20
その部屋に入った途端、うわ、と声が上がっていた。
エアコンから風が吹き付け、ひんやりしている。それに電気もつけっぱなしだ。
部屋の中には所狭しとスチールラックが並んでいて、そのうちいくつかにはカーテンがかかっている。
おびただしい数の飼育箱が、スチールラック一面に並んでいた。
「ほんとに飼育室じゃん……」
「だから言ったろ」
宗像は笑って、ほい、と俺の肩にカーディガンをかぶせる。思わず振り返ると、寒いだろここ、と当たり前のように言われた。
ありがとう、とつぶやき、俺はおずおずと上着の前をかきあわせる。袖を通すのはなんとなくためらわれた。たぶん長さが全然違うからだ。あと厚みも。ちょっとだけ忌々しい。
室温変わっちゃうから入って、と言われ、数歩前に出る。宗像が、後ろ手にぱたんとドアを閉じた。俺は蛍光灯に照らされたラックを見回す。
「そっちの棚が幼虫。奥に行くほど成長してる」
「へえ……うわ、ほんとだ」
青々とした葉っぱが入った飼育箱に、黒い虫がうごめいている。大量の幼虫にちょっとぎょっとしつつも、俺は次々ケージを眺めてまわった。
たしかに、奥に行くにつれて黒かった幼虫が緑になり、大きくなって、蛹になっている。
「すごい。羽化させるのって難しいんだろ?」
「まあ、最初のうちは。今は慣れたけど」
そう言って宗像は、カーテンのかかったラックの方に歩み寄る。ちょいちょい、と手招きされて、俺はそそくさとそちらに歩み寄った。
「成虫はこっち」
さっ、とカーテンをめくられる。
そこには大量のアゲハチョウがひしめいていた。幼虫のそれよりは広い飼育箱の中に、華やかな翅が並んでいる。思わず感嘆の声が上がった。宗像が笑う。
「いいリアクション。育てた甲斐があるな」
「だって、ほんとにすごいって。ブリーダーになれるぞ」
「アゲハはそこまで儲からねえかな」
肩をすくめて宗像が笑う。そのとき、飼育箱の中で音がした。見ると蝶たちが翅をばたつかせ、壁に何度もぶつかっている。宗像がああ、と視線を落とした。
「こいつら、ほっとくと明るい方に飛ぼうとするから」
悪いけど、と宗像はさっとカーテンを戻した。布の向こうではしばらくばたばたと音がしていたが、じきに静かになった。俺は眉を寄せ、あのさ、と尋ねる。
「このままじゃ、弱っちゃうんじゃないの」
「ああ。だから成虫は繁殖と観察を終えたら、すぐ野に放ってる」
「え……」
これだけの数を? 俺はますます眉を寄せて、おずおずと尋ねた。
「それ、このへんの生態系が崩れるんじゃ……」
宗像が、そんな簡単なことに頭がまわらないとは思えない。
だが彼は俺の問いかけに、少しだけ黙って、下を向いて。
「……そうかもな」
とだけ言って、なんともいえない顔で、笑った。うまく言葉にできない表情だった。
(あ――)
どくっ、と心臓が早くなる。この表情だ、と思った。
あのときの正体不明の〝なにか〟が、俺の中をまっすぐに落ちていって、ちかちかとまばゆい火花を散らしていく。
(捕まえなくちゃ)
その正体を、どうしても知りたくて、俺はとっさに目を凝らす。
宗像の表情、その目の上に現れる無数の感情と情動を、全身全霊で見て取ろうとする。
正も負も入り混じった、さまざまのなにかが、黒に近い焦げ茶の瞳に現れては時間差で消えていった。
そのすべてが一つの美しい現象みたいに思われて、俺は思わず息を呑む。
このきれいなものの正体を知らない。見たこともない。だけど。
(まるで、ただ剥き出しの美しいもの、みたいで――)
目の前に晒されたきれいなものに、俺の内側で、共鳴のように〝なにか〟が呼応している。
生々しく、切実で、いっそ衝動にも似た、強く鮮やかなもの。生きている感覚。どうしようもないリアル。
その端っこを、なんとか掴みかけた、ような気がしたのに。
「――そうだ、こないだ言ってたアプリ入れたけど、あとで触ってみるか?」
「え……あ、えっと……え?」
宗像のあの表情は、気がつけばもう消えていた。
感覚はたった一瞬で、俺の中をかすめて通り過ぎていった。今はもう、余韻すら感じられない。
「ん? どうしたよ」
宗像が、いつもと同じ、完璧な男の顔をして俺を覗き込む。
なんでもない、というつぶやきが、勝手に漏れ落ちる。
「ならいいけど。あんまここいると風邪引くから」
「あ、そっか……うん。ごめん」
そういえば、俺だけカーディガンを借りていたが、宗像はシャツのままだった。
慌てて返そうとするが、いいから着てろ、とそっけなく言われるだけだ。相変わらずそつのない、完璧な立ち回りだった。
俺はわずかにうつむいて、カーディガンの前をかきあわせる。
(なんか……なんだろう)
この男の完璧さを見ていると、俺はいつも、閉じたドアの向こうをうろうろさまよっているみじめな犬、みたいな気持ちになる。でも。
あの、よくわからない一瞬だけは、固く閉じたドアが細く開いて、隙間からこの男の体内を覗き込んだような――そんな、確信にも似た不思議な感覚があった。
この感覚の正体は、いったい何なのだろう。わからない。
突然言葉少なになった俺を、宗像は追及しなかった。
ただ行くぞ、とだけ短く言って、ドアの方へと歩いていく。慌てて後を追う。
ドアが閉まる直前、カーテンの向こう、飼育箱の中で、もがくようにばたつく翅の音が聞こえた気がした。




