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ありとあらゆる悪夢を見た気がする。
不安とか恐怖とか、生理的嫌悪とか、憤りや不快感。
そういう負の感情がすべてぐちゃぐちゃに入り混じって、ずるっと頬になすりつけられたような夢だった。
「……っ、……は、はあ、はっ、……はあ」
びく、と覚醒する。
ばちっと開いた目、視界に映るのは自室の天井だった。息が荒い。心臓がばくばく鳴っている。俺はすっかりずれてしまった眼鏡を整えた。
と、遠くでなにか音がするのに気付く。インターホンだった。
あの電子音のおかげで、俺は悪夢から解放されたらしい。慌ててベッドから起き上がった。手が咄嗟に眼鏡を探す。かけっぱなしだった。
足元はまだくらくらしていたが、慌てて玄関に向かう。LDKのインターホンより、直接玄関に行ったほうが早いのだ。
間隔をあけ、何度か鳴っていたインターホンが、ふっと途切れる。俺は焦って靴をつっかけた。
「い、いま開けます」
誰に言うともなくつぶやき、扉を押し開ける。ふわ、と外の風が中に吹き込んだ。はーい、と小さく声を上げる。
「……よお」
「えっ」
そこには、宗像が立っていた。
いつもと変わらない表情、実直な瞳の表面に、目をまんまるにした俺が映っている。なんで、と声がこぼれた。
「忘れ物。届けに来た」
「わ、すれもの……?」
「そう」
ごそごそ鞄を探ろうとする宗像に、俺は慌てて待って、と言う。宗像の瞳がすっと持ち上がって俺を見た。
俺はきょろきょろと左右を見回して、言った。
「あの、上がって……ここじゃ、なんだし」
「わかった。じゃあ、お邪魔します」
玄関のドアを閉めて、二人して靴を脱ぐ。廊下を進もうとして、宗像がついてきていないことに気付いた。
振り返ると、宗像はしゃがみこんで、脱いだ靴をきちんと揃えている。育ちが良い。
俺が待っていることに気付いたのか、悪い、と行って宗像が歩み寄ってきた。首を振る。
先導して、とりあえずLDKの方に通した。
「えっと、椅子の方でいい? 座ってて。麦茶しかないけど……」
「ああ、おかまいなく」
「いや、外蒸し暑いだろ。飲んでったほうがいいって」
できるだけ、普通に振る舞おうと努力する。ほとんど習性、みたいな行為だった。
変に気を遣われるのも本意ではなかったし、心配を誘うようなことだってしたくない。できるだけ、なんともないと思われていたかった。
がぱん、と冷蔵庫を開けて、麦茶を用意していると、ダイニングの方から宗像の声がした。
「おまえ、なんで休んだの」
「あー……派手な寝坊したら、急に面倒になっちゃって。休むことにした」
軽い口調で言う。麦茶をグラスにそそぐのに、手元がぐらぐらしてこぼさないかひやひした。側頭部が脈打つような感覚がある。盆に移すために持ったグラスが、すごく冷たくて気持ちいい。
俺はできるだけふらつかないよう、足元を踏みしめて歩いた。
グラスを出して、対面に座る。なんとか無事に席につくことができて、俺はひそかにほっとした。
宗像は簡単に礼を述べると、麦茶を飲む。うま、と笑った。
「すげえ久しぶりに飲んだわ」
「そう? 水入れて放り込むだけだから楽だよ」
「自分で淹れてんの?」
「まあ、うん……おまえだって、自分で淹れてるじゃん、アイスコーヒー」
「あれはお客さん用だろ」
そういうものなんだろうか。なにせ来客の経験がないのでわからない。
というか、良く考えてみれば、今が初めての来客なのか。こんなコンディションでなかったら、もう少しまともな出迎えができたのだろうか。
霞がかった頭でなんとか意識を維持しているだけなので、思考がどうしても取っ散らかる。俺は小さく息を吐くと、で、なんだっけ、と尋ねた。
「ああ。忘れ物」
宗像が、鞄をごそごそやって取り出したのは、あのタブレットだった。
え、と口が半開きになる。宗像が俺を指さして、またその顔する、と苦笑した。
(忘れてたんだ……)
あんなに大事にしてたのに。忘れたことすら気付かなかったなんて。
俺はたどたどしく礼を言うと、タブレットを自分の方に引き寄せた。
起動すると、読みかけだったゲーテが現れる。
母と嬰児を殺した少女が牢に入れられ、恋人ファウストが助けに来るも拒絶して、恋人の処刑を前にしたファウストが『私など生まれてこなければよかった』と慟哭するシーンだった。
「学校で渡そうと思ったけどおまえ、休んでるし」
ちょっと様子見るついでな、と宗像が笑う。そっか、と笑い返して、俺は自分の分のグラスを口に押し当てた。飲むふりだけして、すぐグラスを戻す。また気分が悪くなるかもしれないと思ったからだ。
宗像はあっつ、とつぶやくと、グラスを持ち上げた。
「ごめん、ちょっと一気するわ」
言うやいなや、全部飲み干してしまう。
俺は思わず自分のグラスを差し出していた。ずっ、とテーブルの上をグラスが滑る。
「よかったら……飲む?」
「や、大丈夫」
おまえ飲めよ、と宗像が言って、視線がふと俺のグラスに留まった。目元がかすかにひそめられ、宗像の視線が俺を捉える。
じっ、と見つめられ、俺は思わずたじろいだ。
「な、……なに」
「無理すんな。おまえ、具合悪いだろ」
「えっ」
あっさりと言い当てられて、目が驚きで丸くなる。半開きになった口から、呆然と言葉が漏れ落ちた。
「なんで、わかったの」
「……いや、見てりゃわかるよ」
麦茶だって全然減ってないし、さすがに、と言われる。信じられなかった。むしろなんでわかんないと思ったんだよ、と続く声に、なんだか気が抜ける。
途端どっと身体が重くなり、俺はへなへなと机へ突っ伏してしまった。
正面で、慌てたように椅子を鳴らす音。おい、と焦った呼び声。
俺は朦朧とした頭で、机の天板が冷たくて気持ちいいなあ、なんて事を考えていた。
ほとんど意識しない言葉が、へろへろと口から勝手にこぼれていく。
「だってお母さん、気付かなかった……」
一瞬の沈黙のあと、宗像の、いつもより低い声が問う。
「父親は」
「えっと……前に顔見たのいつかな……」
宗像が強烈に、黙り込む気配。静かになる。
音がなくなったとたん、強烈なだるさがやってきて、俺はこてんと顔を横に倒し、目を閉じてしまいそうになるのに抗った。
まばたき、と呼ぶには長すぎるそれを抵抗のように繰り返していると、宗像の手がそっと俺の目元を覆う。
「寝てろ」
「でも」
「いいから。寝てろ」
「……でも……」
でも、の続きがどうしても思いつかなかった。
抗いたい理由があったはずなのに、なんだかもういいや、という気持ちになる。
だって宗像の手は大きくて、骨ばっていて、ひんやりして、ものすごく気持ちいい。ずっとこうだったらいいのにと思う。
大きな手のひらがそっと動いて、俺のまぶたをゆっくり撫でた。
ああ気持ちいいなあ、安心するなと思う。
それきり、俺は長い息を吐くと、もうどうでもいいや、と意識を手放した。




