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背後から、ぱたぱたと頼りない足音がついてくる。
俺は何度か振り返り、足音の主である三島がついてくるのを待った。
俺が立ち止まるたび、三島はゆっくりと追いついてくる。
だが気が付けばすぐに後ろに離されてしまうのだった。
期末考査前日の放課後、俺と三島はいつものように生物室に向かうところだった。三島の体調はそれなりに回復したようで、でも、耳の端には切れたかさぶたの跡が残っていた。
振り返ってもとうとうついてこなくなった三島に、軽く眉を持ち上げる。今日の三島はあきらかに様子がおかしかった。顔色は良くなったものの、挙動や表情がどう見ても常態ではない。
(なんか、うまく聞けたらいいんだけどな……)
強引に聞き出すのは得策ではない。本人が話したい気にならなければ、それは暴き立てるのと同じことになる。
俺は背後の気配を伺いつつも、あきらかに弱っている三島の姿に、〝現象〟がぞくぞくと動き出すのを感じていた。残虐で一方的な加害欲。ちらちらと脳裏をよぎる、ピアスの端に見えるかさぶたの跡。ぞくぞくするのと同じくらい、うんざりする。
(……母さんに会いたい)
父さんは今夜、帰りが遅い。こっそり覗き見た手帳にもそう書いてあったから、まず間違いないだろう。だったら、今日は病院に寄って帰ろうか。
今日、母さんの顔を見て、もし陰性症状が強かったら。
思ったことをそのまま話したい。まとまりもとりとめもない、なにも形にならない、つたなくてどろどろした言葉たちを、飾ることも装うこともなく、素直に口にしたかった。
そうしよう。
だって俺にはもう、それしか残っていないのだから。
そう決めて、俺は生物室のドアを開ける。部屋の奥、飼育室代わりにしている準備室の鍵を開けて、背後の三島が生物室のほうの扉を閉めるのを確認した。
そっと三島に視線をやる。三島は逃げるように目を逸らした。やっぱり、様子がおかしい。
なにかあったのか。その一言を、まるで上手に使えない自分がいる。
普段なら、ここまで弱っている誰かがいたとして、俺はうまい立ち回りで事情を聞き出して、力になってやれただろう。でも。
(三島は──だめなんだ)
この男は俺を狂わせる。立入禁止の向こう側に踏み込んで、俺の内側をぐずぐずにする。あちら側に無理やり引きずり降ろそうとしてくる。
それでも、いま、三島が苦しんでいるのは明らかだった。なにかしてやりたいという気持ちも、この男だけはだめだという感情も、なにひとつ嘘はない。俺は必死に自分を維持するため、三島の悪い点をひとつずつ数えた。
「じゃ、やるか」
「……うん……」
ほとんど覇気のない返答に、ちら、と三島を見やる。三島は朝からずっと続く、呆然としたような顔で、のろのろと手を動かしはじめた。
マウスの世話は、思ったより順調に終わった。これだけ三島の様子がおかしいのだから、ミスや事故のひとつやふたつ、覚悟していたのだが。意外にも三島は淡々とマウスの世話を終えていた。ぼうっとした目のまま手を動かす三島は、俺の〝自動行動〟になんとなく似ている気がした。
一通り世話を終え、片付けて。俺は鞄を肩にかけた。三島も同じようにする。空調の温度だけ確認して、準備室を出た。
「……おまえ、この後どうすんの」
鍵を回しながら、気が付けばそう言っていた。三島が、ふっと目を伏せる。静かな声。
「まっすぐ帰って、勉強する」
「……」
それはどことなく、悲壮な感じのする声だった。言葉の内容だけなら、いつもの三島がやりそうなことなのに。声の感じがまるで違う。今にも決潰しそうななにかを、必死にこらえるような声だった。
ちらと三島を見て、あまりにも暗い表情にため息をつく。迷いとためらいが俺を揺らした。
母に会いたい。もう疲れた。いろいろなことが起こりすぎていて、俺はなにもかもが嫌になっていて、今すぐにでも全てを放り出したい。でもそんなことはしたくなかったから、母に会って、顔を見て、息継ぎの間だけでもいいから、本当のことを話したかった。
でも──三島の様子がおかしいんだ。こんなに暗い目の三島を見たことがない。顔色は元に戻ったはずなのに、表情が完全に抜け落ちていて、今彼を放っておけば、なにか取り返しのつかないことが起きてしまいそうだった。
迷って、ためらって、でも。俺は自分のするべきことと、してはならないことを選んだ。
「俺は……母さんに会って帰るよ」
いくら弱っていても、気にかかっても、三島はだめだ。この男は天敵で、悪魔みたいな存在で、いずれ俺を破滅させる。近付けてはならない。
それに三島には、俺じゃなくてもいい。他の誰でも、彼を助けることはできる。
でも、俺を助けてくれるのは、もう母しか残っていないのだ。たとえ思い出が、知識は俺を裏切らないという言葉が、なんの効力もなくなってしまったとしても。母はまだ生きている。傍にいたかった。
「……そう」
三島のつぶやきは小さくて、感情がほとんど見られなかった。それきり、彼はじっと黙り込んで、ぴくりとも動かなかった。
俺はじっと三島を待つ。こいつが動けるくらいになったら生物室を出よう、と思って、しかし。
じわっ、と三島の目に涙がにじんだ。どきりとする。
ぴくっ、と指先が動いて、動揺が俺をとっさに動けなくした。
何も言えない俺の前で、三島はぐっとくちびるを噛んで、涙をこらえた。
俺の視線から隠すみたいに、ゆっくりと下を向く。それでも、肩が小刻みに震えていた。
目の前にいるのは、いとけない、弱い生き物だと思った。
捻り潰したい、その強烈な欲求をなんとかこらえて、俺は三島のそばに立つ。
そっと顔を覗き込もうとして、逃げるように逸らされた。
「三島」
呼びかける声に込めた感情が、一体なんによるもので、どんな色をしているのか。俺にはまったくわからない。
ただ、聞き届けた三島はぐっ、と喉の奥を鳴らして、くちびるを小さく震わせた。
「……俺なんて、生まれてこなきゃよかった」
「っ──……」
それはほとんど絶望、みたいな言葉だった。
これを本気で口にする人間が、どんな場所に立たされているのか、俺は正しく知っていた。
同じ言葉を、何度も思ったことがあったから。
ぐずっ、と鼻をすする音。俺は黙って、鞄の中をさぐった。だが三島がすぐ、震える声でいいよと言う。俺は鞄の中のティッシュを諦めて、三島と向き合った。
三島はなにも言わず、ただなにかに耐えていた。何度も鼻をすすって、震える息を押し殺して、白くなるまで手を握りしめて、涙だけはこぼさずに。
けれどとうとう、俯いた顔から、震える声がこぼれおちた。
「か、帰りたくない……」
ぎりぎりで開いた三島の手、指先が震えているのが見えた。今にも崩れてしまいそうな人間の所作だった。
(──三島……)
強烈に思い浮かんだのは、格子で囲まれた病室だった。
陰性症状が強くて自失した母の前で、こらえられずにこぼした言葉。
帰りたくない。戦いたくない。
なんにも考えずにここにいたい。
そのときの感情が痛切に蘇って、あのうまく表現できない情が、俺をじわじわとやるせなくしていく。
指先がじいんとしたもので震えて、喉が詰まって、わかるよと、なんの慰めにもならない言葉を言ってやりたくなる。
俺は迷って、ためらって、考えた。ありとあらゆることが脳裏をめぐって、感情がせわしなくふたつの間で揺れ動いて、胸のうちを荒らしていくさまざまな色の感情、それがゆっくりと一つの結論を出していくのを、なすすべなく感じていた。
(俺は──……)
「──なら、うち寄ってく?」
母じゃなく三島を選んだその言葉は、思った以上にすんなり口から飛び出した。
三島がえっ、と顔を上げる。その頬に、つるっと一筋、涙が伝って落ちた。痛ましかった。
俺は三島と向き合って、彼の返事をずっと待っていた。三島がうろたえたように口を開く。
「え、あ、だって、お母さんの、お見舞い……」
「あれはいつでも行けるし」
嘘だった。父の見張りは日に日に厳しくなっていて、蝶を殺すのも、決められた日以外で母に会いに行くのも、滅多にできなくなっていた。今朝はなんとか目を盗んで少しだけ蝶を殺せたが、次にいつあれができるかは、もはや俺にもわからなかった。
(それでも、俺は……)
「どうすんの」
当たり前のように問いかけて、三島の返答を待つ。
その瞳に一瞬でも拒絶がよぎったらやめよう、そう思ったのに、三島の目にそんな色はひとつも浮かばなかった。ただ驚きと、いいのか、という遠慮だけが、まばたきの合間に俺を見る。
「あ……お、俺は……」
「……決まりな」
「え?」
俺は勝手に判断すると、三島の肩から鞄をむしりとった。置き勉などひとつもしない三島の鞄はやっぱり信じられないほど重くて、こんなひょろい男に持たせるもんじゃない、と思った。
「む、宗像!」
呼びかけを無視して、生物室の外を目指す。扉を閉めて廊下をずんずん進むと、背後からぱたぱたと三島の足音が追ってきた。
「か、鞄、返して」
「うちに着いたらな」
「宗像……!」
焦ったような三島の声に、やっぱり拒絶は見られない。小さく息を詰めるような音に続けて、三島の声がした。
「じ、じゃあ、もう少しゆっくり歩いて……」
それは三島が、俺の提案を受け入れた言葉だった。ゆっくりと立ち止まり、肩越しに振り返る。
長く伸びた廊下を背負って、痩せた三島の人影が、心許なく立っていた。じいん、と、よくわからない感情が胸を満たした。
俺は黙って前に向き直る。そしてさっきより少しだけ遅い歩調で歩き出した。
少し離れて、三島がついてくる気配。空梅雨の、うすぼんやりした光が差し込んでくる廊下を踏みしめて、俺と三島は半歩ほど離れて淡々と歩く。
(これで──いいんだろうか)
今日、母じゃなく、三島を選んだこと。
わからない。ただ、今この男に背を向けて病院に行くことは、どうしてもできないと思った。それだけだ。
ちら、とガラス窓を見る。映り込んだ三島は下を向いて、ぐす、と一度だけ鼻をすすった。
やっぱり、子供みたいな仕草だった。




