30
薄曇りとゲリラ豪雨ばかりを繰り返す梅雨はしだいに深まっていき、六月の最終日になった。
昼休み、俺は弁当を広げて、ぼんやりと頬杖をついていた。
地味で品数の少ない弁当はさっきからちっとも減っていない。食欲がなかった。ものすごく眠い。
(あの薬、ほんとに効いてるのかな……)
言われた通り、栄養剤も睡眠導入剤も、きちんと毎日飲んでいる。
だけど眠れないのはほとんど変わらなかった。寝付けたと思ったら何度も目が覚めたり、内容を覚えてはいないけれどひどい悪夢で飛び起きたり。状況はちっとも好転していない。
それどころか、副作用らしい眠気がひどくて、早朝の勉強に身が入らないでいた。どうしても効率が落ちるので、最近は五時どころか四時半起きになっている。どうせ眠れないで何度も目が覚めるのなら、何時に起きても同じことだ。
ふあ、とあくびを噛み殺し、タブレットをめくりつつ弁当を食べる。おいしくはない。自分で作った弁当は本当にただ『詰めただけ』で、とりあえず腹を膨らませるだけのもので、彩りとか栄養とかは二の次だった。
こういうのが良くないのかな、と思いはするものの、U大を目指して本気で勉強していたら、ちゃんとした食事なんて作れない。しょうがなかった。
ちっとも味のしないスクランブルエッグを無理やり口に押し込んでいると、長身が大股で近付いてくる気配があった。ぼんやりと顔を上げる。
「よお。具合、どう」
「普通だよ」
「ふうん」
ならいいけど、と言って、宗像は勝手に俺の前の椅子に座る。最近では、椅子の主に「借りるぞ」の声掛けすらしなくなっていた。文句やその他リアクションが一切飛んでこないところからして、どうやら持ち主とは何かしらの契約が交わされたらしい。
がた、と椅子を鳴らし、宗像が俺を覗き込む。思わず視線を逸らした。宗像の眼差しに俺が映ることには慣れてきたが、至近距離にあの整った顔があるのは、やっぱり少し落ち着かない。
「三島」
「な、なに」
「これ。やる」
唐突に言われて、目の前になにか透明な袋が差し出された。
可愛らしいリボンで結ばれた透明な袋、中にはクッション材と思われるピンクの紙の小間切れみたいなものが入っている。
そのクッションで緩衝された上に、見覚えのあるものが収まっていた。人間工学に基づいたデザインの、トングとおたまのセット。ぱっ、と顔を上げた。
「え──これって」
「欲しそうな顔してたから」
「で、でも、え、な、なんで?」
「誕生日だろ、今日」
「あ……え?」
慌ててタブレットを確認する。時刻表示の上に記された小さな文字は、たしかに俺の誕生日、六月三十日を示していた。目が丸くなる。
「お……覚えてたんだ……」
「そりゃそうだろ」
さも当たり前のように言われ、これがコミュ力というものか、と痛感する。俺はびっくりした猫みたいな顔をしたまま、プレゼントと宗像の顔をひたすら交互に見た。
キッチンツールだからだろう、ラッピングはどこもかしこもピンク色で、完全に女子向けっぽい雰囲気だ。
俺はかすかに首をかしげ、宗像におずおずと問いかけた。
「通販したの」
「いや、商品名覚えてなかったから。あそこで買った」
「え!?」
思わずでかい声が出る。ちら、と何人かのクラスメイトがこちらを振り返って、俺は慌てて肩を縮こまらせた。宗像がくっくっく、と肩を揺らして笑っている。
「すげー顔。てか、おまえがそんな大声出すの、初めて聞いた」
「え、いや、だって、あんな、女子の巣窟みたいな店で?」
「おう。正直、死ぬかと思った」
そりゃそうだ。そのシチュエーションだったら、俺だって死ぬ。
だが宗像はからりと笑っていて、むしろ面白かったとでも言いたげな顔だった。
じわじわと、なんとも言えない感情が湧き上がってくる。キッチンツールの袋を握った手に力がこもって、ビニールが音を立てた。あの、と口を開く。
「ありがとう……ほんと、わざわざ、えっと……ありがとう」
「ははっ、二回言うとか。ま、どういたしまして」
とても軽い口調で返されて、俺は手元のキッチンツールを見下ろすしかできなかった。心臓の音が、少しだけ早くなっている。
どうしよう。友達……と思われている相手から、誕生日のプレゼントをもらうなんて、生まれて初めてかもしれない。胸の奥が不思議な感じにどきどきしていて、足元がふわついた。なんとも言えない高揚感。
「あの、俺、お礼しないと」
慌てて言ったけれど、宗像はいいよと笑うだけだった。そういう訳にはいかない。だめだと何度も申し出る俺に、宗像はぷっと吹き出す。
「おまえ、すげー顔。必死かよ」
「そ、そりゃ、そうだろ」
「ははっ。じゃあ、そうだな。俺んとき返してくれればいいよ」
「あ……えと、十二月、二十八日?」
「そうそれ」
ごく当たり前のようにさらりと言われて、俺は思わず言葉に詰まる。
胸の辺りを押さえて、あいまいに頷いた。宗像の誕生日。十二月二十八日。冬生まれの一日、友人には祝ってもらえないという、その日。
(冬……)
そんな先まで俺は、この男の隣にいるのだろうか。いることができるのだろうか。わからない。冬は未来だ。
未来なんて半透明で曖昧でぼんやりしていて、あまりにも現実味がない。俺の内側をこすっていく知識の数々や、あの〝なにか〟としか言えない情動に比べれば、吹けば飛ぶような心許なさだった。
視界の隅で、宗像の大きな手が動いた。ぽん、と頭を叩かれる。顔を上げると、宗像はいつものように笑っていた。喉の奥で小さく、笑う声。
「そんな気張るなって。たまたま、覚えてたらでいいから」
「あ……うん……」
相変わらず、宗像の気遣いは完璧だ。きっと宗像は、俺が誕生日にプレゼントを忘れていたって、変わらず笑っているに違いない。冬になっても。
半年後のことを考えようとして、なにひとつ思い浮かばない自分に気付く。じくりとどこかが軋むような、冷えるような感覚を覚えた。
(……未来なんて、なにもわからない)
だって誰も俺の未来に、期待なんてしてないから。俺自身でさえも。
ぎゅう、とキッチンツールを握りしめる。ビニールの袋ががさりと音を立てる。
俺はもう一度宗像に礼を言うと、プレゼントを大事に鞄にしまいこんだ。宗像が笑う。
「そんな丁寧に扱わなくても、壊れないって」
「それはそうかもしれないけど……なんか、気分的に」
俺の言葉に、宗像がとても楽しそうに肩を震わせた。他人の椅子をぎしっと揺らして、彼は楽しげに提案する。
「じゃあ今日は、茅の輪くぐりして帰ろうぜ」
「え? あれマジだったの」
目を丸くして尋ねる俺に、宗像は自信満々に言った。
「マジ。駅までの途中、神社あるだろ。あそこ。ちょっと混んでるけど、くぐるだけならすぐだろ」
「男二人で? うわ……」
「そういう顔すんなよ」
罰ゲームで手ぇ繋いでやろうか、と言われ、俺はたちまち顔をしかめた。
いくら冗談とは言え、男二人がお手々繋いで茅の輪くぐりは、いくらなんでもシュールが過ぎる。
そうやってくだらないことを喋っているうちに、宗像の誕生日、半年後の冬に対する漠然とした不安とか、自分の未来に対する空っぽな感覚とかは、不思議とやわらいでいた。
結局その日の帰り、俺達は神社に寄って順番に茅の輪をくぐった。
無病息災、と言いながら長身を折り曲げて輪っかをくぐる宗像に、もしかしてこいつは俺の体調を心配して茅の輪に誘ったのかな、と思った。本当か考えすぎかはわからない。でもそのことを思うと、なんだか胸の底が不思議な感じがした。
連れ立って歩いて、そういえば友達と帰りにどこか、それも勉強とは関係のないところに寄るなんて初めてだ、と思い至る。
誕生日プレゼントも、寄り道も休日の外出も、二人の本屋もファストフードもぜんぶ、俺の今までの人生には、ひとつも存在しないものだった。いつもよりキッチンツール一揃いぶんだけ重い鞄が、妙に軽やかに感じられる。
家に帰るまで、鞄の中のキッチンツールが無性に存在を主張して、俺はずっと落ち着かなかった。
宗像が先に下車したあとも感覚は消えてくれなくて、俺は電車に揺られながらずっと、この先の冬、もしまだ何かが許されるのなら、宗像になにをあげたらいいんだろうとか、そんなことばかり考えていた。




