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部屋の真ん中にローテーブルを引っ張り出して、二人向かい合って期末考査の勉強をした。
宗像は丁寧に俺に勉強を教えてくれた。宗像の説明は簡素で、余計な情報がひとつもなくて、きちんと筋道立っていて、ものすごくわかりやすかった。今すぐこれで食っていけると思うほどだ。
俺は説明を終えた宗像をぽかんと見上げて、はあ、と間抜けな声を漏らした。
「おまえ、ほんと……マジで頭よかったんだな」
「それ二度目。あまりにも失礼」
宗像が苦笑する。俺はごめん、と小さく謝ると、説明通りの文言をノートに書きつけた。ちら、と宗像を見上げて、問いかける。
「なあ、前の高校って、どこだったの」
これだけ優秀だったのだ。M高校を蹴ったとしても、それなりに名の知れた高校に決まってる。
そう思ったのだが、宗像はかすかに笑った。
「たぶん、三島は知らないと思う」
「そうか? 俺、受験のとき、全国の高校洗い浚い調べさせられたから、わりと詳しいと思うけど」
「……そう」
じゃあ言うけど、と前置きして告げられた高校名は、意外にも俺の知らない高校だった。
宗像が、やっぱりな、と笑う。
「知らないだろ」
「ご、ごめん……」
「県外なら普通だって。すげえ近所の、普通の高校でさ」
「そうなんだ」
「通学時間短いのが良くて選んだんだ。チャリ通だった。楽だし良かったよ」
さらっと笑う宗像。俺は頷きながらも、うん? と心の中で首を傾げていた。
たしか以前盗み聞きしたときは、M高を蹴った理由は『偏差値よりも学校の特色で選んだから』だった気がする。
頭の中で疑問符を浮かべる俺をよそに、宗像は勉強に戻っていた。
俺はそっとスマホを取り出す。ローテーブルの陰で操作して、さっき聞いた学校名を検索してみた。すぐに結果が表示される。
(偏差値は……48──って、え?)
あきらかに、宗像の能力と釣り合っていない。というか、M高からの落差がすごすぎて、正直びっくりするレベルだ。ここまで差があると、いろいろ不便があるんじゃないだろうか。
「ん、なんか連絡来たか?」
「あ……ううん。時間見ただけ」
慌ててスマホをポケットにしまう。今見たものは──見なかったことにしよう。
宗像がM高を蹴ったことを俺が知っているなんて、宗像は知らない。もし俺がそれを知っているとわかっていれば、きっと彼はあのときと同じ『学校の特色で選んだ』と言うのだろうと思った。
そのとき、ふと目の前が陰った。は、と顔を上げる。宗像が、ひらひらと俺の顔の前で手を振っていた。
「さっきから、ずっと手、止まってる」
「あ……ごめん」
「や、謝ることじゃないけど」
宗像は少し思案げな顔をすると、そっと俺を覗き込んだ。ローテーブルを挟んで、男っぽい整った顔が、ほんのわずかに近くなる。なんとなく居心地が悪くて目を逸らした。
「大丈夫か」
「な、なにが」
うろたえる俺に宗像はとても短く、体調、とだけ返す。俺は無意識のうちに、床に置いた鞄、その中の処方箋を守るように、そっと鞄を後ろに押しのけていた。とても小さな声が出る。
「……大丈夫。ちょっと、栄養足りてないだけ」
宗像はじっと俺を見つめていた。色のない静かな瞳、実験用のマウスを観察するときと同じ、よくわからない眼差しが、俺の上をゆっくりと滑っていって、止まる。腕の辺りを見つめられ、ぼそりと彼は言った。
「三島がそう言うなら、……いいけど」
「……うん」
宗像のたくましい腕とぜんぜん違う、生っ白い、痩せた腕。なんとなく恥ずかしくなって、俺は隠すように腕を引き寄せる。宗像がすっと視線を逸らした。たぶん俺が気にしてるのをわかって、あえて視線を外してくれたのだろう。宗像の気遣いは完璧だ。
俺は気持ちを切り替えようと、もたもたとシャーペンを握り直した。広げっぱなしの問題集をどこまで解き終わったか、一瞬わからなくなる。宗像がすかさずとん、と指先で紙面を叩いた。
「次、ここ」
「あ、ありがとう」
カリカリとシャーペンの先端を走らせ、文字を書き付けていく。宗像も同じようにした。静けさが戻ってくる。昼過ぎの光が差し込む部屋の中、筆記具の音だけが淡々と響いた。本当に静かで、なにもなくて、平穏だった。
なんとなく、落ち着くなと思った。
図書室で勉強しているときの穏やかさと似ていて、でもなにかが違っている。誰も俺を見ない、誰も俺に気付かない中、それでも誰かと同じ時間を共有していた図書室の放課後。
同じような環境だけど、今は宗像が俺を認識している。彼の瞳には、俺がたしかに映っていた。たとえ視線がこちらを向いてないときでも。
(なんか……変な感じ)
不思議で、落ち着かなくて、不慣れな感じがあって、そわそわして、でも。ちっとも嫌じゃなかった。
宗像の意識の大半は問題に向いている。だけど彼の認識の何分の一かは、常に俺の方に向かっている。ここに俺がいて、座って勉強していることをわかっている。なんだか落ち着くような、ほっとするような、そういう感じがした。
(なんだ。来て、よかったじゃん……)
あの、家具屋の隅っこで感じた、『やめたほうがいい』という強烈な感覚はすでに遠くなっていた。
さらさらとペン先が走って、俺の内側に、こすれるように知識が落ちていく。没頭と集中が心地いい。
正面には宗像がいて、透明じゃない俺のことを認識している。むごたらしいマウスの実験のことも、蝶の死骸のことも、俺を揺らす情動のことも、この時ばかりは忘れていられた。
それから一時間ほど勉強してようやく、俺達はふーっ、と一段落ついた。
淹れてもらったアイスコーヒーを片手に、休憩する。ぽつぽつと他愛ない話をしたり、たまに黙り込んだりして、でも宗像と過ごす沈黙は特に苦にならなかった。
「そういえばさ」
「なに?」
ストローを使わずにコーヒーを飲む宗像が、ちら、と俺を見た。
「三島って、志望校決まってんの」
「え……えっと、いちおう……」
何気ない問いかけだった。だけど俺はかすかにぎくりとして、からからとグラスを混ぜる速度が早くなる。
宗像はふうん、と言うと黙って続きを促した。俺は迷って、言葉を飲み込んで、考えて、言った。
「たぶん……U大……だと、思う」
「へえ。まあ三島ならそうか。おまえいつも、すげー頑張ってるしな」
「べつに……普通だよ」
正直なところ、俺から一瞬で学年トップをかっさらっていった男に言われても、嫌味にしかならない。
でも宗像は、そんな意図など一つも持っていないだろう。それがわかるから、俺はあいまいな表情をするしかない。
「学部とか決めてんの。うちのクラスにいる以上、理系なのは確かだけど」
「……えっと」
うろうろと視線がさまよい、落ちていく。宗像がそっと目を細めた。〝三者〟面談のときを思い出す。
あのときに先生へ告げた嘘ばかりの取り繕いが、宗像の前ではどうしてだかうまくできない。理由はわからない。正直になりたいような気もしたし、なにもかも嘘で塗り固めたい衝動も同時にあって、自分のことなのに、胸の内はまるで判然としなかった。
俺はしばらくのあいだ悩んで、結局、ぼそぼそとつぶやく。
「宗像は……どうなんだよ。学校とか、学部とか。やっぱ生物学なの」
「……どうだろうな」
帰ってきたのはあいまいな言葉と、淡い笑み。
俺はかすかに首を傾げた。宗像ほどのしっかりした、完璧できちんとした男が、二年の一学期も折り返した今になって、進路の一つすら決まっていないとは思えない。
俺の問いたげな目に応えて、宗像は小さく息を吐いた。
「志望校は決まってるよ。S大」
「え──」
県内の私立だった。宗像ならU大どころか、海外のもっとすごい大学だって狙えるのに。絶対にとんでもない大学名を挙げると思っていたものだから、意外だ。
目を丸くする俺を見て、おもしろい顔、と宗像は小さく笑った。
「偏差値だけが全てじゃないだろ。学校ごとの特色とか、いろいろあるし」
「……特色」
「そう。あそこの方が、やりたいことやれると思ったんだよ」
さらりと出てくる言葉に、胸の底がひっかかるような感覚を覚える。
偏差値だけが全てじゃない、学校ごとの特色で選んだ。以前その言葉をそっくりそのまま、教室のドア越しに聞いた。
でもそれは大学じゃなくて、高校を選んだ理由のはずだ。
俺は面談のときを思い出す。先生の前で、互いの目に互いをまったく映さぬまま、表面だけの台詞をやりとりしたときのことを。
宗像の言葉はそれに似ていた。まるで用意された脳内チャートに従ってはじき出された、決まった台詞みたいに。
(もしかして……)
唐突にふと、気付く。宗像はM高を蹴って、自転車で行けるほど近所の高校に行った。さらに、今度もU大くらい軽く行けるはずなのに、地元の大学に行こうとしている。
(この家──実家を出られないとか?)
あの怖い父親が許してくれないのかもしれない。でもそれなら、受験はさせてくれたというのが腑に落ちない。なにかあるのだろうか。
考え込む俺をよそに、宗像は珍しく、ぼんやりと空を見つめていた。
病院から帰ってから、彼の様子はなんとなくぼうっとしている。疲れているのかもしれない。それでも完璧っぷりを崩さない辺り、さすが宗像とでも言うべきか。
ずっ、とストローでコーヒーをすする。
その小さな音に呼応するみたいに、宗像がほとんど聞こえないくらい小さく、ぼそっとつぶやいた。
「……知識は、俺を裏切らない」
ぴく、とストローを持つ指が動く。俺はそっとグラスを置くと、宗像、と呼びかけた。返事はない。
宗像はどこかぼんやりした表情のまま、窓の外を見ていた。
空梅雨の薄曇り、はっきりしないぼやけた天気。横顔が、誰に聞かせるでもないような言葉をつぶやく。
「……身につけた知識は俺を裏切らない。誰に奪われることもない。俺の周りに誰一人いなくなっても、知識だけは俺のことを最後まで守ってくれる」
「それ……」
思わず言うと、宗像は初めて俺が聞いていることに気付いた、みたいな顔で、ゆっくりとこちらを見た。
あまり見たことのない表情、あのバスのステップで見たのと、良く似た顔だった。なんとなく心許なさそうな、誰もいない風景の中を一人で立っているみたいな、そういう。
「俺も、そう思う」
ゆっくりと、噛みしめるように言った。
宗像はかすかに眉を動かして、ただ頷く。視線が逸らされ、実直な眼差しはふたたび窓の外に戻る。
「……母さんが、そう言ってた」
とても、本当に小さな声。全身全霊で耳を澄ませてようやく聞き取れる、くらいの声量を、俺はなんとか聞き取って、うまく表現できない気持ちのまま、宗像を見つめた。横顔が、静かに薄曇りを眺めている。
俺はそう、とだけ小さくつぶやくと、薄くなったコーヒーを一口飲んだ。
宗像は俺の方を見ないまま、グラスを一気に傾ける。宗像のグラスの中で氷が崩れる音がして、くっきりした喉仏が大きく動く。
「……冷た」
宗像はそれだけ言うと、とん、とグラスをローテーブルに置いた。俺は最後のコーヒーを吸い込み、こくんと喉を鳴らす。
エアコン入れるか、と宗像が言って、大きな手がリモコンをさらった。
小さな電子音とともに、一足早い夏を思わせる冷風が室内に吹き込んできた。




