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【完結・BL】転校生に学年トップを奪われたから弱みを握ろうと友達のフリして近付いたらとんでもない修羅場が待っていた  作者: Ru
【前編 / 03】 蝶のゆく先

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20

 その部屋に入った途端、うわ、と声が上がっていた。


 エアコンから風が吹き付け、ひんやりしている。それに電気もつけっぱなしだ。

 部屋の中には所狭しとスチールラックが並んでいて、そのうちいくつかにはカーテンがかかっている。

 おびただしい数の飼育箱が、スチールラック一面に並んでいた。


「ほんとに飼育室じゃん……」

「だから言ったろ」


 宗像は笑って、ほい、と俺の肩にカーディガンをかぶせる。思わず振り返ると、寒いだろここ、と当たり前のように言われた。


 ありがとう、とつぶやき、俺はおずおずと上着の前をかきあわせる。袖を通すのはなんとなくためらわれた。たぶん長さが全然違うからだ。あと厚みも。ちょっとだけ忌々しい。


 室温変わっちゃうから入って、と言われ、数歩前に出る。宗像が、後ろ手にぱたんとドアを閉じた。俺は蛍光灯に照らされたラックを見回す。


「そっちの棚が幼虫。奥に行くほど成長してる」

「へえ……うわ、ほんとだ」


 青々とした葉っぱが入った飼育箱に、黒い虫がうごめいている。大量の幼虫にちょっとぎょっとしつつも、俺は次々ケージを眺めてまわった。

 たしかに、奥に行くにつれて黒かった幼虫が緑になり、大きくなって、蛹になっている。


「すごい。羽化させるのって難しいんだろ?」

「まあ、最初のうちは。今は慣れたけど」


 そう言って宗像は、カーテンのかかったラックの方に歩み寄る。ちょいちょい、と手招きされて、俺はそそくさとそちらに歩み寄った。


「成虫はこっち」


 さっ、とカーテンをめくられる。

 そこには大量のアゲハチョウがひしめいていた。幼虫のそれよりは広い飼育箱の中に、華やかな翅が並んでいる。思わず感嘆の声が上がった。宗像が笑う。


「いいリアクション。育てた甲斐があるな」

「だって、ほんとにすごいって。ブリーダーになれるぞ」

「アゲハはそこまで儲からねえかな」


 肩をすくめて宗像が笑う。そのとき、飼育箱の中で音がした。見ると蝶たちが翅をばたつかせ、壁に何度もぶつかっている。宗像がああ、と視線を落とした。


「こいつら、ほっとくと明るい方に飛ぼうとするから」


 悪いけど、と宗像はさっとカーテンを戻した。布の向こうではしばらくばたばたと音がしていたが、じきに静かになった。俺は眉を寄せ、あのさ、と尋ねる。


「このままじゃ、弱っちゃうんじゃないの」

「ああ。だから成虫は繁殖と観察を終えたら、すぐ野に放ってる」

「え……」


 これだけの数を? 俺はますます眉を寄せて、おずおずと尋ねた。


「それ、このへんの生態系が崩れるんじゃ……」


 宗像が、そんな簡単なことに頭がまわらないとは思えない。

 だが彼は俺の問いかけに、少しだけ黙って、下を向いて。


「……そうかもな」


 とだけ言って、なんともいえない顔で、笑った。うまく言葉にできない表情だった。


(あ――)


 どくっ、と心臓が早くなる。この表情だ、と思った。

 あのときの正体不明の〝なにか〟が、俺の中をまっすぐに落ちていって、ちかちかとまばゆい火花を散らしていく。


(捕まえなくちゃ)


 その正体を、どうしても知りたくて、俺はとっさに目を凝らす。

 宗像の表情、その目の上に現れる無数の感情と情動を、全身全霊で見て取ろうとする。


 正も負も入り混じった、さまざまのなにかが、黒に近い焦げ茶の瞳に現れては時間差で消えていった。

 そのすべてが一つの美しい現象みたいに思われて、俺は思わず息を呑む。


 このきれいなものの正体を知らない。見たこともない。だけど。


(まるで、ただ剥き出しの美しいもの、みたいで――)


 目の前に晒されたきれいなものに、俺の内側で、共鳴のように〝なにか〟が呼応している。

 生々しく、切実で、いっそ衝動にも似た、強く鮮やかなもの。生きている感覚。どうしようもないリアル。


 その端っこを、なんとか掴みかけた、ような気がしたのに。


「――そうだ、こないだ言ってたアプリ入れたけど、あとで触ってみるか?」

「え……あ、えっと……え?」


 宗像のあの表情は、気がつけばもう消えていた。

 感覚はたった一瞬で、俺の中をかすめて通り過ぎていった。今はもう、余韻すら感じられない。


「ん? どうしたよ」


 宗像が、いつもと同じ、完璧な男の顔をして俺を覗き込む。

 なんでもない、というつぶやきが、勝手に漏れ落ちる。


「ならいいけど。あんまここいると風邪引くから」

「あ、そっか……うん。ごめん」


 そういえば、俺だけカーディガンを借りていたが、宗像はシャツのままだった。

 慌てて返そうとするが、いいから着てろ、とそっけなく言われるだけだ。相変わらずそつのない、完璧な立ち回りだった。


 俺はわずかにうつむいて、カーディガンの前をかきあわせる。


(なんか……なんだろう)


 この男の完璧さを見ていると、俺はいつも、閉じたドアの向こうをうろうろさまよっているみじめな犬、みたいな気持ちになる。でも。


 あの、よくわからない一瞬だけは、固く閉じたドアが細く開いて、隙間からこの男の体内を覗き込んだような――そんな、確信にも似た不思議な感覚があった。

 この感覚の正体は、いったい何なのだろう。わからない。


 突然言葉少なになった俺を、宗像は追及しなかった。

 ただ行くぞ、とだけ短く言って、ドアの方へと歩いていく。慌てて後を追う。


 ドアが閉まる直前、カーテンの向こう、飼育箱の中で、もがくようにばたつく翅の音が聞こえた気がした。



 

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