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その次の日。俺はなにかの覚悟をして教室に入った。
もう二度と、三島は登校してこないかもしれない。それどころか、入ってきた先生が沈痛な顔で、今日は悲しいニュースがある、とか言い出すかもしれない。そんな覚悟だ。
だが、幸いにして俺の覚悟は空振りした。
昨日空っぽだった席には、ちゃんと三島が座っていた。一筋の傷が走った、腫れのやや引いた頬。鈍い赤がまだ残る口の端。ヘアピンで留めた髪の下、耳元で青いピアスが光っている。
ほっとするのを避けられなかった。思わず肩の力が抜けて、だがすぐに気を取り直す。
いくら三島が無事で安心したからといって、俺がわざわざ気にかける必要があるかといえば別の話だ。三島は俺に『時を止めて』もらいたがっている。関わるのは得策じゃない。
俺はつとめて目を背けて席についた。
友人たちといつものように笑い合い、三島などいないかのように振る舞う。
それでも、授業中ともなると話は別だった。
三島は俺より少し前に座っている。ホワイトボードを見ていれば、強制的に視界に入り込んでくるのだ。どうしても、気持ちや注意が持っていかれる。振り切ることは困難だった。
授業中、三島は教科書も、ホワイトボードも見なかった。あのタブレットさえも出さなかった。ただぼんやりと肘をついて、窓の外を眺めていた。授業を聞いているそぶりも、なにか問題を解く様子も、まったくなかった。
長ったらしい授業がようやく過ぎて、昼休み。三島は担任に呼ばれて、連れられるように教室を出ていった。
教室全体の、なにかあったのかと伺う空気、さざめきあう独特のざわめき。
だが、三島より重要なことなんて彼らにとってはいくらでもある。じきに、誰もがそれぞれの興味に戻っていった。
呼び出された三島は、十分もしないうちに戻ってきた。
からりと扉が開いた瞬間、視線がいっせいに三島に集まる。失われたはずの教室の興味が戻ってくる。
つい、俺もその注目に加わっていた。もっとかかるかと思っていたから意外だったのだ。
教室中の遠巻きな視線を集める中、三島は淡々と歩いて席についた。
その机には弁当もパンもなにもない。彼はなにもせず、ただ静かに座っている。
食事も飲み物も存在しない、空っぽの机の上を見て、つい複雑な感情が浮かんでしまった。
うちに来てからずっと、三島はまともに食事を取っていない。慣れない環境では食欲が出ないのかもしれない、家に帰ったらなにか食べられるかもと思っていた。
だが、こうして家に帰してみても、三島は昼食すら持ってきていない。この調子では、昨日だって食べたかどうか怪しいものだった。
(……くそっ)
俺は躊躇して、やめろと自分を振り切ろうとして、できなかった。友人たちに断りを入れ、惣菜パンを一つ持つと立ち上がる。ゆっくりと三島の席に歩み寄った。
机の上に影が落ちて、絶対に気付いているはずなのに、三島は顔を上げなかった。食事も読書もスマホいじりもしないまま、ただ淡々と座っていた。
「……ほら」
ぽん、と机の上にパンを投げ出す。やはり三島は俺を見ない。ため息。
「食え。おまえ、どうせ朝も食ってないんじゃねえの」
「さあ……どうだっけ」
疲れたような、ぼんやりした声だった。それきり、黙り込む。パンを取る気配もない。
俺はもう一度大きくため息をつくと、食え、と繰り返した。三島がちろりと俺を見上げる。
「食ったら吐く、ってんじゃなけりゃ、食え」
「……わかった」
痩せた指がびりびりと包装を破く。パンを両手で持って、だが三島はそこで止まってしまった。かすかに下を向いて、雑な前髪が目元を隠す。
俺はなんとも言えない感覚に耐えて、なあ、と呼びかけた。
「さっきの、なんだったの」
聞くつもりなどなかったのに、尋ねていた。
三島はゆっくりとパンを持った両腕を下ろす。くす、と小さな笑い声が聞こえた。
「面談がどうとか言ってたけど、断った。たぶん母親が学校に泣きついたんだと思う」
「……あっそ」
それを聞いて、俺はどうすればよかったのか。わからないからこそ聞かないでおこうと思ったのに。
もやもやした感情を持て余す俺をよそに、三島は小さく息を吐く。じっと下を向いて、パンを食べるか食べまいか、迷っているみたいな仕草だった。ため息をこらえる。
とりあえず、俺にできることはした。食うか食わないか決めるのは三島の領分だ。
そう判断して、その場を去ろうと踵を返したときだ。
視界の端に、ちらっ、と赤いなにかが見えた。
一瞬で、どこに見えたかも判然としないのに、妙に不自然なものを感じた。本当なら、赤なんて見えるはずのない場所、だったような。
とっさに立ち止まる。振り返り、視線を走らせて、俺はその色の正体を探した。
赤色はすぐに見つかった。パンを手にした三島を上から覗いて、襟の隙間からちらりと見える首筋だ。
まだ新しい赤い傷が、何本も走っていた。
水平じゃなく縦の傷が、首の前側に集中している。
(え……?)
首の前側に何本も重ねてつけられた、数センチにわたる縦の傷。
どこかで、そうだ、フィクションで何度も見たことがある。
まるで首を絞められたとき、必死で抵抗して、何度もかきむしった跡、みたいな──
「ッ……!」
ぞっ、とした。
一瞬で血の気が引いた。
あの夜の、三島の瞳を思い出す。
硝子レンズを通さない、不思議な色のきれいな瞳。喉仏に食い込んでいく親指。終わりにしたい、時を止めてくれ、という言葉。
くちびるがわなないた。声が、勝手にこぼれだす。
「……おまえ、それ──」
言いかけた言葉はすぐに途切れた。三島が振り返って、俺を見上げたからだ。
視線が交わる。三島の目が、うっすらと細くなる。
くちびるに指を押し当てて、三島は口の端を持ち上げた。
しーっ、と漏れ出す息の音、そして。
「また、生研部で」
いつかの玄関で聞いたのと同じフレーズを、まったく違うトーンで口にした。
くすっ、と声を上げて三島が笑う。ひどい眩暈がした。




