50
その日の放課後。職員室まで提出物の届け物に寄ったため、生研部に出るのが少し遅くなった。
重い気持ちで生物室へ向かう。三島の顔を見たくなかった。それでも、行かなければならない。
からり、と扉を開けると、三島は先に来ていた。
放り出したままの鞄、その隣で背を丸めている。手にはあのタブレットがあった。
視線がせわしなく上下して、彼は相変わらず、瀕死の生き物みたいに本を読んでいる。まるでそうしなければ死んでしまうみたいだ。
俺は小さくため息をつくと、大股で三島に歩み寄った。気付く気配はない。斜め後ろに立ってちらりと覗き込む。表示されているのはゲーテのファウストだった。まだ前半だ。
(ずいぶん時間かかってんな……)
まあ、この訳文はとくに読みにくい部類のものだ。それにファウストは戯曲というだけあって、舞台で見るとそれなりに面白いが、小説として読むには退屈でもある。案の定、三島は先に行ったり戻ったりと、ずいぶんもどかしい読み方をしていた。
ここで俺が解説を入れるのは簡単なんだろうな、と思ったが、やめておく。
三島はどうも、知識を頭に入れることに特別な執着があるようだった。読書や勉強時の様子を見ていればすぐにわかる。俺が勝手に口を挟んで、反感を買うのは得策ではない。
何気ないそぶりを装って、椅子を引っ張って隣りに座った。軽く身を寄せ、肩が触れ合うほどの距離にする。そして、わざと耳の近くで声を出した。
「──それ、最上位機種だよな」
「……ッ!?」
びっくん、と三島が反応する。はっ、と詰まった息を吐いて、夢から覚めたような顔。
うろうろと視線がさまよい、横顔がめぐって俺を見る。「あ、来てたんだ」と小さな声。頷いた。
俺は笑いながら、とんとん、とタブレットの縁を叩いた。
「いちばん高いやつじゃん。使いやすい?」
「ま、まあ……うん。便利」
おどおどした瞳が、ガラス越しに俺を見る。ぞくり、としそうになるのを耐えて、俺はさらに身を寄せた。
三島がぴくっと肩をこわばらせる。表情に不快感はまったく見られないから、これは〝効いて〟いると思っていい。笑いかけた。
「へえ。ちょっと触っていいか」
「い……いいけど」
「やった」
ほとんどくっつくようにして、ひとつのタブレットを二人で覗き込む。いくらかページをめくったり、蔵書一覧を見てみたりした。
三島の蔵書には、ほとんど一貫性がなかった。小説、エッセイ、学術系、自己啓発。ありとあらゆる本が網羅されている。膨大な量だ。中には高価な専門書も多くあった。金に困っていないというのは本当らしい。
「ふうん。やっぱ使いやすいな」
タブレットの動作は軽快で、表示もきれいだ。さらにUIが使いやすく、読書のストレスがほとんどない。さすが最上位機種だけある。
二の腕をぴたりとくっつけ、至近距離に三島の顔を感じながら、何気なく俺は言った。
「これ、高かったろ。買い換えるのも値段するよな」
「っ……」
なぜかそこで三島が動きを止めた。なんだ、と思って身を離す。
そっと顔を覗き込めば、三島はためらうように目を逸らした。痩せっぽちの手がタブレットを取って、胸に抱く。三島のよくやる仕草だった。
まるで子供が身を守るような仕草で、三島はためらいがちにささやく。
「母親に……買ってもらったから」
(──母親に)
ぴく、と指先が勝手に動いた。
三島が、ぎゅうっとタブレットを抱える。まるで大切な宝物を扱うような手付きだった。
少しだけ目元を染めて、目尻を下げて、でも頬のあたりはかすかにこわばっている。その表情からは、幾重にも折り重なり、入り混じった、母親への複雑な思慕のようなものが見て取れた。
眼鏡越し、薄い硝子レンズの向こうで揺れているのは、名前のない宝石みたいな、不思議な色の瞳だ。
その表面に言葉にできない感情が次々と現れては消えて、不安定で未分化な、危なっかしい色合いの。
ああ綺麗だなと、とても自然に思っていた。
母への思慕を目に浮かべ、タブレットを抱きしめる三島の姿が、かすかに自分に重なった。
「えっと……だから、勝手に、買い替えづらくて」
三島はごまかすように言う。でも、口調や表情からは『大切すぎて買い替えられない』ということがありありと伝わってきた。
タブレットはぼろぼろで、あちこち傷がついていて、画面の端の色が変だった。それでも、どうしても替えられない理由が、俺には痛いほどよくわかった。
「──……わかるよ」
気が付けばそう言っていた。三島が顔を上げて、目を丸くして俺を見つめる。小首をかしげる仕草。「宗像?」と俺を呼ぶ声。
俺は自分の内側に、なんとも言えない情が湧いてくるのを感じた。
正とも負とも判別のつかない、かすかで、じわりとした、うまく言えない感情だった。
(……三島は、たぶん、大切にはされていない)
家のことをほとんど一人でやっている。学習意欲は高いのに、予備校にも行かせてもらえない。弁当は自作だと聞いた。ここ一年で、金銭のやりくりが得意になったとも。大家族どころか、兄弟すらいないと知っている。これだけ毎日顔を合わせているのに、親と会話をしたという話すら、俺は一度も聞いたことがない。
それなのにこの男は、母からもらったタブレットを買い換えることすらできないのだ。
後生大事に胸に抱いて、傷まみれなのに大切にして、そのタブレットで、瀕死の動物が救いを求めるみたいに本を読む。どう見ても大事にされていないのに、嘆くでもなく母を慕っている。
なんだか──なんとも言えない気持ちになった。
哀切とも憐憫とも、同情とも共感とも違っているのに、その全部が入り混じったような、不思議な感情だった。
俺は小さく息を吸い、笑う。胸元からタブレットをひょいと取り上げて、あっ、と言う三島の前でいくつか画面を操作した。
上の方に来ていた生物学の書籍を表示して、彼の目の前に見せつける。
「なあ、これ。前に勧めたやつ、読んでるんだな」
「あ……う、まあ。き、興味あったし」
嘘だ。こいつは生物にそこまで興味はない。好きなのは物理、それも量子力学だ。
きっと俺が好きだと言った本だから、無理して読んでみたのだろう。だがパーセンテージがほとんど進んでいないところから、内容が七面倒臭くて読みにくかったに違いない。
「でもさ。これ、読みにくくないか」
「……ちょっと」
なにがちょっとだ、と思う。画面に表示された文面は、電子書籍の機能をフル活用したマーカーまみれだった。おそらくは調べごとや、辞書を使いながら読んでいるんだろう。
俺はあまりにも懸命な紙面を見下ろして、ふうん、と笑った。三島が「なんだよ」と俺を睨んでくる。その視線を受け流して、俺はポケットからスマホを取り出した。
「ちょっと待ってな」
簡単にリストを作って、メッセージアプリで送信する。
ヴヴ、と小さな振動音がして、三島が慌てたようにスマホを取り出した。差出人の名前が俺なのに気付いて、目を丸くする。
「いやあのさ、宗像……」
用事があるなら口で言えばいいじゃん。そう顔にありありと書いてあるのを無視して「読んでみろって」と笑った。三島がもたもたとスマホを操作する。その目がさらに丸くなった。
「このリストって……」
「あの本、段階いくつかすっ飛ばしてるんだよ。ここらへん読んでからだと、めちゃくちゃ面白いから」
良かったら読んでみな、と言うと、俺はさらにスマホを操作した。ヴッ、と三島の手元が震えて、うわ、とスマホを取り落しかける。
「おっと。……気を付けろよ」
地面に落ちる直前でぱしっ、とキャッチすると、俺は三島にスマホを返した。三島はこくこくと頷いている。いつもの、子供じみた仕草だった。
痩せた指がスマホを操作する。メッセージを見た三島は、へっ、と口を半開きにした。
「おまえ良くその顔するよな」
「へ、あ、え、でも、む、宗像、これ」
俺が送ったのは、電子書籍購入にも使えるギフト券だった。一万円以上入っている。三島は完全に硬直して、あ、とかう、とか奇声を上げるばかりだった。くす、と笑って呼びかける。
「三島。これ、布教」
「ふ、ふ、ふきょう……?」
「さっきの、上からおすすめ順だから。ちゃんと全部読めよ」
ちなみにほとんどが専門書なので、上から全部買ったらあのギフト券ではとても足りない。本当は全冊分送りつけたかったのだが、あの額が三島が気絶しないぎりぎり上限だろう。
三島が俺の言葉を理解するのに、数秒の時間を要した。ようやく腹落ちしたらしい、は、と素頓狂な声が上がる。面白い。
「え、あ、あのリスト全部……!?」
「そう。ぜんぶ」
「む、無茶言うなよ……! 全部専門書な上に、原書混ぜただろ、バカかおまえ!」
「ははっ、ひでー言われよう」
「当たり前だ!」
バカ、と何度も言う三島に俺はけらけら笑う。面白いリアクションだった。こんな罵倒を吐くくせに、きっとこの男は、律儀にすべての本に手を出すのだ。それが確信できた。
予想通り、三島はぶつぶつ言いながら、くそう、と上から順に本をカートに入れている。三島はあまりにも単純で、わかりやすくて、そして素直だ。子供みたいな男だ。
ぶちぶち文句を垂れながら決済を済ませて、三島は小さくため息をつく。そしてちらっ、と俺を横目で見上げると、
「でも……その、あ、あ……ありがとう」
詰まったような早口で、消え入りそうな小さな声で、ぎこちなく礼を言った。あまりにも不器用で笑ってしまった。
三島がうっ、と声を詰まらせて下を向く。さらりと髪が動く。
そういえばさっきから、ピアスが見えるか見えないかなんてことが、まったく気にならなくなっていた。
(……なんだ、大丈夫なんじゃん)
俺はひそかに安堵する。わかりやすく照れる三島を面白がってからかう。
不快にならないラインで引かないとな、と思いつつも、俺は自分の内側が、不可思議な情で満たされるのを感じていた。
なんだか無性に安心した。




