51
雨が降りはじめたのは突然だった。
放課後、生研部の活動を終えて、三島と駅まで歩いていると、ぽつっ、と頬に雫を感じたのだ。
ぱたっ、ぱたっ、とアスファルトに点が瞬いていく。
「うわ、俺傘持ってない」と三島がつぶやく。「俺も」と二人で苦笑した。
「天気予報、外れたな」
「うん……洗濯干してなくてよかった」
洗濯。どうやら、それも三島の仕事らしい。
料理、片付け、買い出し。それに加えて洗濯か。これではほとんど一人暮らしだ。親はなにをやっているのだろう。
俺はかすかに眉を寄せ、思わず尋ねていた。
「おまえって、家どのへんだっけ」
「え? S駅降りてすぐの、高架で直結してるマンションだけど……」
「ああ、図書館から見えるあれか」
こくりと頷く頬に、ぱたたっ、と雨の雫がしたたっていく。ずいぶん大粒だ。
(しっかし、あのマンションか……)
いわゆるタワーマンションだ。あきらかに一人暮らし向けではない。普通に考えれば、三島は家族と同居しているはずだ。
それなのに、身の回りのほとんどを一人でやっているのか。大切にされていないのだろう、という予感が、じわじわと確信に近付くのを感じた。
なんだかよくわからない感情のまま、口を開く。
「……──なあ、おまえさ」
そのとき、ごろごろ、と遠くで雷鳴が鳴った。ぱたぱたっ、と頬を濡らした三島が顔を上げる。
途端、びょお、と冷たい風が吹いてきた。にわかに空が暗くなった。
嫌な予感はすぐにあたった。数秒もしないうち、大粒だった雨はさらに大きくなり、激しさを増し、豪雨としか表現のしようがないものに変化していた。降り始めから、全部で一分もなかったと思う。
「え、うわ、うわ」と三島がうろたえた声を出す。その眼鏡は雫でびっしょりで、瞳がほとんど見えなかった。
「どうしよう」と途方に暮れたような声。困ったように鞄をゆすり上げ、抱えるような仕草。
それで──あ、と思った。
「やべっ……!」
気が付けば走り出していた。うえ、と奇声を上げた三島が、慌てて追ってくる足音。「急げ!」と呼びかける。全速力で足を動かして、三島も俺の後を追って、けれど三島の足音はどんどん後ろに遠ざかっていく。
雷の音。雨が地面を叩きつけ、跳ね返った雫が足元でまざりあった。それを踏み抜いて、ばしゃばしゃ走る。舌打ちをする。
本当は、走ったりするつもりはまったくなかった。ほとんど反射で動いていて、なぜ、と後から理由を考える。
思い至ったのはひとつの可能性。
(あのタブレット──)
母からもらったと言う、どんなにぼろぼろでも買い換えることすらできないそれ。
いつもいつも、三島はあのタブレットをに顔を埋めて、むさぼるように本を読んでいた。
息を詰めて、まばたきもほとんどせず、あの不思議な色の瞳を必死に上下させて、まるで瀕死の動物が水を飲むように。彼はいっそ悲痛なほどの懸命さで本を読み、一段落つくと顔を上げる。
そして安心したように笑って、それは大事そうに、指先で画面の傷を撫でるのだ。
あのタブレットは前世代の機種で、生活防水はみじんも期待できない。少しでも濡れたらそれでオシャカだ。三島が母親からもらったものが壊れる。
(くそ、だからって、なんで俺が……!)
白っぽいカーテンのように立ちふさがる雨を払い除けて、走った。
ばしゃん、と雨を踏み潰し、足の裏が溢れた水気で滑る。ぐっと重心を整えて、ひたすら駅まで急いだ。
だが、俺はよくても三島は駄目だった。
必死に俺を追ったのだろうが、頼りない足音はみるみる小さくなり、ほとんど聞こえなくなってしまった。くそっ、と毒突く。
雨を振りほどくように後ろを見る。三島の影はほとんど見えないくらいの距離まで離されてしまっていた。どこまでトロくさいんだ、あいつ。
しょうがない。俺は荒々しく引き返して、三島の手を強引に握った。
握りしめた瞬間、ひくっ、と怖気づくのを引っ張る。びしょびしょの手のひらは冷えていて、細かった。強く握ったら砕けるかもしれないと思った。
不埒な思考を振り切るように手を引いて、走った。背後で三島の叫び声。
「ま、待って、待てって!」
「いいから!」
もたもたと走る三島に、あらん限りの罵倒が脳内をめぐった。
ぎゃあぎゃあうるさいんだよ、叫ぶ暇があったら足を動かせ。
おまえ自分が鞄になに入れてるかわかってんのか、タブレットが壊れてもいいのか。
なんでおまえじゃなく、俺がここまで必死になってるんだ、いい加減にしろ。
言いたいことは山程あったが、その全てを飲み込み、急げ、と叫ぶ。なんでこんなことをしているのかわからない。イライラする。
その上、三島は途中で音を上げて死ぬとか言い始めた。ふざけんなと思って振り返れば、本当に今にも息絶えそうな顔をしている。
開いた口から荒い呼気がしきりにこぼれ、泣きそうな表情、ふらふらした足取りに、頼りなく上下する肩。ぎょっとすると同時にぞくりとした感覚がこみ上げて、俺は咄嗟に作戦を変えていた。
三島を引きずるように土手を滑り降り、橋の下に駆け込む。厚いベールのように水の滴る膜を突っ切って陰に入ると、ようやく雨は届かなくなった。安堵する。
息が荒く弾んで、心臓がめちゃくちゃに脈打っていた。耳のすぐ横で鼓動が鳴っているようだ。息が苦しくて、乾いた唾を飲み込む。
(……俺、なにやってんだ……)
さすがに息が切れた。本気の全力疾走に加えて、三島の体重まで引っ張ったのだ。
せわしなく肩を上下させていると、すぐ隣でどしゃっ、と崩れ落ちるような音がした。三島だった。
地面に崩れ落ち、座り込んだ三島はがっくりと俯き、必死に息を吸っている。あまりにも息切れがひどくて、呼吸はほとんど痙攣みたいになっていた。髪も服もびしょびしょのべしゃべしゃで、濡れ鼠というか、本当にみっともない。おまけにあちこちドロまで跳ねている。
三島のこんな姿を見るのは初めてだった。これはもう、大惨事としか言いようがない。
どうしてだろう。急におかしくなって、一気に笑いがこみ上げてきた。
「ふ……は、はっはははは! ひっでえ!」
「なっ……!」
耐えきれない。気が付けば爆笑していた。いやだって、本当にひどい有様なのだ。有様というか、いっそ無様だった。
三島が痩せているのも手伝って、制服が変な感じに肌に張り付いて、さんざん洗われてぺしょぺしょに縮んだポメラニアン、みたいになっている。普段よりひとまわりもふたまわりも小さい、ものすごく情けない見た目だった。
膝から下はドロまみれで、なぜか頬にも泥が散っていて、びしょびしょの眼鏡が情けない。あまりにもひどい。
ひとしきり笑って笑って、ようやく人心地ついた。
三島の隣に腰を下ろし、鞄を放り捨てる。俺ははー、と息をついた。久しぶりにこんなに笑った。
そうだ、と思い出す。
俺は真面目な顔をして、タブレット大丈夫か、と尋ねた。
「あの世代、生活防水じゃないだろ」
「え」
もしかして、忘れてたのか。半開きの口に呆れつつ、俺は控えめに言った。
「買い換えないってことは、大事にしてるんだろ」
「そ……え……あ」
まさか、本気で忘れてたのかよ。なんでおまえより俺の方が、あのタブレットを気にかけてるんだ。意味がわからない。
三島は俺の言葉を受けてようやく思い至ったらしい、ぼんやりと頷くと、もそもそと鞄をあさりはじめた。
手付きがぎこちなく、動作がとろくさい。よっぽど俺が手を出そうかと思って、耐えかねそうになったとき。ようやくタブレットが引っ張り出された。
三島がボタンを押すと、ぱ、と画面が点灯する。表示されたのはファウストだ。ほうっ、と三島が息をつく。
「大丈夫みたい」と嬉しそうな声がした。そりゃ良かった。ここまでバカみたいに走った甲斐があるってものだ。
まだ荒れている息を整えていると、タブレットを片付けている三島がぼそっ、と言った。
「そ……その……ありがとう」
思わず、なにが、と答えていた。俺はただ、よくわからないものに突き動かされて、うっかり走ってしまっただけだ。礼を言われる筋合いはない。
だが、好意は好意なので、ありがたく受け取ればいいのだろう。無理に否定することはない。
なんとなく黙っていると、ひときわ大きい、すさまじい雷鳴があった。
三島がちらと橋の外を見上げる。頼りなさげな横顔が、びしゃびしゃと降り注ぐ雨のカーテンに目を凝らした。痩せた指先が動いて、耳のそばまで持ち上がる。
俺は何気なく三島を見て──あ、と思った。
すっかり冷えたのだろう、横顔の白くなった頬に、髪が幾筋も張り付いている。
その髪を三島の指先がそっと剥がして、ゆっくりと耳にかける。
つうっ、と雫が耳の輪郭を伝って、ぱたっ、と落ちるのが、まるでスローモーションのように感じられた。
耳元であらわになったのは透明なピアスだ。
透き通ったシリコンが、雨にしめって、光っていた。
耳にあいた穴の形まではっきり見える気がした。
──どくっ、と心臓が鳴った。
今生で一度も感じたことのない強烈な衝動が、俺の背中を突き飛ばす。底の方で現象が膨れ上がり、獰猛で凶暴な形を取り、俺を飲み込もうとする。
(あ──)
ほとんど陶酔に近い感覚だった。
どくどくと心臓がうるさくて、くらりと頭の奥が痺れて、くちびると喉が無性に乾いた。こく、と喉仏が上下した。
三島の顔がゆっくりとめぐって、こちらを向く。
髪はすっかりかきあげられて、あの透明できれいなシリコンが、俺のそばに晒されている。無防備な、きょとんとした顔。宗像、と俺を呼ぶ純真な声。
俺は自分の手がゆっくりと持ち上がっていくのを、他人事のように感じていた。
雨と土で汚れた指先が、そうっと伸ばされていく。三島の視線がそれを追う。戸惑ったような顔で、三島が俺に向かって手を伸ばし返すのが、まったく気にならなかった。
とうとうピアスに指先が触れたとき、ちりっ、と電流が走るような感覚を覚えた。
指先から広がった感覚がじいん、と俺を痺れさせていく。つまんだピアスはしめっていて、つるりとしていて、小さかった。
(──今なら、……できる)
それはなにかの隙間が開いたようだった。絶対に開けてはいけない場所だった。
脳裏によぎるのは蝶の翅だ。黄色と黒の鮮烈な色彩、立入禁止の警告表示。ゆっくりと、それを踏み越えていく気配。
胸の中でなにかがじわじわと傾いていくのを感じながら、俺はそっと指先に力を込めて──
「む、宗像……?」
「……ッ!」
──肩に触れる他人の指の感触で、我に返った。
びくっ、と反射的に手を引く。
指先が冷たい。ひどく震える息が喉の奥で詰まった。信じられなかった。
(俺は、いま──)
なにを、しようとした。
手を伸ばして、耳に触れて、俺はいま、悪魔に魂を売るような、冒涜的な、自分から幸福を手放すような、そんな真似を。絶対にしてはならない行為を。
蘇るのは誰かの声だ。いずれ虫じゃ満足できなくなって、猫、犬、人と発展する定番コース。ああいう奴に限って、陰で猫とか殺してんだよ。
俺は虫を殺した。
マウスを殺した。
猫は殺さなかった。
でも、今、やろうとしたことは。
(生きた人間を、いま、俺は……)
ものすごい絶望感が俺を打った。地の底が抜けたようだった。
ぎりぎりの縁で踏みとどまっていたものが、ゆっくりと崩れ落ちていく。
大丈夫だと何度も唱えてきた。まだ平気だと。虫なんて誰でも殺すからと。あのマウスは実験だからと。
でも、そうじゃなかった。俺はとっくに、猫の段階を飛び越えていたのだ。なにもかも一足飛びにして、人間に手を出すような、そんな真似を。
俺は呪うように自分を責め、すがるように願った。
(母さん、母さん──母さん)
絶望的な気持ちになった。母に傍にいてほしかった。
それが駄目なら、知識でもなんでもいい、どうか俺を守ってくれ。
俺をこちら側に踏みとどまらせてくれ。
行きたくない。落ちたくなかった。
俺は契約済みで、とっくに悪魔に魂を売っている。
それでも、どうしても、あちらに落ちるわけにはいかない。
(だって、俺が落ちたら──母さんが)
たとえ俺をもう守ってはくれないとしても、あの人はたったひとり、かつて俺を守ってくれた人だった。どうしても奪われたくなかった。
目の前で、三島の目が見開かれている。びしょ濡れの硝子レンズ越し、名前のない宝石みたいな不思議な色をした瞳が、俺のことをまっすぐに見つめている。
ぽたぽたと雫のしたたるレンズに映るのは、絶望しきった俺の表情だ。
どうしようもない、確信に近い予感があった。
絶望的な予感だった。雷鳴が、どおん、と鳴り響いて、腹の底を揺らす。言葉が、勝手に浮かんでくる。
いずれ俺は破滅する。この男──三島のせいで。
それは一種の予言だった。
震えるほど怖かった。絶望が俺を打ち据えた。
絶対に失いたくないものが、手の内からこぼれていくのがわかる。
立入禁止の領域に、この男がじわじわと侵食してくるのがわかる。
(嫌だ──嫌だ)
落ちたくない。まだ、ここにいたい。
叫ぶように思った。誰か俺を守ってくれ。〝現象〟を止めてくれ。
俺の言葉は誰にも聞き入れられることはなかった。
絶望した気持ちのまま俺はほとんど口を開けずに、なぜか同じように無口になった三島と二人、耳をつんざく雷鳴の中、じっと見つめ合っていた。




