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【完結・BL】転校生に学年トップを奪われたから弱みを握ろうと友達のフリして近付いたらとんでもない修羅場が待っていた  作者: Ru
【中編 / 01】 一人目のファウスト

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 その日の放課後。職員室まで提出物の届け物に寄ったため、生研部に出るのが少し遅くなった。

 

 重い気持ちで生物室へ向かう。三島の顔を見たくなかった。それでも、行かなければならない。

 

 からり、と扉を開けると、三島は先に来ていた。

 放り出したままの鞄、その隣で背を丸めている。手にはあのタブレットがあった。

 

 視線がせわしなく上下して、彼は相変わらず、瀕死の生き物みたいに本を読んでいる。まるでそうしなければ死んでしまうみたいだ。

 

 俺は小さくため息をつくと、大股で三島に歩み寄った。気付く気配はない。斜め後ろに立ってちらりと覗き込む。表示されているのはゲーテのファウストだった。まだ前半だ。

 

(ずいぶん時間かかってんな……)


 まあ、この訳文はとくに読みにくい部類のものだ。それにファウストは戯曲というだけあって、舞台で見るとそれなりに面白いが、小説として読むには退屈でもある。案の定、三島は先に行ったり戻ったりと、ずいぶんもどかしい読み方をしていた。

 

 ここで俺が解説を入れるのは簡単なんだろうな、と思ったが、やめておく。

 三島はどうも、知識を頭に入れることに特別な執着があるようだった。読書や勉強時の様子を見ていればすぐにわかる。俺が勝手に口を挟んで、反感を買うのは得策ではない。

 

 何気ないそぶりを装って、椅子を引っ張って隣りに座った。軽く身を寄せ、肩が触れ合うほどの距離にする。そして、わざと耳の近くで声を出した。

 

「──それ、最上位機種だよな」

「……ッ!?」


 びっくん、と三島が反応する。はっ、と詰まった息を吐いて、夢から覚めたような顔。

 うろうろと視線がさまよい、横顔がめぐって俺を見る。「あ、来てたんだ」と小さな声。頷いた。

 俺は笑いながら、とんとん、とタブレットの縁を叩いた。

 

「いちばん高いやつじゃん。使いやすい?」

「ま、まあ……うん。便利」


 おどおどした瞳が、ガラス越しに俺を見る。ぞくり、としそうになるのを耐えて、俺はさらに身を寄せた。

 

 三島がぴくっと肩をこわばらせる。表情に不快感はまったく見られないから、これは〝効いて〟いると思っていい。笑いかけた。

 

「へえ。ちょっと触っていいか」

「い……いいけど」

「やった」


 ほとんどくっつくようにして、ひとつのタブレットを二人で覗き込む。いくらかページをめくったり、蔵書一覧を見てみたりした。

 

 三島の蔵書には、ほとんど一貫性がなかった。小説、エッセイ、学術系、自己啓発。ありとあらゆる本が網羅されている。膨大な量だ。中には高価な専門書も多くあった。金に困っていないというのは本当らしい。

 

「ふうん。やっぱ使いやすいな」


 タブレットの動作は軽快で、表示もきれいだ。さらにUIが使いやすく、読書のストレスがほとんどない。さすが最上位機種だけある。

 

 二の腕をぴたりとくっつけ、至近距離に三島の顔を感じながら、何気なく俺は言った。

 

「これ、高かったろ。買い換えるのも値段するよな」

「っ……」


 なぜかそこで三島が動きを止めた。なんだ、と思って身を離す。

 そっと顔を覗き込めば、三島はためらうように目を逸らした。痩せっぽちの手がタブレットを取って、胸に抱く。三島のよくやる仕草だった。

 

 まるで子供が身を守るような仕草で、三島はためらいがちにささやく。

 

「母親に……買ってもらったから」


(──母親に)


 ぴく、と指先が勝手に動いた。

 三島が、ぎゅうっとタブレットを抱える。まるで大切な宝物を扱うような手付きだった。

 

 少しだけ目元を染めて、目尻を下げて、でも頬のあたりはかすかにこわばっている。その表情からは、幾重にも折り重なり、入り混じった、母親への複雑な思慕のようなものが見て取れた。

 

 眼鏡越し、薄い硝子レンズの向こうで揺れているのは、名前のない宝石みたいな、不思議な色の瞳だ。

 その表面に言葉にできない感情が次々と現れては消えて、不安定で未分化な、危なっかしい色合いの。

 

 ああ綺麗だなと、とても自然に思っていた。

 母への思慕を目に浮かべ、タブレットを抱きしめる三島の姿が、かすかに自分に重なった。

 

「えっと……だから、勝手に、買い替えづらくて」


 三島はごまかすように言う。でも、口調や表情からは『大切すぎて買い替えられない』ということがありありと伝わってきた。

 

 タブレットはぼろぼろで、あちこち傷がついていて、画面の端の色が変だった。それでも、どうしても替えられない理由が、俺には痛いほどよくわかった。

 

「──……わかるよ」


 気が付けばそう言っていた。三島が顔を上げて、目を丸くして俺を見つめる。小首をかしげる仕草。「宗像?」と俺を呼ぶ声。

 

 俺は自分の内側に、なんとも言えない情が湧いてくるのを感じた。

 正とも負とも判別のつかない、かすかで、じわりとした、うまく言えない感情だった。

 

(……三島は、たぶん、大切にはされていない)


 家のことをほとんど一人でやっている。学習意欲は高いのに、予備校にも行かせてもらえない。弁当は自作だと聞いた。ここ一年で、金銭のやりくりが得意になったとも。大家族どころか、兄弟すらいないと知っている。これだけ毎日顔を合わせているのに、親と会話をしたという話すら、俺は一度も聞いたことがない。

 

 それなのにこの男は、母からもらったタブレットを買い換えることすらできないのだ。

 

 後生大事に胸に抱いて、傷まみれなのに大切にして、そのタブレットで、瀕死の動物が救いを求めるみたいに本を読む。どう見ても大事にされていないのに、嘆くでもなく母を慕っている。

 

 なんだか──なんとも言えない気持ちになった。

 哀切とも憐憫とも、同情とも共感とも違っているのに、その全部が入り混じったような、不思議な感情だった。

 

 俺は小さく息を吸い、笑う。胸元からタブレットをひょいと取り上げて、あっ、と言う三島の前でいくつか画面を操作した。

 上の方に来ていた生物学の書籍を表示して、彼の目の前に見せつける。

 

「なあ、これ。前に勧めたやつ、読んでるんだな」

「あ……う、まあ。き、興味あったし」


 嘘だ。こいつは生物にそこまで興味はない。好きなのは物理、それも量子力学だ。

 きっと俺が好きだと言った本だから、無理して読んでみたのだろう。だがパーセンテージがほとんど進んでいないところから、内容が七面倒臭くて読みにくかったに違いない。

 

「でもさ。これ、読みにくくないか」

「……ちょっと」


 なにがちょっとだ、と思う。画面に表示された文面は、電子書籍の機能をフル活用したマーカーまみれだった。おそらくは調べごとや、辞書を使いながら読んでいるんだろう。

 

 俺はあまりにも懸命な紙面を見下ろして、ふうん、と笑った。三島が「なんだよ」と俺を睨んでくる。その視線を受け流して、俺はポケットからスマホを取り出した。

 

「ちょっと待ってな」


 簡単にリストを作って、メッセージアプリで送信する。

 ヴヴ、と小さな振動音がして、三島が慌てたようにスマホを取り出した。差出人の名前が俺なのに気付いて、目を丸くする。

 

「いやあのさ、宗像……」


 用事があるなら口で言えばいいじゃん。そう顔にありありと書いてあるのを無視して「読んでみろって」と笑った。三島がもたもたとスマホを操作する。その目がさらに丸くなった。

 

「このリストって……」

「あの本、段階いくつかすっ飛ばしてるんだよ。ここらへん読んでからだと、めちゃくちゃ面白いから」


 良かったら読んでみな、と言うと、俺はさらにスマホを操作した。ヴッ、と三島の手元が震えて、うわ、とスマホを取り落しかける。

 

「おっと。……気を付けろよ」


 地面に落ちる直前でぱしっ、とキャッチすると、俺は三島にスマホを返した。三島はこくこくと頷いている。いつもの、子供じみた仕草だった。

 

 痩せた指がスマホを操作する。メッセージを見た三島は、へっ、と口を半開きにした。

 

「おまえ良くその顔するよな」

「へ、あ、え、でも、む、宗像、これ」


 俺が送ったのは、電子書籍購入にも使えるギフト券だった。一万円以上入っている。三島は完全に硬直して、あ、とかう、とか奇声を上げるばかりだった。くす、と笑って呼びかける。

 

「三島。これ、布教」

「ふ、ふ、ふきょう……?」

「さっきの、上からおすすめ順だから。ちゃんと全部読めよ」


 ちなみにほとんどが専門書なので、上から全部買ったらあのギフト券ではとても足りない。本当は全冊分送りつけたかったのだが、あの額が三島が気絶しないぎりぎり上限だろう。

 

 三島が俺の言葉を理解するのに、数秒の時間を要した。ようやく腹落ちしたらしい、は、と素頓狂な声が上がる。面白い。

 

「え、あ、あのリスト全部……!?」

「そう。ぜんぶ」

「む、無茶言うなよ……! 全部専門書な上に、原書混ぜただろ、バカかおまえ!」

「ははっ、ひでー言われよう」

「当たり前だ!」


 バカ、と何度も言う三島に俺はけらけら笑う。面白いリアクションだった。こんな罵倒を吐くくせに、きっとこの男は、律儀にすべての本に手を出すのだ。それが確信できた。

 

 予想通り、三島はぶつぶつ言いながら、くそう、と上から順に本をカートに入れている。三島はあまりにも単純で、わかりやすくて、そして素直だ。子供みたいな男だ。

 

 ぶちぶち文句を垂れながら決済を済ませて、三島は小さくため息をつく。そしてちらっ、と俺を横目で見上げると、

 

「でも……その、あ、あ……ありがとう」


 詰まったような早口で、消え入りそうな小さな声で、ぎこちなく礼を言った。あまりにも不器用で笑ってしまった。

 

 三島がうっ、と声を詰まらせて下を向く。さらりと髪が動く。

 そういえばさっきから、ピアスが見えるか見えないかなんてことが、まったく気にならなくなっていた。

 

(……なんだ、大丈夫なんじゃん)


 俺はひそかに安堵する。わかりやすく照れる三島を面白がってからかう。

 不快にならないラインで引かないとな、と思いつつも、俺は自分の内側が、不可思議な情で満たされるのを感じていた。

 なんだか無性に安心した。



 

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