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三島を泊める言い訳を作るのは簡単だった。
なにせここまで派手に怪我をしているのだ。黙って家に帰せなかった、と言えば十分理由になる。
俺は三島の写真を添付して、進路のことで親と揉めた友人をしばらく泊めてもいいか、と父にメールした。
三島はU大を現役で狙えるような優秀な男だが、予備校に行っていない。他のやつの家に泊めても教材が不十分だ。
進路で揉めてはいるものの、後悔しないよう勉強だけはさせておきたい。いちおう志望校を変えたわけではないみたいだし、こんなところで躓かせるわけにはいかないから。
長ったらしい言い訳を打ち込んで送ると、親御さんの了承を取れるなら構わない、ちゃんと面倒を見てやるように、と返信が来た。ほっと息をつく。
スマホから顔を上げて、三島のほうに視線をやった。
リビングのソファに座った三島が、申し訳なさそうに俺を見る。
「悪いけど、うちに連絡入れるの、頼んでいいか」
淡々とした口調でも、どことなく語尾が頼りなかった。
当たり前だ。三島の怪我は決して軽くない。その原因が家に――おそらくは家族にあることは明白だった。三島が自分で連絡したら、火に油を注ぐことになるのは間違いない。
俺は「わかった」とつぶやくと、三島からスマホを借りた。なんでも、仕事中に知らない番号からかかってきても、出るかどうか自信がないから、とのことだった。
俺のものより一世代前のスマホを手に、少しだけ心を整える。おそらくは三島の怪我のもとになった母親と、面と向かって話をするのはためらわれた。
それでも、いつまでも呆けているわけにもいかない。
俺は意を決して通話ボタンを押す。電話はすぐにつながった。
『凪? こんな時間にどうしたの』
「こんにちは。三島くんのお母さんでしょうか」
『え? え……ええ。そうですが』
「急にすみません。僕は三島くんの友人の、宗像達也と言います」
簡単に自己紹介をすると、三島の母ははあ、と気の抜けた返事をする。
しかし彼女はすぐに声を高くした。
『待って――待って。凪は? 別の人が掛けてくるなんて……凪になにかあったの!?』
「いえ、そういう訳では――」
『どうしよう、凪は、凪は今が一番大事な時期なのに! やっぱり家から出さなきゃ良かったわ……家の中でも勉強はできたのに、ああもう、あの時ちゃんと閉じ込めておけば――』
(閉じ込める――?)
するっと飛び出した物騒な単語にぎょっとする。
三島の母はすっかり取り乱して、躾がどうとか、なんでもっと強行に出なかったんだとか言っている。その口調からは三島への心配ではなく、自分の失態に対する後悔しか感じ取れなくて、俺はなんとも言えない陰鬱な気持ちになった。
違います、と念押しのように呼びかけて、声の圧をひときわ強くする。
「あの。……あの! 落ち着いてください、三島くんは無事です! うちにいます」
『ああだって、でも――……えっ? 宗像くんのうちに?』
「はい。ですから、安心してください」
ようやく聞く耳を持ったようだ。俺はほっと息を吐くと「三島くんなら今、僕の家にいます」と丁寧に言った。三島の母がいぶかしむ声を出す。
『お友達の家に来てるの? ならどうして……』
「その……言いにくいんですが」
俺はかすかに言葉を詰まらせる。電波の向こうで、三島の母が黙り込んだ。
「三島くんを、しばらくうちに泊めてもいいでしょうか」
『えっ――』
虚を突かれたような一言。一瞬の沈黙ののち、三島の母がなぜ、と叫んだ。
『どうしてよ! 凪がそう言ってるの? そんな訳ないわよね。凪ったら、他所様のおうちに迷惑をかけるなんて……ねえ、凪と話させて! すぐ説得するから』
「ま、待ってください。ええと……そうではなくて……!」
キンとした声に、思わずスマホを耳から離す。ちら、と三島を見やると、彼は冷めたような目で肩をすくめた。ため息を押し殺す。
「落ち着いて、落ち着いてください。その……三島くん、いま家に帰ったら、お母さんに余計なことを言ってしまいそうだから、それは駄目だ、って言っていたので……」
『え……』
俺はそれっぽい嘘をとっさに口にした。三島の母がようやく黙る。
『……凪が、そんなことを?』
「はい。お母さんのことを、とても気にしていました」
『そう……そうなの』
途端に大人しくなった。俺はほっと息をつく。
一瞬だけ三島の方を見て、心を決めて。俺は思い切った嘘を吐くことにした。
「色々と三島くんと話したんですが……彼の言い分もわからないでもないんですけど、やっぱりちょっと頭を冷やした方がいいと思いまして」
『そう、そうなの! 凪ったら、いっときの感情に振り回されて、あんな……』
「わかります」
本当はちっともわかってなんかいない。むしろ三島からは事情すらなにも聞いていない。
俺はせめてそれっぽい声を作って、わざとらしくトーンを落としてみせた。
「しばらくうちに泊めて、その間、勉強するように説得します。三島くんはきっと、こんなところで躓いていい人じゃないので」
『……っ……そう、よね……そうなの。凪は他の子と違う。特別なの。そのつもりでずっと育ててきた。こんなバカみたいなことで、台無しになんてできないわ』
涙混じりの声だった。どうも情緒不安定な人のようだ。ため息が出そうになる。
(この人……三島のこと、全然見てねえ感じするな……)
どこがどうとは言えないが、そんな雰囲気が死ぬほど漂っている。
俺は感情を押し殺し、三島の母に定期連絡の約束をした。電話番号を教えて「毎晩十時に電話します」と伝える。それから二言三言なだめるような挨拶をして、ようやく電話を切れた。
「……っは、疲れた……」
はあーっ、と思わず本音とため息が漏れる。ぱちぱちぱち、とソファの方から拍手が聞こえてきた。
きっ、と睨む。三島がどこか冷めたような顔で笑っていた。
「上手、上手。さすが宗像」
「おまえ……」
誰のせいでこんな苦労をしてると思ってんだ。
そもそもおまえ、俺をあんな目に遭わせておいて、どの面下げて泊めてくれとかほざいたんだ。
その顔の怪我がなきゃ、おまえなんか今すぐつまみ出したっていいくらいなのに。
どっと押し寄せる罵倒はあまりにも数と勢いに満ちていて、喉のあたりで渋滞を起こしてうまく言葉にならなかった。ひどい徒労感と共に肩を落とす。
ぽい、と無造作にスマホを放り投げた。三島の膝の上にぽすん、とスマホが落ちる。
それを拾い上げて、三島はひらひらスマホを翻した。
「うわ、すごいメッセージ来てる。めんどくさいし、電源切っとこうかな」
「……既読くらい付けとけ。しわ寄せ来るの、たぶん俺だし」
「はいはい」
くすりと笑ってスマホを操作する三島。ディスプレイの青白い光が、思ったよりは綺麗な顔を照らし出している。それを横目で眺めて、俺はむらむらとこみ上げる苛立ちと嫌悪に耐えていた。
(なんで俺がこんな……)
バカみたいだ。俺だって全然、他人にかかずらってられる状況じゃない。
父に蝶殺しがばれて、母を無理やり取り上げられて、家庭環境は最悪だ。その一因になった男を丁寧に匿ってやる義理なんて、本当なら俺にはない。だけど。
そろりと三島を盗み見た。まつげを伏せてスマホを操作している三島の、なんとも言えない冷めた表情。
今日の三島が見せる顔はどれも、俺が一度も見たことのないものばかりだった。
(……どうしちまったんだよ、おまえ)
間違いなく、怒りも嫌悪もあるはずなのに。強烈な戸惑いが抜けてくれない。
この男はこんな、なにもかもを諦めたような顔をする奴だっただろうか。
俺の戸惑いなど知りもせず、三島がふっとスマホの明かりを落とす。小さく漏れた吐息、それをかき消すようにチャイムの音が鳴った。時計を見る。気が付けばもう夕食の届く時間だった。
ゆっくりと顔を上げた三島に、待ってろ、と言う。
「飯、届いたから。ダイニングで座ってな」
「……うん」
どことなく覇気のない返事。
後ろ髪を引かれるようにそれを気にしつつ、俺は玄関に向かった。




