55
すぐ目の前で、三島が顔を真っ赤にして俯いている。
冷静な感情で立ったままそれを見下ろして、俺はほんとうにちょろい男だな、と考えた。
招き入れた自室、椅子の上に小さくなって、三島はううとかああとか、よくわからないうめき声を上げている。
玄関で少し待たせて、簡単に部屋を片付けて、コーヒー片手に三島を部屋に上げてから。とりあえずと雑多なものを放り込んだクローゼットについて、そこは開けるなと言及した。
散らかっているから開けられたくないのは本当だったが、正直中身に関しては見られてもどうということはない。俺の私物はすべて〝対外用〟であって、見られて困るものなんてひとつも持っていなかった。見られたくないものはただ一つ、あの飼育室の中身くらいだ。
承知の上でわざと匂わせたいかがわしい雰囲気、それに三島がここまで反応してくれるとは思わなかった。震える男をそっと覗き込み、ほら、と呼びかける。三島はますます身を固くした。
「う……っ」
そっと頬に触れ、顔を上げさせる。三島はほとんど涙目になっていた。信じられないほど頬が火照っていて、さわると熱が伝わってくる。思わず喉の奥で笑ってしまった。
「うわ、おまえ顔熱すぎ」
「わ、笑うなよ、くそっ……」
(ああ、なんてちょろくて、簡単で、バカな男なんだろう)
バカみたいだ。
本当にこいつは、好きな女子を落とすみたいな態度がとんでもなく効く。
もうひと押ししておくか、と俺は三島の顔をじっと覗き込んだ。たちまち涙目がうろうろとさまよいはじめる。あまりのうろたえっぷりに、半ば本気で笑ってしまった。
「目ぇ泳ぎすぎ」
「あ、あ、あた、当たり前だろ……!?」
「おまえテンパるとすぐ吃るよな」
「う、う、うるさい……!」
最近は三島も俺に慣れてきたからか、ここまでの挙動不審は久しぶりに見た。正直ちょっと面白い。
もうちょっとやってやるか、と一瞬だけ思ったが、三島の涙目が本気になってきたので、そろそろ潮時だと悟る。
俺はさっと三島の頬から手を引いた。てのひらに、まだ熱の余韻が残っている。
三島が睨むようにそっと俺を見上げた。狼狽がありありとにじんだ表情は頼りなくて、心許なくて、ちらりと嗜虐的な感情が身をもたげる。
ああ良くないなと思うのと、三島が耐えかねたように顔を背けるのが、同時だった。
ぱっと髪が散って、その隙間から、見たこともないほど赤くなった耳が現れる。
朱に染まった耳の端で、透明なピアスだけがいつもと変わらない存在を主張していた。
淡く光る、シリコンの澄んだ表面。
(あ……っ)
──一瞬で、あの強烈な感覚が戻ってきた。
どくっ、と心臓が鳴り、鼓動が一気に跳ね上がる。
通電ボタンを押したときとは比べ物にならない感覚が、全身をびりびりと痺れたようにさせる。
俺の意志を無視して、勝手に手が動いていた。
指先が耳に触れる。熱を帯びた皮膚、その下にある軟骨の感触を、つうっと指先が滑り落ちて、存在を主張してやまないピアスへと。
心臓がうるさい。喉が乾いて、とても苦しい。
(そうだ、やっぱり、これじゃないと──)
蝶じゃだめだ。マウスじゃだめだ。
俺の本当にほしいものは、見たいものは、やってみたいことは。
親指と人差し指で、撫でるようにピアスをつまんだ。
親指に触れる表面はつるつるしていて、なめらかだった。反対側、キャッチの部分の凹凸が、指に鮮烈な感触を残す。
この小さな、装飾とも呼べない装飾品を、引っ張って、できるだけゆっくり痛みを与えて、目の前の顔がゆがむのを眺めながら少しずつ引きちぎって、それから、それから。
「……むな、かた」
(っ──!)
目の前で、ぱちんと風船が割れたような感覚。
ぽろっ、とこぼれたような声が、俺の意識を唐突に断ち切った。
衝動が一気に引いてゆき、反射的に指先を離して、俺はさっと顔を背ける。
「……悪い。調子乗った」
言い訳はほとんど無意識で、俺は逃げるようにベッドに戻る。
ぎしっ、と腰を落として、俯いた。
まただ、と思った。
あの感覚を、俺のうちに眠る現象を、どうしても止められない。
俺は下を向いたまま、クローゼットの中身は大したことないとか、適当なごまかしを繰り返した。
どうしても、三島の前で顔を上げられなかった。自分がまっとうな表情をしている自信がなかった。
虚しさだか悲しさだかわからない、ひどく入り組んで混じり合った感情が俺を満たした。
(俺……なにやってるんだろう)
自分で自分がわからない。
三島と二人きりになれば、こうなることはわかりきっていたはずだ。
それなのに、いくら多少情にほだされたからといって、どうして俺は自分のテリトリーにこんな最低男を招き入れているのだろう。
今まで友人の誰ひとり、家に上げたことなんてなかったのに。
俺の机を蹴り飛ばし、いちばん言われたくなかった言葉を叫んだうえ、弱みを握るために近付いてきた、そんな男なんかをどうして。
誰ひとり傍にいてほしくなかった。
絶対に、誰にも俺の中身を見られたくない。
なのによりによっていちばん嫌いな人間を、どうして招き入れているのか。
その理由がどうしてもわからない。
(ああ──くそっ)
ぐるぐると巡る考えを、整理しようとしていると。唐突に、ばたばたと階下から足音が聞こえた。えっ、と思う間もなく、荒々しい音でドアが放たれる。飛んでくるのは鋭い声。
「達也! 帰ってたのか」
「あ──父さん」
はっと顔を上げ、とっさに対外用の仮面を作る。今日はもっと遅いと聞いていたのに、なぜここに。
父の目がざっと部屋を見回して、三島のところでふと止まる。
「この方は」という声は値踏みや検分の気配に満ちていて、俺はかすかに不快感を覚えた。それを綺麗に押し隠して、苦笑の形を作る。
「──友達。同じ部活の、副部長」
「……っ! ど……どうも、その。お邪魔してます。み、三島です……」
俺の言葉に続いて、三島がしどろもどろの自己紹介をした。その口元はかすかに口角が上がった形で歪んでいて、たぶん彼は懸命に笑みを押し殺しているのだろう。どことなく、眼鏡の奥の目もきらめいていた。理由は明らかだった。
(言葉ばかりの〝友達〟が、そんなに嬉しいかね……)
バカみたいだ。俺も三島もはじめから、互いのことを友達だなんて、一度も思ってはいないのに。
なんとも言えない、呆れ混じりの虚しさを抱えていると、父が視線を俺に戻した。鋭い目が俺を見据え、低い声が放たれる。
「……病院には行ってないだろうな」
「行ってないよ」
さらりと答える。本当だった。
最近は蝶も殺さず、母にも会いに行かず、耐えている。
あの雷鳴のとき以来、〝現象〟はずっと不気味な動きを見せていた。どうしても耐えきれずマウスに手を出してしまったものの、ここで母や蝶にまで頼ってしまったら、ぎりぎりで張り詰めたものが切れてしまいそうで、怖かった。
だが、正直に答えたにも関わらず、父の視線は強い疑惑に満ちている。それで察した。
あの雷鳴の放課後、俺は呆然と家に帰った。
真っ暗な部屋の中、ずぶ濡れでいつまでも座っていた俺を父はひどくいぶかしんで、あれこれ探りを入れていた。
あれ以来、俺の様子がおかしいのに気付いたのだろう。
俺が完璧を失って、〝母のほう〟に落ちてしまったかもしれないと疑ったのかもしれない。
父が目元も鋭く言い放つ。
「わかっていると思うが──」
「わかってるから。言わなくていいよ」
ちゃんとやってるかさら。ほとんどかぶせるように言った。自嘲気味な笑みが浮かんだ。
そうだ、俺はちゃんとやっている。
父さんの望み通りの、完璧な、瑕疵のない、こんな中身なんて存在してないみたいな人間を。
今までずっとそうしてきた。これからもそうであるべきだ。
父は俺の答えに納得などいっていないのは明らかだった。
だが、三島の手前強く出られないらしい。小さなため息をつくと「悪いが」と言った。
「すぐ戻らなきゃならない。夕飯はあるもので済ませてくれ。よかったら、三島くんにも出してやるように」
「え、あ、俺は──」
三島がすぐさまうろたえだす。
この様子じゃ、下手したら三島は、他人の家で食事なんて取ったことがないのかもしれない。
その反応を気にも止めず、父は舌打ちじみた息を吐き、あっさりとドアを閉めていった。
俺は軽く肩を落とすと、タチが悪いな、と思った。
今日が部活動禁止なのは父も知っている。本来は仕事の最中だと言うのに無連絡でここへ寄ったのは、俺の動向を確かめるためだろう。
俺が〝狂って〟いないか探りを入れ、なおかつ母に勝手に会いに行っていないかを確かめたかったに違いない。
(……ほんっと、タチ悪……)
思わず表情が抜け落ちそうになったとき。
三島が、俺を見たまま硬直しているのに気付いた。
俺はせいぜいまっとうそうな顔を作って「思ったより親が帰るのが早かった」と笑う。
三島はまだこわばった顔のまま、ああとかいやとか言っていた。感情にまかせて、軽く笑ってみせる。
なんだか、うまく言えない気分だった。
なにもかもがうまくいかない、と思う。
まっとうな、正しい、完璧な人間をやりたかった。
たとえ偽りでもいいから、その仮面をキープしている間に、あの〝現象〟をどうにかできればそれでよかった。
それなのにどうしてもうまくいかない。
こんな風になりたくはなかったのに、気が付けば俺はとっくに猫の段階を通り過ぎていて、三島凪という最低の男が、俺の内側を荒らしていくのを許している。
「じゃあ、蝶見せてやるよ」
俺の口が勝手に言った。理由はわからなかった。
俺の傍には誰もいない。誰にも中身を見せちゃいけない。飼育室なんかに入れたくない。
それなのに、どうしてだろう。
俺は自分が立ち上がって、ベッド脇に放り出していたカーディガンを手にとって歩きだすのを、他人事のように眺めていた。




