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【完結・BL】転校生に学年トップを奪われたから弱みを握ろうと友達のフリして近付いたらとんでもない修羅場が待っていた  作者: Ru
【中編 / 03】 あやまった選択

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 二つ並んだアイスコーヒーが、じわじわと汗をかいていく。さらさらとシャーペンが走る音が、自室の中にふたりぶん響いていた。


 この週末も、俺は三島を家に誘っていた。どうしてだかわからない。

 表向きの理由は期末考査直前の追い込みに付き合ってくれ、というものだったが、そんなものが不要なことくらい、自分がいちばん良くわかっていた。


 三島が来るとわかっていたのに、俺はその朝も蝶を殺した。膨れ上がり、重く、苦く、暗く育った現象がどうしても言うことを聞いてくれなかった。


 飼育箱がほとんど空になるくらい踏み潰して、今度はちゃんと土に埋めて、部屋に戻った。ぼんやりと三島を待った。


 そうしてやってきた三島といま、こうして差し向かいで勉強をしている。明らかに不要なテスト勉強を、なぜ申し出たのかは未だにわからなかった。


 ほとんど何も考えずにシャーペンを走らせつつ、すぐそばの気配が、じっと俺を伺っているのに気付く。視線こそよこさないものの、三島はずっと俺のことを気にしていた。


 今日の三島はなんだかぼうっとしていて、しょっちゅう手を止めてしまう。そのたびに俺はわからないところがあるかを尋ねて、三島はぎこちなく首を振るのだった。あきらかに様子がおかしい。


(なにを考えてるんだろう)


 三島は俺に敵意を抱かない。むしろその逆だ。だが彼が放つ気配は好意というよりむしろ警戒に近くて、それでも、負の感情はいっさい感じられなかった。よくわからない注目。


 なんだか落ち着かないものを覚えて、俺はほとんど作業と思える自己採点に集中した。けれど三島はまた手を止めてぼうっとしている。


 ちら、と見上げると、三島はシャーペンを置いて俯いている。硝子レンズごし、伏せたまつげの合間から、あの不思議な色の瞳が覗いている。前よりも痩せたように見える頬は、いつもよりずっと白かった。


 俺は採点の手を止めて、三島に声をかけようとした。けれど俺がなにかを言う前に、三島の指先がそっと動くのが見えた。


 痩せた白い指先が、耳元の髪を静かにかきあげる。目を伏せて、俺の方を見ないままの三島の耳、さらりと揺れた髪の後ろから、きれいな青がゆっくりと現れた。


 色のない肌によく映える、透明な海の底みたいな、深い青のピアス──


(っ……)


 ぞくっ、と一気に、こみ上げるものがある。

 間違いなく衝動と呼ぶべき加虐欲、一瞬で絶対に入ってはいけないところまで踏み込まれて、俺の内側がぐちゃぐちゃに荒らされていく気配。


「──……っ」


 かたり、と俺の手がペンを置く音が、場違いなほどはっきり響いた。


 俺の腕が持ち上がって、ゆっくりとローテーブルを横切っていく。

 空梅雨の、淡すぎた陽光が、俺の腕の下に影を落とす。


 どうしようもない欲求だった。

 抗うことなど考えられない、強烈な、切望とすら呼べるような。


 俺は自分の中の〝現象〟が膨れ上がり、俺を飲み込みそうになるのを感じながら、それでも己を止めることができなかった。


 止めることができたのは──三島が、俺を見たからだ。


 静かに持ち上がった視線と、目が合った。

 硝子レンズの向こう側で、じっと気配を伺って、なにかを待っているような瞳。ぞっとした。


(だめだ──)


 この男はだめだ。三島だけはだめだ。この男はいずれ俺を破滅させる。

 どうしてとか、どうやってとかはわからない。

 ただ破滅する、その事実だけが、痛いほどはっきりわかる。


 現象が撒き散らす非人道的な欲望と、俺の恐怖がせめぎ合って、指先が震えた。あちら側に引きずり降ろされる感覚に、必死で抗う。助けてくれと叫ぶように思う。


 母さん。母さん。どうか俺を守ってくれ。俺のことを救ってくれ。

 もうこんな風に生きていたくないんだ。抗うのに疲れてしまった。

 いっそあちら側に落ちたほうが楽かとも思うのに、それでも、まだ、怖いんだ。


 ありとあらゆる感情が俺の内側を踏み荒らして、目の前では、三島がとても静かな目で俺を見ていた。あの、名前のない宝石みたいな、不思議な光を宿した目が、吸い込まれるみたいに俺を見つめている。


「っ……」


 ぴくっ、と指先が動いたのは、たぶん奇跡みたいなものだった。このまま身を任せればどうなるか、という冷静な思考。俺の今まで積み重ねた知識、人類たらんとする理性的なものが、最後の砦みたいになって、現象を止めてくれたのかもしれない。


 勢いよく手を握り込んで、引いた。姿勢を正し、いつもみたいに笑ってみせる。


「なに。わかんないとこあんの」

「えっと……大丈夫。ちょっと疲れたなってだけ」


 三島はなんとも言えない顔をして、戸惑うようにつぶやいた。

 大丈夫なんだろうか。三島の顔色は本当に、日に日に悪くなっている気がする。これだけ調子が悪そうなのに、三島の家族はなにをやっているのだろう。


「なあ、ちょっと休憩するか」

「あ……そう、だな」


 俺はわざと軽い口調で笑って、コーヒーのグラスを取った。冷え切ったコーヒーを喉に落としていく。三島もストローでコーヒーを飲んで、ぎこちなく笑った。


 休憩ということで、俺は三島にあれこれ話題を振った。いつも通りの、面白かった記事とか、知らなかった知識とか、学校であったバカみたいなエピソードとか。


 三島はその全てを、面白そうに聞いていた。たまに相槌を打ったり、ツッコミをいれたり、まるで仲のいい友達みたいなやりとりだった。


 肩を揺らして笑いながら、バカみたいだ、と思う。

 俺と三島は友達じゃない。俺たちが友達だったことなんて、ただの一度もありはしない。

 三島は俺の弱みを握りたがっていたし、俺は三島をどうにか無害化したかっただけだ。


(だったら、その目的が果たされた今は、どうなんだ?)


 わからない。三島は悪い奴じゃない。それはわかる。

 でも、その確信と同じくらい強く、この男は俺の天敵だ、という感情が湧いてくるのだ。


 この男に関わってはならない、傍に置いてはいけない。

 三島は悪い奴じゃない、でも同時に、こいつは卑怯で、ずるくて、見苦しい、最低の人間だと、何度も言い聞かせている自分がいる。ひどい矛盾だ。


 俺のくだらないエピソードに、三島が呆れたように笑った。俺も笑い返して、コーヒーのグラスを手にとった、そのとき──


 ばしん、とすごい勢いでドアが開いた。びくっ、と三島の身体がこわばった。


(……またかよ)

 俺はため息をつくと、グラスを置いて、言った。


「……俺に嘘の予定ばっか知らせるの、やめてくれる?」


 闖入者──父は俺の言葉を受けて、ただ静かにこちらを睨みつけていた。

 自分の表情が、すうっと消えていくのがわかる。父の方に視線だけを投げて、冷めた気持ちで息をした。


 一昨日から、明後日まで出張だと聞いていた。だから今朝も安心して蝶を殺したのだ。だが、それはすべて俺を油断させるための嘘だったらしい。

 鋭い視線から、低い声が発せられる。


「二度としないんじゃなかったのか」

「……してないよ」


 嘘だ。ちょうど今日の朝、やってしまったばかりだ。父はあと数日帰らないと思っていたから、隠し方が甘かったかもしれない。

 案の定、父は目元をますます険しくした。


「雑な嘘をつくな」


 舌打ちの音。俺は父から目を背けた。


「嘘じゃない。ていうか普通、そこまでする? 嘘の長期出張装って、普段より大きいキャリーケースまで引いて出てさ」

「誰がそうさせてると思ってる」


 俺のせいだとでも言うのだろうか。俺がおかしくて、異常で、母さんの息子だから。そこに父の理由は、ひとつも存在していないとでも言うのか。バカバカしい。無性に腹が立った。それでも、表には出せなかった。


「父さんだろ。俺のことちゃんと信用してれば、こんな──」

「信用しろだと?」


 跳ね上がった声に、三島が怯えたように身を硬くする。父が一歩、室内に踏み込んできた。ああ嫌だなと思う。


 三島の前で、こういう話をしたくなかった。他の誰かじゃなくて、三島の前だから、よりいっそう嫌だった。この男は天敵だ。関わらせてはいけない。


「どれだけ前科があると思ってる。そのたびに嘘だの言い訳だの弁明だの……なにが『すべて完璧にするからお願い』だ。挙げ句、少し目を離したらまた──」

「っ……やめろよ、人が来てるんだぞ」


 耐えかねて三島を指差した。俺の〝完璧〟が作り物であることなど、誰にも知られたくはない。

 父は一瞬だけ三島を見据えたが、すぐに視線を俺に戻した。吐き捨てるような声。


「そうやって、人様を巻き込んで誤魔化そうとするな」

「だから俺はやってないって言ってる」


 互いに抑えた声、それでも、奥に滲む苛立ちは隠しきれない。

 父は押し殺した声で、くだらん嘘と言い訳はたくさんだ、と言い捨てる。


「どうせ父さんは俺がなにを言っても聞かないだろ」

「論点をずらすな。私はおまえの行為について話をしている」

「だから、それは今ここでやるべきことかよ」

「今を逃せば、おまえはのらくら逃げるだろう」

「俺は逃げたりしてない」


 堂々巡りのやりとりに、父が耐えかねたようにため息をついた。


「やっぱり静江の影響か……多少素行が良くなったからって、着替えの差し入れだけでも許可したのがいけなかった」


(──ッ……!)


 一瞬で頭に血が上った。

 違う。俺がおかしいのは、狂ってるのは、あの〝現象〟を止められないのは、母さんのせいじゃない。


「──母さんは関係ないだろ!?」


 反射的に叫んでいた。信じられないほどの大声だった。

 耳の奥がきいんとして、びりびりと喉がしびれる。


 俺の残響が消えて、すっ、と静かになった。父の射殺すような視線、俺の燃えるような睨み、ただ凍りついている三島。三者三様に言葉を飲み込み、ただ沈黙だけが重苦しく室内を満たす。


 あまりにも沈痛な、いつまで続くとも知れない、長々しい沈黙。身じろぎの音すら耳につきそうな、痛いほどの静けさ。

 いつまでも続くぴりぴりした感覚に耐え続けて、


「う……裏庭のこと、ですよね……っ!?」


(──っ!?)


 三島の、ひっくり返った叫びが、張り詰めた沈黙を壊した。


 信じられなかった。耳を疑った。俺も父も、驚きのあまり固まっている。


(なんで、三島が──)


 三島は知らないはずだ。俺の内に眠る現象も、そいつが連れてくる衝動も、俺がどんな場所で毎日耐えてきて、それを維持するために、どんな代償を払っているのかも。それなのに。


 三島は俺と父の視線から逃れるように下を向き、手が白くなるほど強く胸元を握りしめて、言った。


「か、かか、感染症で……! せい、成虫がいっぱい死んじゃったんです。さっき二人で、その、埋める、埋葬、しようとしたんですけど、途中で用事できて、今まで、忘れてて、そのままで、だから今も、えっと、あの、……っげほっ! かは、うう……」


(──……うそだ、)


 この、あまりにつたない言い訳を聞いて、わかった。

 偶然でも、たまたまでもない。裏庭という単語を、三島は確信を持って口にしたのだということが。


 でも、どうして。俺はどこでしくじった、どこでこの男に、取り返しのつかない弱みを晒してしまった。俺の心の入ってはいけない部分に侵入され、あまつさえ、こんなことまで。思考と動揺がぐるぐる回る。


「……三島くんに感謝しろ。次はない。私は社に戻る」


 苦々しい父の声ではっとした。俺が自分を取り戻したときにはもう、父はドアを閉めて、荒々しく階段を下りてしまっていた。


「……──」


 そうして、沈黙が戻ってくる。俺はただ呆然と、中空を見つめていた。なにも考えられなかった。


 いま起こったことも、知ったことも、どうすればいいのかということも、なにひとつ思い浮かばない。

 俺の頭の中身はただ凍りついたみたいに静止していて、バカみたいに機能を停止している。


(もう──疲れた)


 ゆるゆると視線が落ちていく。

 ゆっくりとうなだれて、俺は膝の間で指を絡み合わせる。


 もういやだ、と思った。

 考えるのも、抗うのも、完璧じみた態度が自動的に展開されるのも。もうたくさんだ。


 三島が、おずおずと俺を呼ぶ気配。


「あの、むなか──」

「…………ごめん。三島」


 なにがどう『ごめん』なのかわからない。ただ、気が付けばそう言っていた。

 ごく小さく、三島が息を呑む音。それきり訪れた、何度目かの沈黙。


 俺はじっと下を向いたまま、もうだめかな、と考える。

 三島はおそらく、裏庭の死骸を見たのだろう。なぜ裏庭に入ったのかとか、いつから勘付いていたのかとか、考えるのはもう無駄なことだった。


 完全に、弱みを握られたかもと思う。でもまだ死骸を見られただけで、実際のシーンを見られたわけじゃない。それに三島は俺に強い好意を抱いている。弱みをどうこうされる可能性は高くない。


(まだ──まだ、大丈夫だ)


 懸命に言い聞かせるも、なにが大丈夫なんだと思う自分がいる。教室での立場とか、俺の演じる〝完璧〟とか、そんなことはもうどうでもいい。


 俺はただ母さんの傍を離れたくなくて、でも母さんは俺のことなどもう守ってはくれなくて、なにもかもはとっくに破綻している。


 ため息すら出なかった。俺はただうなだれたまま、自分を打ち据えるなにかむごくて苦しいものに、じっと耐えていた。


 少しずつ日が暮れていく。

 三島は俺に声をかけることなく、ローテブルの前で黙っていた。


 橙を通り過ぎて空が淡い紺色になりはじめたころ、三島は一言だけ挨拶をして、部屋を出ていった。見送る気にもなれなかった。


 カーテンも引かないまま、薄曇りの夜が来て、一時間以上経過して。俺はようやく顔を上げる。街灯の薄明かりが差し込む中途半端な夜の部屋に、見慣れないものがひとつ。


(……タブレット)


 三島がなにより大切にしていた、母親からもらったタブレットが、床の上にぽつんと放置されていた。



 

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