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それから、何事もなく六月になった。
俺はありったけの好意に似たものを寄せ集めて三島に接したし、三島は俺を探ることはしても、危害を加えることはまったくなかった。
むしろ俺の方が、たまに彼が見せる怯えた表情とか、吃った発声とかに触発されて、内心でなにかを堪えて舌打ちするようなことが多かった。
手を替え品を替え順調に距離を縮めて、今日はとうとう、休日に三島と出かけることに成功した。
誘うのは簡単だった。少しだけ強引に押してやれば、こいつは基本断らない。とはいえ、押し過ぎは厳禁だった。
三島は臆病な動物のようで、あまり押しすぎるとあっという間に逃げてしまう。かといってこちらが引きすぎると永遠に距離を縮めてはこない。
それなのに向こうはこちらに近付くつもりでいるというのだから、フィクションで見る面倒くさい女子みたいな存在だった。
そんな男でも、ひとたび〝力加減〟を覚えてしまえば簡単だ。俺が押し具合ひとつで三島の反応を操作できるようになるまで、さほどの時間も必要としなかった。
おかげで今、三島は嬉しそうな顔でベストセラー小説をぺらぺらめくっている。広々とした本屋に平積みされたそれは、人気ミステリの新作だった。
「それ、買うの」
「うーん、どうしよ。えっと……」
迷ったようなそぶりに、俺はああ、と思い至る。即座に言った。
「内容わかんないと決まんないよな。もうちょっと読んでみたら」
俺の言葉に、三島がえっ、と顔を上げる。
遠慮がちな瞳が眼鏡越しに俺を見上げた。
「でも、その、……いいの」
俺が立ち読みしてる間、おまえはどうするんだよ。
そう言いたげな顔をされ、俺は小さく笑う。さらりと隣のエッセイを手に取った。
「そりゃいいよ。ていうか実は俺、ちょっとこれ気になってたんだ。ただ、読みたいのは冒頭一章だけで」
「はあ」
三島がぽかんと口を半開きにする。はあってなんだ。それは返答として成り立つのか。呆れを強引に飲み込んで、俺は苦笑を浮かべた。
「買うほどじゃないから、今ここで読んでいきたいと思って」
買う気もないのに読むの、ほんとはあんまり褒められたことじゃないんだけどな。
そう続けると、三島はようやく得心がいったらしい。半開きの口からあ、という発声をして、こくこくと頷いた。
「じゃ、じゃあ、宗像が読み終わるまで、その……」
「悪いな。読み終わったら言うから、ちょっと待っててくれる」
「あ、う、うん……ま、待ってる」
あまりにも吃っている。俺は小さく笑うと、簡単に礼を言った。
まるで興味のないエッセイをめくる。隣では安心したのだろう、三島が頬をゆるめて小説を読みふけっていた。
(……くっそ単純)
本当に、この男は単純で、わかりやすくて、愚かしいほどバカだった。
いつだってチラチラとこちらの様子を気にかけて、毎日ひとつずつ、意を決したように個人情報を尋ねてくる。
そして俺が答えるたびに、ほっとしたような顔で息をつくのだ。覚えておくつもりだろう、なんとスマホでメモまで取っている。
(ほんと、こんなんでよく俺の弱みを握ろうとか思いついたな……)
俺は内心でため息をついた。今だっていいように俺の誘いに乗って本をめくって、俺の好感度を稼ぐことなど完全に忘れている様子だ。
三島の横顔は少しだけ紅潮して、瞳がせわしなく上下に動いている。本が面白いのだろう。
三島としばらく過ごして気付いたが、この男は本当に懸命に本を読む。
それは楽しそうとか面白そうというより、いっそ切実といってもいい風情だった。むさぼるようにという表現が、ここまで似合う男もいない。
(飢えた瀕死の小動物が、必死に餌食ってるみたい)
この男から文字を取り上げたら、本気で死ぬんじゃないだろうか。
それはそれで見てみたい気もする。まあ、俺はこいつをたらしこまなければいけないので、絶対にやらないけれど。
横顔の、レンズを隔てていない無防備な瞳が、きらきらと光って見えた。名前のつけられない宝石みたいな、不思議な色の瞳。
きれいだなと一瞬だけ思って、湧いて出た嫌悪感に眉をひそめる。
なんとなく、あの目を本気で覗き込んではいけないような気がしていた。どっちつかずの、危なっかしい眼差し。
そっと目を逸らそうとしたとき、三島が何気なく髪をかき上げた。
さら、と黒髪が動いて、耳元があらわになる。澄んだ海の底みたいな色をしたピアスが現れる。
気が付けば、くちびるをかすかに舐めていた。ぞくりとする。
駅の改札で待ち合わせたときのことを思い出した。
いつもと違う格好の三島は、そうとう早く着いたはずの俺よりずっと前にそこにいた。どうやら待ち合わせで何分前に着くのが普通、というのすら知らないらしい。
あのとき、挙動不審の三島の耳にちら、と色彩が見えて、俺は驚いた。アクセサリーなんて、三島からはもっとも遠いものだと思っていたからだ。
改札の人前だったのに、手が伸びたのは無意識だった。
指先が勝手に彼の髪をかき上げて、あらわになった耳元には、海の底みたいなきれいな色のピアスが光っていた。
ぞくっ、として──凶暴な衝動が、胸を突き上げた。
このきれいな宝石をつまんで、少しずつ、少しずつ引っ張って、耳の穴が少しずつ伸ばされていくのをずっと見ていたい。
点から線みたいになったピアスホールが引きつれて、ぴっ、とちぎれて血が出る様子を、耳から取れて赤く濡れてしまったピアスを、その手触りやにおいまで、すべてを認識してみたい。
三島はきっと呆然と俺を見るだろう。それから痛みと恐怖で表情が歪みはじめ、最後は泣いたりするのかもしれない。
それは──とても見てみたい。
衝動は思ったよりずっと強かった。今までにない、強烈に惹き込まれる感覚だった。
引きちぎらずに済んだのはひとえに、緊張で目元を染めた三島が、早口で吃りはじめたおかげだ。
あのとき大丈夫で良かった、と思い、本に顔を埋めている三島を見る。透明な海の底みたいな色をしたピアスが、ちらちらと髪の隙間から見え隠れする。俺は努力して視線を逸らした。
一区切りついたらしい、三島がちいさく息を吐いて、ちら、とこちらを見た。その視線は俺の持っている本に吸い寄せられている。
これはおそらく、読みたいというよりは、俺の本の好みを知りたいのだろう。
この男が、毎日ひとつずつ、俺の個人情報を聞き出しているのは把握している。
一日ひとつ、というルールはどうやら、過度に突っ込んで俺に怪しまれないための工夫らしい。とっくに見抜かれているというのにご苦労なことだ。
俺は三島の魂胆をすべて知った上で、適度に情報をちらつかせた。わざと当たり障りのないことばかり教えて、釣りで餌をちらつかせるような真似ばかりしている。
そのたびに三島はわかりやすく喜びを押し殺して、こっそりスマホでメモを取っていた。
今も彼はじっと俺の手元を凝視して、書籍名を読み取ろうと必死だ。
俺はさりげなく指を動かして、タイトルと著者名を見やすいようにしてやった。三島はちらちらと俺を伺いつつ、そっと身体の陰でスマホで著者名を検索している。
(バレバレだっつの……)
ここまであからさまだと、気付かないふりのほうが難しい。でも俺は知らないそぶりを貫いた。
できるだけ刺激しないよう、動きを最小限にして、三島がスマホをしまうのを待つ。もそもそとようやくスマホをポケットにつっこんで、三島はふうっ、とミステリを手に取った。
タイミングを見計らい、俺はさらりと声をかける。
「それ、買うの」
「あ、……うん、文庫だし……安いし」
「へえ。あ、これ知ってる。飛行船シリーズの」
「うん、去年の新作。文庫落ちするの、待ってたから。そろそろ探偵の過去が明らかになるんじゃないかって話題になってる。ただ、今読んでみたら、ワトソン役だと思ってた男がなんかきな臭くってさ」
「へえ。めちゃくちゃ重要な巻じゃん」
得意分野のことになると、途端に流暢に喋りだす。こういうタイプの人間特有のふるまいだ。
普段からこれくらい喋れば取っ付きやすいのに、と思うが、これも余計なお世話なのだろう。
俺はせいぜい誠実そうな笑みを作って、三島に笑いかけた。
「じゃ、もうちょっとうろうろするか」
三島は胸元にミステリを抱くと、こくりと頷いた。よっぽど楽しいのか、目元がかすかに赤くなっている。
俺はあまりにも順調すぎる状況にうっすら目を細め、三島を先導して歩き出した。小走りな足音が背後に続いた。




