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その日から、俺は自分の中身を人に見せることをやめた。
この身体の内側に閉じ込めたもの、制御不能な現象をなんとか抑制して、なだめて、大人しくあるように祈り続けて、その間に自分の中身を、せめて正しく整えようとした。
それでもどうしようもないときは、隠れて蝶を引きちぎった。
翅を一枚ちぎるたび、悪魔に魂を売っていることが実感され、見つかりやしないかと怖かった。
完璧な人格はあっという間に完成した。強い光に惹かれてきた大量の人間をまわりに囲わせて、それでもいつも、俺のそばには誰もいないと感じていた。
さみしくないと言えば嘘になる。でも、それでよかった。
誰ひとり近付かないでほしかった。俺の中身を見ないでほしい。
もしも見られてしまったら、今まで認められていた全てをまた、一方的に否定されてしまう。
糾弾されて、恐れられ、あの状況が帰ってきてしまう。母を取り上げられてしまう。
いつだって意味がわからなかった。
たしかに、俺の行為は残虐だ。悪魔に魂を売っている。でも。
そのことを、俺の中身を、誰も知らなかっただけ。俺のしていることは最初から最後まで、なにひとつ変わらない。
それなのにどうして、中身を知らないうちは俺を認めて、知ってしまえば掌を返すのか。表面の行いは、ひとつも変わっていないのに。
どんなに意味がわからなくても、これだけははっきりしていた。
俺の中身を、腹の底に眠るものを隠さなければならない。それさえバレなければ、俺はずっと完璧でいられる。母さんに会える。
いつまでも隠してはいられない、けれど当面はそれでしのぐしかない。どんなに完璧を作るのがうまくなったところで、いずれは対処しなければならなかった。放置だけはできなかった。
知識を得る過程で知った、過去の歴史が証明している。どんな秘密も、いつまでも秘密にはしておけないのだから。
完璧のかたわら試行錯誤を続けて、それでもうまくできなくて、苦しかった。あの現象を解決しなければならない。放っておいてはならない。いずれ真実はばれてしまう。
母との面会を重ねながらも、状況はまったく改善されなかった。
俺はどうすれば自分をまっとうに保てるかわからないまま、天災のような現象に振り回され、どうしようもないときに隠れて蝶を殺すことで、なんとか自分を保っていた。ぎりぎりの縁に立ち続けた。
どうすればいいのか、糸口がまったく見えなくて、焦っていた。
誰にも見られていないうちに、誰にも気付かれないうちに、早く、誰からも認められる中身にならないといけないのに。
俺は死にものぐるいで勉強した。あらゆる知識を身につけた。
積み重なった大量の情報の中に、俺をあれから守ってくれるものを探した。絶対にあるはずと信じた。
知識は俺を裏切らない。
誰に奪われることもない。
たとえ俺のそばに誰一人いなくなっても、知識だけは俺を守ってくれる。
人類の積み重ねた叡智、人を人たらしめる理性。
それが俺を守ってくれる。きっと俺を導いてくれる。
母さんの代わりに。
導きの先、まっとうな、真に正しく完璧な存在にたどり着くまでのあいだ。俺が完璧な人間を装うことしかできないうちは、誰ひとり傍にいないでくれと願った。
そして一刻も早く、毎日演じている完璧な人間のかたちをした偽物が本物になることを、心から祈り続けた。
あの現象さえなくなれば。そうすれば俺は、誰に咎められることもなく、母に会いに行ける。
春先の西風、タンポポのにおい、泣きたいくらいきれいなうす青い空。あの光景が戻ってきてくれる。
あの幸福だった時間を、もう一度取り戻すためならば。
どんな自分にだってなる、なんだってしてみせる。
現象に耐えてみせる、一度は悪魔に売り飛ばした魂を、きっと奪い返してみせる。
そう、誓ったのだ。
──ひら、と目の前を色がよぎる。舞ったアゲハの黄色と黒。警告表示と同じ色。はっ、とする。
気が付けば、閉じたはずの飼育箱の蓋が開いていた。片腕が勝手に中に入っていて、アゲハを捕まえようとする仕草。俺は慌てて腕を引き抜くと、さっと蓋を閉じた。
一匹逃がしてしまったが、どうせ室内だし、最近は観測もおざなりになっている。放っておけば放虫被害を出すことなく、ここで死ぬだろう。俺が殺したわけじゃないのなら──まだ大丈夫だ。
ひらひらと蛍光灯の下を飛びまわるアゲハ。鮮烈な、黄色と黒のコントラスト。引きちぎりたいなと思って、すぐに戒める。
アゲハは悪魔との契約だ。本来ならあってはならないことだ。俺の未熟な知識だけでは守りきれない己をなんとか保つための、悪い麻薬みたいなもの。一刻も早くやめなければならない。
それなのに、最近はもうずっと、あの現象は活発な活動を続けている。蝶を殺さずに耐え続けるのも、かなり苦しくなっていた。ありったけの知識を総動員して、思い付く限りの対処法を試して、かろうじて踏みとどまっている状態だ。
(こうなったのは、……あいつと関わるようになってからだ)
三島凪。
あいつと知り合って、接するようになってから、現象はどんどんひどくなる。衝動が加速度的にふくれあがる。
加害を誘う風貌、レンズ越しに揺れる不思議な色の瞳、耳にちらつくあのピアス。俺にとっては天敵の、最低な男。
いい加減、たらしこむのをやめるべきだろうか。
そう思ったが、今さら態度を変えることなどできない。それに俺はすでに、ピアスの存在を知ってしまった。知る前には戻れない。三島を遠ざけたところで、あれを千切りたいと思う衝動が変わることはないだろう。
(くそっ……くそっ)
顔を歪め、閉めたはずの飼育箱の蓋をきつく押す。ぎし、と軋んだ音が鳴る。
飼育箱の中では大量の蝶がばたばたと動いていた。鮮烈な黄色と黒がまたたいて、やっぱり警告表示と同じ色だ、と思った。
キープアウト、立入禁止の、他人を入れては行けない場所。三島はそこへ入ってくる。俺の中身をめちゃくちゃにする。
(それでも──俺は耐えるんだ)
でなければ、あの光景は戻ってこない。
母を失うことだけは耐えられない。誰も傍にいない俺を、母のかつての言葉だけが、今も守り続けている。
どうしても失いたくない。だから、耐えなければ。
俺は歯を食いしばって、室内をひらひら飛び回る蝶を無視して、逃げるように飼育室を出た。ドアを閉める直前、警告表示の黄色と黒が、目の中に焼き付いたように感じられた。
衝動を振り切るように走り込みを済ませて、家を出た。
朝のニュースで晴天を告げていたので、傘は持っていかなかった。




