、もう一度向き直る。
「聞きたいかい」
「はい」
「よしよし、いい子だ。ちょっと待ってろよ」
屈託のない笑顔の主に親指を立てたOKサインを出すと、素早い足取りで別室へと去っていった。
(あいつ、思いっきり尻尾振ってやがる。オーナーも妙に浮かれてるし)
遠目に見ながら秀也はくすっと笑った。こちらはポーカーフェイスなど元より不可能なので、その笑いを見咎められる。
「どうした?ヒデちゃん」
秀也はにやりと笑う藤本の存在をすっかり忘れていた。
「いや、ああしてちゃんと会話できてるのなんて、なかなか見られないんで」
素直に答えてしまう。
「そんなに…あいつの喋りはレアなのか」
「オレがよく知らないだけなんでしょうけど、難しいっすよ」
「じゃあ、俺も挑戦してくるとするか」
「え?え??ちょっと藤本さん!?」
止める声を聞かずに、のそのそと藤本の巨体が動いていく。あまりの横幅に湶琉の身体はその視界から遮られた。
「どうだ?さっきの曲」
日向が座っていた椅子をミシリと軋ませながら、藤本は湶琉の横に付いた。
「あの、えっと…最高でした。リズムがそのまま身体に入ってきて、血をどくどく動かす感じで。飲まれそうになる」
湶琉はブラックのままのコーヒーを一口飲んで息をついた。ちょっと顔を顰めたのは苦味にやられたせいだ。返答に満足げな藤本も同様に、残り少ないコーヒーカップを傾けて飲み干す。
「右脳タイプだな」
「へ?」
「多分、分析して頭で考えて動くよりも、感情でが~っと行動してしまうタイプだ。違うか」
「え?そ、そうかもしれません、どちらかというと」
「よし。そういうヤツは、こっちの人間だ」
藤本はだだっ広い胸をばんと威勢良く叩いて笑う。笑い収まって真顔になってから一言、ぼそりと呟いた。
「お前もやればいい」
「?」
「音楽だよ」
「……」
「音楽ってのはな、論理的に言葉で表現するのが苦手だったり、感情で行動を抑えられなくなってしまうヤツにはぴったりのオモチャだ。多分、お前の助けになるぞ」
「……」
秀也は二人のやり取りをのんびりと観察していた。オーナーとの会話の時ほど喋りはしないが、藤本の話をじっと聞いているようだ。反応の違いも面白いが、どうも湶琉は一人一人と真正面から向き合うタイプらしいとわかってきた。だから、その分下手なヤツには消耗させられやすいだろうし、そうでない人間とはいい関係を築けるのだろう。
(オレは一体どういう格付けになってるんだか)
秀也は自分で持ってきたコーヒーを一気に咽喉に流し込む。
(まぁ、何とかするさ)
口元に笑みを作ると、飲み終わりのカップの回収に動いた。