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たん、と後ろ手で生物室のドアを閉める。その残響すら消えないうち、俺は口を開いていた。
「おまえ、それどうした」
また生研部で。三島はそう言った。
だから部活が始まるまで待ったのだ。
だが、俺の問いかけに、三島は黙って笑うだけだ。諦めたような、それでいて受け入れたような、なんとも言えない表情が下を向く。もやもやした感情がこみ上げた。
「もしかして──」
何度も何度も、激しくかきむしった首の傷。なにがあったかなんて明らかだ。
だが、部外者の俺が、こんなことを聞いていいのか。どうしてもわからずに口をつぐむ。
ぐっとくちびるを噛み締めている俺を見て、三島はかすかに首を傾けると、微笑んだ。なんだかよくわからない、諦念みたいな笑みだった。
あんなにわかりやすかったのに、今の三島の考えていることが、俺にはちっともわからない。
口惜しさや様々な感情が、俺の口をひたすら重くした。長ったらしい沈黙があたりを満たした。
まだ、鞄ひとつ置いてない。入り口から一歩も動いていない。
そんな状況で、重苦しい、長い沈黙がじっとりと降りて。俺はとうとう、耐えかねて言葉を発していた。
「……母親か」
それが一番、確率が高い。
三島は曖昧に笑うだけで、なにも答えなかった。
答えこそない、だがいっさいの否定もまた、しなかった。痛切に悲しくなる。
(母親、なのに──)
どうしてだ。
俺は母というものは、世界で唯一やさしい存在だと信じていた。なのに。
やっぱり三島は俺より不幸だ、と思う。だって俺は、一度だけでも与えられることを知っていた。
なのにこの男は、たった一度もそれを知らされず、あまつさえ、こんなことさえ。
じわじわとこみ上げる感情に、ぐっと眉を寄せた。
視界の隅、首の傷が目に入る。三島はまだ笑っている。
それでも、硝子レンズ越し、不思議な色の危うい瞳。そこに底のない絶望、みたいなものが見えるのは、俺の気のせいなんだろうか。
「終わらせて、ほしかったんじゃないのか」
ぽつり、と声がこぼれていた。
三島がすっと視線を持ち上げて、俺を見る。
現象と関係ないじわじわした情動に任せて、手を伸ばした。目の前の首筋をそっと、指の甲でなぞる。
まだ痛みがあるのか、三島がぴくんと身を震わせた。痛ましさに、目が細くなる。同時に、ひとつの疑問が浮かんだ。
もし、あの母親が三島の首を絞めたとして。これだけ引っかき傷があるということは、三島は必死で抗った、ということだ。それこそ、死にものぐるいで。
(どうして──)
俺が首を絞めたときは、ひとつも抗うそぶりを見せなかったのに。終わらせてほしいと、時を止めてくれと、懇願すらしたくせに。なのに、なぜ。
問いかけこそしなかったが、俺の意図を悟ったらしい。三島はふっと表情を消して、黙り込んだ。
十秒ほど黙り込んで、細い指先が俺の手をやんわりと払いのける。小さな、とても小さな声がした。
「……なんでだろうな」
ぽつんとそれだけ言うと、三島はすっと身を翻す。俺から離れ、いつもの机に歩み寄り、とさりと鞄を下ろした。
参考書やノートでいっぱいだったはずの鞄の音は、聞いたこともないほど軽くなっていた。
ふ、と息を吐き、三島が顔を上げる。
「なあ。今日から行動実験だよな。まずは学習機能とか見るんだっけ」
「あ、ああ……」
なにもなかったみたいな顔。こんなのは大したことない、というような表情。
わざと気丈に振る舞っているのか、本当に平気だからなのか、なにか感情を隠しているのか。
はっきりとはわからない。ただ三島に聞いたところで満足のいく返事はこないだろう。それだけはわかった。追求を諦める。
それから、二人して飼育室代わりの準備室に移動して、マウスを出したり準備をしたりした。いつも通りの部活動。
「課題用のケージどこ」
「あそこの棚の、いちばん下。重いから俺が出す」
「じゃあ俺、記録の準備するから」
「おう」
まるで何事もないみたいな顔で準備を整えて、俺たちは実験にいそしむ。
平常のマウスとストレスマウスを同じ迷路のケージに入れて、動き出す様子を撮影する。ストップウォッチ片手にデータを書き留める三島は、相変わらずなにを考えているかわからない顔をしていた。
一時間ほどそれを続けた。実験は順調で、問題らしいものは見つからなかった。
こんなことばかりうまくいくのに、現実の生活は、なにひとつうまくいかない。あんまりだと思った。これが罰だというのなら、俺はともかく、なぜ三島が。
暗い表情の俺をよそに、あるていど仮説通りの結果を書き留めながら、三島がぽつっと言った。
「──たぶん、他の誰でもだめなんだ」
えっ、と顔を上げる。
三島は、片手で首筋を押さえて、じっと俯いていた。その顔は前髪で隠されて良く見えない。
ヘアピンであらわになった耳元にピアスが光って、でも、俺の現象がなにかを求めはじめるより先に、三島が口を開いていた。
「俺はおまえに、宗像だけに、傷付けられたい」
耳を澄ませてようやく聞き取れる、くらいの声。聞いたこともない、震えと掠れで、今にも消えてしまいそうな。
まるで心細い子供みたいな声音だった。よるべのない、心許ない存在が、手を伸ばせばすぐに届くはずなのに、すぐ傍の誰かの指先を掴むことすらできずに震えている、みたいな。
「っ……」
じいん、と胸の底でなにかが震えた。
視界の端でちらつく青いピアス、現象が呼び覚ますどろついた衝動と同じくらい強い、痛いような感情だった。
理由などひとつもわからない、哀切としか言いようのない情動が、こっぴどく俺を揺らした。
「どうして、俺なんだ」
こぼれ落ちたつぶやきを拾って、三島はふっと黙り込む。
分単位の、たっぷりした沈黙。マウスたちが動き回る、かたかたという小さな音。
長い時間をかけて、三島のくちびるがようやく、かすかにわななく。
「……さあ」
たった二文字。それだけを口にすると、三島はストップウォッチを止め、胸に抱えたバインダーにさらさらとデータを書き込んだ。
それきり、また実験に戻ってしまう。促す視線を送っても、もう何の反応もない。
俺は自分の中を満たす感情に戸惑いながら、押し殺すように作業を続けた。
結果ばかりが順調で、実験は成功しているのに、ちっともいい気分にならなかった。
日暮れまで実験を続けて、ようやく今日の分が終わる。
実験器具をすべて片付けて、バインダーの中身をファイルに綴じた。あとは簡単に餌や水の世話をして、ケージを準備室に戻すだけだ。
ざらざらとペレットを餌皿に入れていると、ふと、すぐ傍に人が立つ気配があった。
ちらりと視線を持ち上げる。目を伏せた三島が、静かな表情で立っていた。くちびるが動く。
「やっぱり俺、おまえんちに戻る」
「……」
絶対にだめだ。拒絶の言葉が、強烈にこみ上げる。淡く尖った喉仏の感触が思い出される。ベッドの上で俺を見上げた、蕩然としたあの表情も。
この男はだめだ、他の誰がよくても三島だけはだめだ。
この男は俺を破滅させる。悪魔みたいな天敵だ。
きっと三島にとっても俺は同じように天敵で、一緒にいれば互いに落ちていく。それがはっきりわかる。
(それでも──)
立ち尽くす三島の、襟元からかすかに覗く赤い傷跡が、あの切ないような苦しいような、どうしようもない哀切が、俺に抵抗を諦めさせる。
このまま家に帰したら、二度と三島に会えないような気がする。それはきっと間違っていない。
「……わかった」
破滅的な、ぎりぎりの選択肢を、それでも選ぶしかできない。
他の誰かの家に行けなんてこと、三島にはとても言えなかった。だってこの男には、まともに頼れる奴なんて、他には誰もいないのだから。
「ありがと」
あまりにも短い礼の言葉。その声に感情らしきものはほとんど見て取れなくて、三島はじっと俯いている。表情は前髪に隠されて、ちっとも見えなかった。
ヘアピンで留められた耳元にピアスが光る。ほとんど反射で動き出す獰猛な現象を、目を逸らすことで抑え込む。
俺だけに加害されたいと願う男。それを連れ帰って、俺は人間でいられるのか。
考えても無駄だと思った。どうせなにをやったって疲弊するだけだ。
現象も衝動も、母も父も三島だって、俺の思ったとおりになったことなんて一度もない。なにをしたってぜんぶ無駄だ。
ひどい無力感を胸に、俺は三島の後ろ姿が、準備室にケージを運ぶのを見つめていた。
筒に詰められたストレス負荷マウスが、かすかに手足をうごめかせた。




