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その夜。どん底の気分で風呂を浴びて、着替えて、三島と交代で部屋に戻った。
本も論文も読む気になれなかった。知識なんてもうなんの意味もないと思う。母さんの存在も、残してくれた言葉も、今となってはただの思い出に過ぎなかった。
(くそ……さっさと寝よ……)
あまりにもぐずぐずの感情を持て余して、俺はさっさと布団を敷く。
寝るにはまだ早い時間だが、今日はもう眠ってしまいたかった。なにも考えたくなかった。
布団にもぐりこみ、電気を消す。どうせ三島は勉強などしない。暗くても問題なんかないだろう。
あいつもさっさと寝ればいい。眠って、頭を冷やしてほしい。
ごそ、と天井を見上げて、この角度もだんだん見慣れてきたな、と思う。
ため息を押し殺し、血を流す三島の頬を思い出した。
傷付けた。俺の手で、三島に血を流させた。そのことに、後悔と同じくらい、高揚している自分がいる。最低だ。こんな風になりたくはなかったのに。でも、どうしてこうなりたくなかったのか。今となってはわからない。
なにもかも、母の傍にいるためだった。俺をもう守ってくれなくても、あのひとはたったひとり、かつて俺を守ろうとしてくれた存在だった。本当の俺を知る人も、守りたかったと泣いてくれた人も、他にはひとりも存在しない。
でも、母はもういない。二度と戻ってこない。
俺が耐える理由も、完璧を装う意味も、もうどこにも残っていない。どれだけ好きに振る舞ったって、これ以上落ちる場所などないはずなのだ。
(なのに、俺はどうして――)
そこまで考えたとき、すうっ、と闇に切れ目が入った。細く開いたドアの隙間から、廊下の光が差し込んでくる。思わず目を細めた。
ジャージに着替えた三島が、滑るように部屋に入ってきた。寝間着代わりの俺のジャージはサイズが合っていなくて、ぶかぶかだ。引きずるように歩いて、三島は俺の横を通り過ぎた。風呂上がりの匂いがふわりと鼻をくすぐる。
そのまま、三島はごそりとベッドに入っていった。早すぎる就寝に文句ひとつ言わない。予想通りだった。
ごそごそと体勢を整える音がして、すぐに静かになる。夜で満たされた部屋の中、ふたつぶんの呼吸が静かに響いていた。
俺は青暗い闇を見つめたまま、三島のことを考えた。ヘアピンをつけ、青いピアスを見せつけて、すっかり変わってしまった彼のことを。
淡い笑み、淡々とした眼差し、駅のホームで俺を呼んだ静かな声。
誘惑じみた態度、躊躇なくボタンを押す姿、怖いくらい静かな目でハサミを握って、麻酔もなしにマウスの腹を裂いたときの、ひとつも感情のない顔つき。
わざとらしい煽り、頬から伝った血、俺をいざなう、悪魔みたいな言葉。
(…………)
ゆっくりと身を起こした。布団からごそりと抜け出す。
音もなく立ち上がり、俺は静かにベッドに上がった。ぎしり、とスプリングが音を立てる。
三島は動かなかった。眠ってなどいないとわかるのに、彼は黙って目を閉じている。
その痩せた身体の上に、脚を広げてずしりとまたがる。三島はなんの反応も返さず、夜の中で呼吸を繰り返していた。
そうっ、と手が伸びた。
馬乗りになった痩せた身体、その首に、ゆっくりと手をかける。親指が喉仏に触れる、鮮烈な感触。
明らかに、気が付いているはずなのに。三島はなんの抵抗もしなかった。
うっすらと目が開かれる。眼鏡を通していない瞳は、名前のない宝石みたいに揺れていて、きれいだった。
ぐっ、と手に力を込める。
細い首に、てのひらが食い込んでいく。かは、と三島の喉が鳴った。
薄暗がりの中、三島は目を細めて、うっとりと微笑んでいる。
それ、もっとしてほしい、と言われたときとまったく同じ表情が、蕩然と俺を見上げていた。
一方の俺は、苦渋の表情だった。眉を寄せ、顔をしかめて、目元がぐしゃぐしゃに歪んでいた。
少しずつ、少しずつ手に力を込めながら、掠れた声を絞り出す。
「おまえが俺にしてほしいのは、こういうことなんだろ」
「……そうだよ」
まだ声を出す余裕があるらしい。ひゅう、と呼吸まじりの声がした。
快楽だか欲望だかわからないものに満ちた三島が熱っぽい目で俺を見上げて、掠れきった声が、呼びかけてくる。
「もう、終わりにしたい」
俺の時間を止めてくれ。
そう言うと、三島はそっと目を閉じた。ぎりっ、と俺の奥歯が鳴る。手に込めた力が強くなる。
三島のくちびるが、生理的ななにかで震えた。
ぞくぞくとこみ上げる衝動、欲望、俺の底で息づく現象。このままあちらに落ちてしまいたい、強烈な渇望が俺をどうしようもなく突き動かして、だけど、でも。
俺は――ふっ、と三島の首から手を離した。
かは、けほっ、と咳き込む音。生理現象の咳を発した三島が、伺うように俺を見上げてくる。
まだ馬乗りになったまま、薄闇の部屋の中で、俺は睨むように三島を見下ろした。意味のわからない涙がこみ上げて、頬をひとすじ伝っていった。
「俺は――おまえの望むようにはならない。絶対に」
声が震える。目元がひどく熱くて、喉の奥が痛かった。心臓がぎゅうっと引き絞られたようになって、俺はもう一度「絶対に」と繰り返した。
(そうだ、俺はまだ、人間でいたい)
どうして落ちたくないかなんて、はっきりした理由は見つからない。それでも、嫌なものは嫌だ。
俺は蝶を殺した、マウスを殺した、三島の首に手をかけた。
本当はとっくに踏み外してしまっているかもしれない。でも。
(まだ、留まっていたいんだ――こちら側に)
ぱたっ、と三島の頬に涙が落ちた。つるっ、と耳の方へ伝い落ちていく雫の感触に、一瞬だけ三島が表情を歪める。けれどすぐに元の、淡々とした顔つきへと戻っていった。
「……そう」
三島が、ぽつりとつぶやく。俺は黙って、三島の上からどいた。
ベッドを下りて、布団に潜り込む。三島に背を向けて丸くなる。ぐず、と鼻をすすって、目を閉じた。
背後から、毒みたいな声がする。
「でも。俺はおまえを信じてるよ」
笑み混じりの、なだめるような、誘うような、悪魔の声。
身じろぎの気配、くす、と笑う小さな音。
「だって俺たち、友達だろ。――なあ、宗像」
耳の内側を直接撫でていくような、甘ったるい声。
逃げるように目を閉じて、俺はきつく身体を丸めた。
薄青い闇の中、眠るには早すぎる時間の、逃げ場のない夜の底で。
三島がくすりと笑う声が、かすかに聞こえていた。




