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週明けの一日は、何事もなく過ぎていった。
相変わらず俺は完璧な顔を作ったまま喋って、笑って、誰かのフォローをしたりさりげない気遣いを見せたりした。
こんなにひどい気分なのに、変わらず完璧を保てる自分に嫌気が差す。
それでもこの外面を、どうしても崩すわけにはいかなかった。俺はまだ耐えていたい。戦うべきだ。
放課後、友人と簡単な談笑を終えて、三島のほうに向かった。
生物室行こうぜ、といつもの呼びかけをしつつ、観察する。マウスの実験をはじめてから、三島の様子は目に見えて沈んでいた。なんとなく顔色が悪い気さえする。フォローなりなんなり、しておくべきだった。
だって逃げられるのはまずいから、と思って、だがそれはどうしてだろう、とも思う。
三島はまだ俺の弱みなんて握ってはいない。それにあの感じだと、敵意だってもうほとんど俺に抱いてはいないだろう。放り出したっていいはずだ。なのに、なぜ。
わからないままにこやかに声をかける。
三島の好きそうな話題を仕入れたとかなんとかいう俺に、三島は少しだけ重苦しい顔をして、話しかける言葉をさえぎった。
「……なあ。今日もあれ、やるの」
「……水に沈めるやつ?」
頷く三島。ストレスの効きが悪いマウスを何匹か、死なない程度に水につけたりしていたのだ。三島からすれば、耐えがたいような行為だろう。
俺は自分の顔と声が勝手に申し訳なさそうな色を宿すのを、他人事のように観察していた。悪い、と小さな謝罪を口にして、なんの心もこもっていない、と思う。
けれど俺の言葉に、三島はぎゅっと胸元を握りしめた。やや俯きがちな顔、散った前髪の隙間から、思い詰めたような声がする。
「あ、謝んなよ。大丈夫だって言ったろ」
「……」
じっ、と三島を見つめた。怯えながらも、声を振り絞って抗う三島の姿は、俺の嗜虐心をひどくそそった。
やっぱりマウスよりこいつをどうこうしたいな、と思って、でも。同時に訪れたのは、じわりとしたよくわからない情だった。
生物室での三島を思い出す。マウスをこわごわ扱う手付きや、あの実験で胸を痛めている様子、俺の蝶を心配したことが浮かんだ。
三島は俺と違う。人どころか、猫どころか、虫さえきっと殺さない。小さい生き物に対して、とりわけ優しい奴なのだ。
(本当はちっとも、大丈夫なんかじゃないくせに)
それでも、たった一回言った『大丈夫』に操を立てて、こうして声を振り絞っている。律儀で、素直で、本当にバカな男だ。
ふいに、開いた窓から風が吹き込んできて、三島の髪を揺らした。
俺を見上げた三島の耳に、ちらと透明なピアスが見て取れる。シリコンの、澄んだ、引きちぎられるためにあるような、とても小さな。
一瞬でぞわっ、とする感覚に耐えることができたのは、連日のマウスに加え、今朝の蝶を殺しておいたからだ。心底嫌気がさす行為なのに、悪魔に魂を売るようなことなのに、あの行為はたしかに〝効いて〟いる。
俺は無理やり明るい声と顔を作って、笑った。
「なら、いいんだ」
三島がそっと俺を見上げる。透明な硝子レンズごしの、不思議な色の瞳。
それを見下ろしたまま、ぽんと頭に手をおいた。まるで彼女にするみたいな仕草、でもほとんど無意識だった。
「そうだ。帰り、一瞬うち寄るか」
作った声で言うと、三島がえっ、なんで、と口を半開きにする。同時に、ぼんやりと口を半開きにした母の顔が思い浮かんで、俺はぐっとなにかを堪えた。
「例の量子力学の本。読み終わったから貸してやるよ。すぐ読みたいだろ」
「あ……うん」
本当は明日まで待ったって良かったが、こうすることで恩を着せることができるかな、と思ったのだ。俺が三島の落ち込みに気を遣っていることなんて、三島はとうに気付いているだろう。それがポーズであることまではわからないだろうが。
案の定三島はためらうような、申し訳ないような目で俺を見た。ちょろいな、と思う。
量子力学の本を、読み終わったのは本当だ。三島と本屋にでかけた当日、夜のうちに読み終えた。知っている分野ではあったけれど、文章の感じが緻密なのに軽やかで、思ったよりずっと面白かった。ついでに同じ作者の本も数冊買い足して、読んだ。どれも面白かった。
(貸すとき、おまけに付けてやれば、いいサプライズになるかな)
本当、彼女みたいな扱いだ。あの実験で下がったかもしれない好感度を、うまくコントロールできればいい。この男に病院で見たことをあちこち喋られては困るのだ。
(たぶんきっと、それだけだ)
それ以外のものなどあるはずがない。あってはならない。
嗜虐をそそる容貌、怯えたような視線、耳に光るピアス。俺をどうしようもなくあちら側に引っ張ってくる、天敵みたいな男。三島凪。
その引力に負けたいだなんて、思ってはならない。
俺は三島が鞄の口を閉じるのをじっと見て、笑った。二人連れ立って、放課後の教室を出た。
思惑と駆け引きばかりが充満している生物室を目指して、階段を下りながら。
俺は隣を歩く男の耳元を、つとめて見ないようにふるまった。




