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気が付いたら、自室のベッドで寝ていた。
は、と詰まった息を吐いて、薄く目を開ける。悪い夢は見なかった。珍しい。
無意識に枕元をさぐって、眼鏡をかけて、今何時だっけ、とぼんやり考える。
途端、ぬっ、と視界の真ん中に宗像の顔が入ってきた。へっ、と変な声が出る。
「……むなかた」
「どう。具合」
「えっと……ちょっとだけ、頭、いたい……かもしれない……たぶん……」
見慣れた天井を背景に背負って、宗像が思い切りため息を付いた。
あのなあ、とたしなめるような声。
「症状の確率を勝手にどんどん下げるな。正直に言え」
「だ、だって……」
正直に言ったって、どうにもならないし。頭が痛いのも身体が熱いのもぼーっとするのも、汗で寝間着が張り付いて気持ち悪いのも、吐き気がまだ少し残ってるのも、口に出したってなにも変わらない。
そういう内容をほとんど無意識でつぶやくと、宗像ははあーっ、とものすごいため息をついた。
「やっぱ具合悪いんじゃん……言えよ……」
「……だから、言ったって、どうにも」
「看護の方針があんだよ。ほら、ちょっとだけ頑張って身体起こせるか」
「え……?」
なんだか聞き慣れない言葉を聞いた気がする。俺は宗像の大きな手が伸びてきて、気持ち悪かったらすぐ言え、と背とベッドの隙間に差し込まれるのを、呆然と眺めていた。
「ゆっくりな」
本当にゆっくり、背を支えられて身体を起こさせられる。くら、と眩暈を覚えたけれど、思ったような吐き気は来なかった。
ようやく九十度になった俺を見て、宗像が着替えどこ、と言う。なんのことだかわからず素直に答えると、開けていいかと尋ねられた。
「……なんで……」
「だから、着替え。汗、ひどいから。ほっとくと悪化する」
「あー……」
そういうものなのか。
そういえば、まだ俺が母親の目に映っていたころ、体調を崩したときは、着替えとかお粥とか、あらゆるものが準備されていたっけ。早く良くなって、明日は学校に行けるようにしましょうね、と言いながら、普段はしてくれないことまでたくさんしてくれた。懐かしい。ものすごく昔のことみたいだ。
「……で。開けていいの、悪いの」
「あ……いい……」
「ん」
宗像は無造作にタンスを開けると、てきぱきと着替えを取り出した。
大股が歩み寄り、一度額に手を当てられる。ひんやりして気持ちいい。
「んー……ちなみに今、寒い? 熱い?」
「あつい……」
「なるほど。じゃあ、もうちょっと頑張ったら下がるかもな。体温計ある」
「わかんない……」
「じゃあいいや。着替え、できそう」
「……たぶん……」
ほとんど朦朧と会話をして、宗像の手が額から離れていく。
ああもったいないな、と思ってぼうっと見ていると、宗像が十秒くらい待って呆れた顔をした。なんだっけ。
「なんだじゃない。もう一回聞くけど、着替え、できそう」
「あー……」
着替え。着替えって言ったのか。そうか。あんまり聞いてなかった。
俺はもたもたとボタンをたぐった。うまく外れない。頭から抜くか、と思ってめくりあげようとして、眩暈でうまくできなかった。
かけっぱなしの眼鏡がひっかかり、ぐら、と上体が傾いて、ベッドに倒れそうになる。おっと、と声がして、ぐっと背中を抱えられた。ため息の音。
「おまえの自己申告、まるっきり当てになんねえのな」
「ご、ごめん……」
「いい。頭ぼーっとしてたらそんなもんだ。ちょっとじっとしてろ」
そう言うと、宗像はさっさと俺のボタンを外しはじめた。露出した肌、汗が冷えてすうっとする。気持ちいい。思わず目を細める俺に、タオル片手の宗像が言った。
「拭くから腕上げて。こういうの、ほんとは身内にやってもらった方がいいんだろうけど……俺で気持ち悪かったらごめんな」
「へ……あ、うで……」
なんだか宗像の台詞が長すぎて、なにを言っているかわからない。俺はただ断片的に拾った単語をつなぎ合わせ、なんとか腕を持ち上げた。
乾いたタオルがさっと肌の上を走っていく。独特の感触がなんだか新鮮で、ふは、と小さく吐息が漏れた。
宗像はあっという間に俺の身体を清めて、新しい寝間着に着替えさせた。妙に慣れていて、手際がいい。すごいな、と思って、すぐ思い至った。宗像は、お母さんがああいうことになったから、看護の経験があるのかもしれない。
「よし、終わり。ほんとは下着も変えた方がいいんだけど、さすがにそれはな。我慢してくれ」
「うあ……あり、がとう……」
「あー……さっきより意識レベル下がってんな……」
そっと背を支えられ、後ろに倒される。胸の上まで布団をかぶせられ、とん、と無造作に叩かれた。俺はただされるがままになって、はふ、はふ、と苦しい呼吸を繰り返している。
頭がぼうっとして、頬がものすごく熱い。息が苦しい。吐いた息がものすごく湿っていて、熱くて、吸う息がぬるく感じる。目元がやたらと厚ぼったく感じて、俺は何度もまばたきを繰り返した。
ぎしっ、と音がして、宗像がベッドに腰掛ける気配。天井を背負って、男っぽい、整った顔が俺を覗き込んでくる。ふ、とかすかな笑い声。
「おまえ、眼鏡したまま寝んの」
(あー……めがね……なんだっけ……)
そういえば、宗像の顔が、思ったよりよく見える。外し忘れたらしい。
大きな手が伸びてきて、かち、とフレームに触れた。ゆっくりと眼鏡を外されて、耳の上をツルが通り過ぎていく感触。巻き込まれた横髪が頬にかかる。
宗像は枕元に眼鏡を置くと、そっと頬の髪の毛をはらってくれた。汗ですこし湿った髪が、重力に従ってはらりと落ちる。動作の端々で触れる指先の感触が冷たくて、すごく気持ちよかった。なんだか、安心する。
宗像は、眼鏡を外し終えてもベッドから立たなかった。ただ俺の枕元に座ったまま、じっとこちらを覗き込んでいる。なんだろう、と見上げていると、宗像がかすかに目を逸らして、もう一度俺を見た。
(あ……)
いつもの目だ。
色のない、静かな、よくわからない瞳。実験用マウスを見つめるときの。
ぎっ、とベッドのスプリングが鳴る。宗像の片手が俺の顔の横に置かれていた。
反対の手が、ゆっくりと近付いてくる。骨ばった指先が頬のすぐそばを通り過ぎるのを、俺はただぼうっと見つめていた。
ひや、とした指先が耳元に触れる。つけっぱなしの透明ピアス、その表面をなぞるように指先が動いて、耳たぶごとそっとつまむような動作。
俺はただ、ぼうっと宗像を見上げていた。宗像は俺を見下ろしてはいたが、その瞳にたぶん、俺はほとんど映っていなかった。不自然なほど淡々とした、静かな瞳。
指先に、ゆっくりと力がこもる。じりじりと、ほとんどわからないほどの速度で、ピアスをつまんだ指が動く。耳と反対の、外側へと。
宗像は、じいっと俺を見下ろしたまま、淡々と、一定の速度で、ピアスを引いた。やめる気配も、ためらう様子も、一切なかった。
ピアスホールが引き痙れる、裂けるようなぴりっ、とした痛み。ぴくっ、と身体が動いて、痛みのためかすかに目元をしかめる。
ひっ、と喉の奥で、生理的に呼吸が詰まった音。それを聞いた瞬間、宗像の目になにかが宿った。
色のない、透明で、静かで底のない、深い深い水底みたいな──
(あ──……)
それを見て、わかった。はっきりした確信が俺を震わせた。
たぶん宗像はずっと、このピアスを、引きちぎりたいと思っていた。
あの色のない瞳で見つめられるとき、彼の底にはいつも、その衝動があったのだ。
「むな、かた」
ひりついた痛みをどんどん増していく耳元の感覚に、ほとんど無意識に彼を呼ぶ。
その瞬間、はっ、と宗像がまばたきした。彼の瞳に俺の姿が戻ってきて、宗像がほんのかすかに顔を歪める。
この表情だ、と思った。
正と負とそれからその中間の、ありとあらゆる感情が一瞬で見え隠れする、あの表情。
流星が、ふたたび俺の中に落ちてくる。
音を立て、火花を散らし、燃え落ちるような情動が、俺の内側をこすっていく。
どくっ、と心臓が動いて、指先が歓びに震えた。宗像のどうしようもない表情、さまざまの感情が見え隠れする瞳、剥き出しの、とてもきれいな、生きたなにか。開いたドア。
その内側をくっきりと覗き見て、ああそうか、と思った。
どこか深いところがじいんと震えて、確信に胸の底がさざめいた。
宗像は、ぎりぎりの縁みたいなところに立っていて、落ちるのをじっとこらえている。
縁の縁、そのいちばん危うい端っこで、必死で耐えている宗像がぐらりと揺れるその瞬間が、きっと今なんだ。
(そうか、宗像のドアの向こうは、……こんな風になってるんだ)
不思議な充足があった。
陶酔に似た感覚が、一瞬がまだ続いている。
じりじりとピアスを引っ張られて、痛みはますます明確になる。宗像はあの表情を、世界中でいちばん無防備で危うい目をしたまま、それでもピアスから指を離さない。
熱でリミッターのゆるんだ頭で、震えるほどのリアルを感じた。生きているという実感が全身をしびれさせて、俺のいちばん底で眠っていたものが熱を持つ。
ぴっ、と耳の皮膚が、かすかに裂ける気配があった。痛かった。
痛みはリアルだ。曖昧で、半透明で、ぼんやりとした嘘みたいな現実の中で、この感覚だけは本当だ。
うっとりと口を開いた。言葉が、勝手にこぼれだす。
「……それ、もっとしてほしい……」
「は──」
宗像が、びくっ、と全身を強張らせた。
まるで熱いものを触ったみたいに、弾かれるように手が離れる。
宗像はものすごい顔をして、さっきまでピアスを千切ろうとしていた手を、反対のそれできつく握った。戒めのようだと思った。
(そんなこと、しなくて、いいのに)
耳元が、余韻でじんと痛んでいる。とんでもない多幸感。
目の前にさらけ出された宗像の、なにかとても美しいもの。
それを見た時に感じる、しびれるようなあの情動。
生きている実感、圧倒的なリアル、半透明な世界を塗り替える、本当の、なまの、生きた〝なにか〟。
どうしようもなく、満足してしまいそうになる。
耳のあたりがじわっとした感じがあって、たぶん血がにじんだんだろうと思った。いいな、と思った。
目の前で、宗像が呆然と俺を見下ろしている。その表情にさっきまでの静けさは見て取れない。残念だな、と思って俺は、長い息をふーっと吐いた。ふわふわした多幸感に目を閉じる。
それきり、俺の意識は引きずり込まれるように眠りへ落ちていった。
水の底、打ち込んだ錨よりもっとずっと圧倒的なものが、ずぶずぶと沈んでいった気がした。




