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次の日。期末考査前日なのに、俺はまったく授業に集中できなかった。
先生の言うことがほとんど耳に入らず、問題集もまったく進まなくて、一度も当てられなかったのが奇跡みたいだった。
昼休みになって、母の作った弁当を忘れたことに気付いた。食欲なんてまったくなかったから、ある意味ちょうどよかった。でも、帰ったら母に謝らないといけないと思うと、どうにも気が重かった。
談笑と楽しげな物音で満ちた教室内で、タブレットをお供に昼休みを終える。
例のゲーテはようやく第一部が終わった。ファウストは愛ではなく保身のために少女を助けようとするも拒絶され、夜明けとともに彼女は処刑され、彼は悪魔に連れられて、新しい〝至高の瞬間〟を求める旅に出るのだ。
あまりにもむごたらしい、一方的で、身勝手な結末だった。うんざりした。
放課後になって、宗像がマウスの世話に俺を誘った。
期末考査は明日だから、部活はできない。それでも生き物の世話はしなければならない。俺はうなずいて鞄を取った。
生物室に向かう廊下、とぼとぼと宗像の後ろを歩きながら、考えた。
宗像のこと、蝶のこと、彼の両親のこと。
俺のこと、母のこと、生研部と予備校のこと、そして今俺はどうすればいいのかということ。
答えはひとつも出なかった。
宗像の数歩後ろを、少し離れて歩いた。宗像は何度か立ち止まって俺を待ったけれど、俺がすぐに後ろに遅れていくのを見て、かすかに眉を持ち上げて、それだけだった。
たぶんこいつは、俺が話すまで余計なことを聞いたりしない。それがわかっていたから、ありがたくて、申し訳なかった。足取りが際限なく重くなる。
宗像に、生研部を辞めるって言わなくちゃいけない。でも言えない。
理由は──もう、わからないなんて言えない。
から、と生物室の扉を開けた。宗像が奥のドアの鍵を開け、準備室の中に入る。俺ものろのろと後に続いた。ぱたん、と扉を閉める。
宗像が、そっと俺を見た。気遣わしげな瞳だった。耐えられなくて逸らす。宗像は小さく息をつくと、やるか、とだけ言った。
マウスの世話はすぐに終わった。今日はケージごと取り替える必要もなかったけれど、早く終わったのはそれだけじゃない。もうすっかり慣れきった仕事だったから、だ。手が全部覚えている。
(それだけずっと、ここにいたんだな……)
六月に入る少し前、中間考査の成績個票が帰ってきて、俺は生物室のドアを叩いた。あれから、一ヶ月ほどしか経っていないのに。なんだかあのときが、ずっと昔のように感じられる。
空調の温度を最後に確認し、準備室から生物室に戻る。宗像が、鍵を施錠しながらぼそっと言った。
「おまえ、この後どうすんの」
「……まっすぐ帰って、勉強する」
そうするしかない。今日からは母に勉強の進捗を報告しなければならない。
期末考査は明日だ。今までの成果も一緒に見せて、最低目標点数を伝える必要があった。
「……」
黙り込む。胸の底が重たくて、それなのに、足元はひどくおぼつかない。錨なんてもうどこにもないと思う。
俺はこれから、半透明で曖昧で、水みたいにぼやけた世界の中、ゆっくりと希釈されて無くなっていくんだろう。
宗像が俺を見て、小さくため息をついた。そっと視線が逸らされて、ささやき声。
「俺は……母さんに会って帰るよ」
「……そう」
それ以上、返事はできなかった。宗像と、そのお母さんのことが脳裏に浮かんだ。
初めて病院で宗像を見たとき。宗像はガラス戸の前で母を見つけて、まるで子供みたいに気の抜けた笑みを見せていた。
禁止されても怒られても会いに行って、妄想による不安をなぐさめるため、わざわざ遠くの家具屋でライトまで買っていた。
あの怖い父親に宗像が唯一反発したのは、母親のことを言われたときだった。
(宗像は……お母さんが、好きなんだ)
じゃあ、俺はどうなんだろう。わからない。
母親のことは好きだと思っていた。
俺のために色んなことをしてくれて、お母さんはあなたのためならあれもこれも我慢できるわと微笑んで、俺をM高に入れるため、ありとあらゆることをしてくれた。なにもかも、俺の未来のためだと。
でも、それは『三島家のひとり息子』のためであって、俺のためではなかった。
俺ははじめから透明で、ただそれに気付いていないだけだったのだ。
いつからこうだったんだろう。気付かない自分がばかだった。
それでも、純粋な気持ちで母を信じていられたあの頃、俺はたしかに幸せだった。
たとえいちばん最初、生まれたその瞬間から、俺は誰の目にも映っていなかったのだとしても。
(幸せ、だったのにな……)
じわ、と目元が熱くなった。
くちびるを噛んでこらえて、下を向く。宗像が、黙って俺の傍に立った。
身をかがめて、覗き込まれる気配。顔を背ける。宗像が息を吸う音。
三島、と呼びかけられた声が思ったよりずっと静かで、変に探り出そうという色もなくて、それがあまりにもありがたくて、苦しくて。俺はとうとう、自分がどうしようもなく堪えていることを思い知ってしまった。震える声が勝手に出た。
「……俺なんて、生まれてこなきゃよかった」
涙じみた、みっともない声。宗像が息を呑む。覗き込もうとするのをやめ、宗像がすっと姿勢を正した。
ごそごそ鞄をさぐる気配に、いいよ、と先んじて言う。どうせこいつのことだ、ハンカチとかティッシュとか、そういうのを渡そうとしたに違いない。
ずっ、と鼻をすすって、喉が詰まってものすごく痛くて、心臓のあたりがぎゅうっとするのに耐えた。
まばたきの回数をわざと減らして、目のうちに溜まったものを落としてしまわないように我慢した。
それでも、言葉だけはこぼれてしまう。
「帰りたくない……」
指先が震えて、それだけ言うのがやっとだった。
それきり、沈黙。
俺は必死になにかをこらえて、じっと我慢して、立っていた。
宗像はただ黙ってそこにいたけれど、ずいぶんと長い沈黙のあと、ふーっ、と長い息を吐いた。
「……なら、うち寄ってく?」
「えっ」
思わず顔を上げていた。目の端からひとしずくだけ、ぬるいものがつっと落ちた。
宗像はこちらを見ないまま、俺の返事を待っていた。慌てて口を開く。
「え、あ、だって、お母さんの、お見舞い……」
「あれはいつでも行けるし」
嘘だ、と思った。あの父親の目をかいくぐるのだ、それなりに準備とか、期間とか、制限があるはずだ。
なのに宗像はさも当たり前のように、どうすんの、と聞いてくる。
「へ、あ……俺、お、俺は……」
「……決まりな」
「え? あっ、む、宗像!」
がっ、と俺の肩から勝手に鞄をさらうと、宗像は大股で生物室を出ていく。待って、と慌てて追いかける。人の少ない廊下に、慌てふためく俺の足音がばたばた響く。
「か、鞄、返して」
「うちに着いたらな」
「宗像……!」
だってそれじゃあ、付いていくしかない。そう思って、だから宗像はわざとこんなことをしているのだと、すぐに悟る。
俺はぐっと言葉を飲み込むと、小さく言った。
「じ、じゃあ、もう少しゆっくり歩いて……」
二人分の鞄を持った宗像が立ち止まり、肩越しに振り返る。けれど彼はすぐに前へ向き直ってしまった。
それでも、もう一度歩き出したとき、その歩調は少しだけゆっくりなものになっていた。
俺は宗像の後ろを半歩だけ離れて歩いて、宗像の持った鞄を追いかけて、結局、途中で電車を降りた。




