19
そわそわと落ち着かない。
でもそれは、例の正体不明の情動のせいじゃない。この場所のせいだ。
(うう……緊張する)
俺は意味もなく膝の上で両手を揃え、背をかすかに丸め、息を殺した。
目の前では、ベッドに座った宗像が、椅子に座った俺を呆れたように見つめている。あのさ、と控えめな声。
「肩の力抜いて、これでも飲めば」
すっ、と示した指の先、アイスコーヒーを勧められる。ドリップして、氷で一気に冷やして作った、ちゃんとしたものだ。さっき下のキッチンで、宗像が作っているのを見た。
「あ……あ、ありがと」
しゃちほこばった動きで手を伸ばす。が、あまりにもぎこちない動作のせいで、思わずグラスを倒しそうになる。あっ、と開きかけた口、思わず両手を差し伸べて、だが。
「うわ、あぶね」
いつの間に立ち上がったのか、さっ、と宗像がグラスをさらった。俺の手は中途半端に宙に浮いて、なんだか踊っているみたいな格好になる。
案の定、俺の挙動を見た宗像は目を丸くして、くくく、と肩を揺らしはじめた。ふ、と笑みを引っ込めて、宗像がグラスを差し出す。
「はい、どうぞ」
「ど、ど、ど、どうも……」
「ははっ、吃りすぎ」
さらりとグラスを手渡され、なぜかついでみたいにストローを口に突っ込まれる。
されるがままに一口すすると、甘苦い液体がすうっと喉を落ちていった。美味しい。インスタントとは違う味がする。
「落ち着きそうか」
「う、うん……頑張る……」
「っ……」
ぶふ、と宗像が口を押さえた。なんでそこで笑う。
おまえ頑張りどころおかしくない、と半笑いで言われ、俺はベッドに戻る宗像をぎくしゃくと睨み上げた。もう、完全に操り人形かなにかと挙動が変わらない。口を開く。
「こ、こういうの、慣れてないんだよ……察しろよ!」
こういうの――そう、放課後にクラスメイトの家に行って、アイスコーヒーを出してもらうとか、そういうの――だ。
宗像の自室、座れと勧められた学習机の椅子で、俺はいつまでも肩を縮こまらせていた。
見知らぬ部屋、見知らぬベッドに悠々と座る宗像、ほのかに感じる見知らぬ匂い。あまりにも未知の情報にまみれていて、とんでもなく落ち着かない。
ははっ、悪かったよ、と宗像が笑った。おまえはいいよな、自分の部屋だから。むしろ他のどこより落ち着くだろうよ。心の中で悪態をつく。
だが、大人しく来ることを選んだのは俺なので、文句も言えない。どうしてこんなことになったのか。それは一時間ほど前、放課後の会話が原因だった。
今日は部活動禁止な、と言われたのは朝のホームルームだ。なんでも、先生たちの研修があるらしい。
だったら今日は放課後を勉強に費やして、少しは早寝できるかな、なんて俺は考えていた。どうもここしばらく、重だるい頭痛が抜けてくれなかったのだ。
だが、授業が終わって、いそいそ図書室へ向かう準備をしていた俺の目の前に、さっと影が落ちた。顔を上げるのとほぼ同時に、宗像ががたりと前の座席に座る。
「よう。今日、部活できないな」
「だね」
「帰りがけ、餌と健康状態だけチェックしたいけど、おまえどうする?」
「あー……じゃあ、ちょっと寄るかな。さすがにそれくらい許されるだろうし」
世間話をしながら、荷物を次々鞄に押し込む。最近では、宗像が声をかけてくることも珍しくなくなってきた。部活の誘いでなく、ただの世間話のこともしばしばだ。
宗像はいつも人に囲まれているし、色んな人に話しかけてもいる。その選択肢のひとつに、当たり前のように俺も含まれるようになった、ということ。『悪魔との契約』は、滞りなく進んでいる。
俺があれこれ鞄の中身をいじりまわしていると、宗像の手が使い古したタブレットを取った。画面は点灯しっぱなしで、例のゲーテが表示されていた。お、と宗像が目を細める。
「前より進んでんじゃん」
「うん、ちょっと頑張ってるんだ。相変わらず、死ぬほど読みにくくてイライラするけど」
「へえ。それなのに無理して読むとか、すごいな」
「……べつに」
すごくないけど、と思わず早口になる。そっと視線を逸らした。多少の無理をしてでも読破しようと決めた理由なんて、とても話せない。
宗像はふうん、と頬杖をついた。まっすぐで実直な視線を頬のあたりに感じて、たちまち居心地が悪くなる。俺がもぞもぞしているのに気付いたのだろう、宗像はすっと視線を落とした。ぱらぱらと参考書をめくる仕草。
「お。けっこう先まで予習してんのな」
「まあ、念のため……」
「あ。ここ間違ってるぞ」
「えっ、どこ」
「ここ」
とん、と指先が一点を叩く。生物の群れについての項目だ。
「包括適応度の計算。血縁度が間違ってる」
「あ……え、うそ。えっ?」
慌てて参考書に貼り付けた付箋を覗き込む。ここ、と指された先の数字を見て、だが、どう違うかわからない。
「えっと……」
「あー、待ってな。説明するから」
宗像は軽く頭をかくと、すらすらと説明しはじめた。余計な言葉を使わない、簡素かつ筋の通った、理論的でわかりやすい説明。びっくりするほど頭に内容が入ってくる。
「……っつうわけ。なので、ここは1.5」
「はあ……」
俺はぽかん、と口を半開きにして、淡々と説明を終えた宗像を見つめていた。ぽろっ、と言葉が漏れる。
「おまえ……マジで頭よかったんだな」
「ははっ、普通に失礼」
「あ。……ごめん」
咄嗟に謝ると、宗像は別に気にしてねえよ、とさらりと笑った。
「ていうか、ここはたまたま得意分野だったから」
まったく嫌味のない謙遜。そつのない立ち回り、というのはまさにこういうことだろう。俺ははあ、とぼんやり返事をするしかできなかった。
「得意分野なの」
「そう。昔は昆虫やってたから、ここらへん全般は得意」
たしかに、以前そんなことを言っていた気がする。教室でこっそり聞き耳を立てていた頃、聞いた話だ。
俺はへえそうなんだ、と知らないフリをしてみせた。どんな研究なの、また論文見せてやるよ、なんてやりとりをしながら、俺はそういえば、と考える。
そういえば、たった今、宗像に地頭の違いをこれでもかと見せつけられたのに。あの錨が抜けていって、足元が揺らぐような心許なさを、俺は不思議と感じなかった。
内側に詰め込んだ知識という重石、それよりももっと鮮烈で質量を伴った〝なにか〟を、今の俺は知ってしまったからだろうか。たった一瞬、正体のわからない情動を思い返して、そっと心臓に手を乗せる。
宗像が、どした、と顔を覗き込んでくる。近い。一瞬どきっとした。
慌てて首を振って、いや、と会話に戻る。
「昆虫って、なんの」
「蛾とか蝶。今もいちおう、プライベートで生体の観察してる」
「へえ……って、いつやってんの、そんなの」
「家で普通に。一部屋使って飼育して、記録取ったり」
「え、うちで? できるんだ。すごいな」
思わず身を乗り出した。昆虫の飼育なんて、小学生のころ挑戦して、失敗して以来手を出していない。小さい命はすぐに死んでしまう。ちゃんと飼育するのは難しかった。
興味深げにする俺を見て、宗像はぱたん、と参考書を閉じると、言った。
「じゃあ見にくるか?」
「え」
あまりにもさらっと言われて、思わず口を開きかけて、止まる。
宗像はおまえよくその顔するよな、と笑った。
「今日、両親いないし。急に誰か連れてっても、怒る人はいないから」
さも当たり前のように言われ、俺はどう返事をしていいか迷う。宗像の目が、ちらっと俺を見た。
「もちろん。三島が良ければ、だけど」
「あ――えっと」
慌てて頭の中であれこれ計算する。
予習復習、自己学習の進捗を思い返す。今夜の献立と調理時間とか、冷蔵庫の中身も頭の中で確認。やりくりを考える。
諸々の確認のすえ、俺はたぶん大丈夫、という判断を下した。おずおずと口を開く。
「い……行って、いいの」
「そりゃいいよ」
宗像はくすりと笑って、俺が誘ってんだから、と手をひらひらさせた。
おまえの好きそうなもん色々見せてやるよ、と言われ、うん、と頷く。
そうして、俺は宗像に連れられるまま、いつもの駅の手前で途中下車し、宗像の家、白くて明るい一戸建ての中に足を踏み入れることになったのだった。
「……で。落ち着いた?」
「ハイ……」
「ははっ、なんで敬語」
「わかんない……」
すっかり汗をかいたグラスの、中身は半分ほど減っている。そわそわおどおどしながら、借りてきた猫のように過ごして三十分。俺はようやく、人並みの挙動を取り戻しつつあった。
から、とストローで氷をかき混ぜて、そっとグラスを背後の机に戻す。結露で湿った手をどうしたものか迷った瞬間、ノータイムで宗像からティッシュボックスが放られた。慌てて胸元でキャッチする。
「あ、ありがと」
「まだ使うだろ。机の上置いときな」
頷いて、その通りにする。椅子を回転させ、ベッドの方に向き直った。あのさ、と控えめに言う。
「なんか、普通だな。もっと壁びっしりに、標本とかあるんだと思ってた」
「イメージがテンプレすぎんだろ」
虫好き少年の子供部屋かよ、と宗像が笑った。
「べつに俺、昆虫学者じゃないからな」
「たしかに」
以前はどうだか知らないが、こいつ、今はマウスばっかり相手にしてるし。
そこまで考えて、かすかに気分が重くなる。例の〝準備〟はまだ続いていた。最近では、挙動のおかしくなるマウスがちらほら出始めている。順調、なのだろう。たぶん。
俺は小さく息をつくと、つとめて気持ちを切り替えた。ようやく人心地ついて、辺りを見回す余裕ができてくる。でも、あまりきょろきょろするのも失礼だろうか。
しかし、好奇心には逆らえない。俺は宗像と会話しつつ、こっそり室内を観察しようとした。だが、すぐに見抜かれる。宗像が喉の奥で小さく笑った。
「そんな面白い? 俺の部屋」
「う。えっと……その、うん。少し……」
「なんで申し訳なさそうな顔するかな。いいよ、好きに見ても」
ただしあのクローゼットは触らないように、と言う。
服がかかってるだけだろ、なんで、と首をかしげる俺に、宗像は思わせぶりに口の端を持ち上げた。
「コートをかきわけた奥に、人に見せてはいけないものがあります」
「……っ!」
かっ、と顔が熱くなる。それはもしかして、もしかするアレか。青少年の健全な発育に伴って見たがる人が増えてくる、ああいう類の。
たちまち宗像がけらけら肩を揺らした。すっごい顔、と笑み混じりの声。とっさに下を向く。宗像がまた笑った。
「どれ、見してみな」
「や、やだ」
やだじゃないんだよなあ、とからかうような声がして、ぎしっ、と宗像が立ち上がったのがわかった。目の前が少しかげって、暗くなる。ますます下を向く。
「ほら」
「う……」
さらりと頬に手を添えられ、上を向かされる。うわ、おまえ顔熱すぎ、と宗像が半笑いで言った。
「わ、笑うなよ、くそっ……」
「どれどれ」
じいっ、と覗き込まれ、俺は耐えられなくなって、うろうろと視線をさまよわせた。意味もなく部屋の様子を観察して、ああリア充っぽい部屋だななんて、現実逃避じみたことを考える。なにがどうリア充っぽいのかは、うまく説明できない。ただ、俺の部屋と違うことだけはわかる。
「っくくく……目ぇ泳ぎすぎ」
「あ、あ、あた、当たり前だろ……!?」
こんな至近距離で覗き込まれるのなんて、まるっきり慣れてない。おまえテンパるとすぐ吃るよな、と笑われて、うるさい、と返す声がまた吃った。
「ああほら、悪かったよ。落ち着けって」
「うう……」
宗像は意外にも、さっと俺の頬から手を引いた。俺が本気で不快にならないラインを、きっちり守っている。そつがない。
くそう、と内心で毒突いて、そろりと宗像の方を見る。おかしそうに細められた目、よく見ると黒に近い焦げ茶の瞳に、狼狽しきった俺が映っている。いたたまれない。反射的に、思い切り顔を背けていた。
(くっそ、耳まで熱い……)
なんで俺が恥ずかしがらなきゃいけないんだ。ここで恥じ入るべきは普通、おまえだろうが。しれっとするな。
ぶつぶつと心の中で文句を垂れて、だが、ふと違和感に気付く。
宗像が、なにも言ってこない。
普段ならこのタイミングで、フォローか、切り替えの違う話題が飛んでくるところだが。どうしたのだろう。
「むなか――……っ!?」
唐突に、ひや、とした感触が耳に触れた。びくっ、と肩が跳ねる。なに、なんだ、と混乱して、たぶんこれは宗方の指先だ、冷たく感じるのは俺の耳が熱いからだ。
意味のない現状認識と謎の分析を一瞬で行って、俺は完全に固まったまま、宗像の指がゆっくりと耳の端を動くのを感じる。ひ、と喉の奥で声が潰れた。
ひやりとした指先が、耳たぶまで辿り着いて、そっとピアスに触れる。摘むような仕草に、俺はあの雷雨の瞬間が脳裏に蘇るのを感じた。心臓が高鳴って、息をするのを忘れる。
「むな、かた――」
無意識でこぼれた、掠れた声。だがそれはこの状況を変えるには十分すぎたらしい。
ぴくっ、と耳元で指先が動いた、かと思うと、
「……悪い。調子乗った」
大きな手はあっさりまた離れていった。
その顔を見るより早く、宗像が素早く身を翻す。大股の歩幅がベッドに近付いて、ぎしりと腰を下ろした。
俺に顔を見せないまま、膝の上で骨張った指を組む。その手元を見下ろして、宗像の、笑み混じりなのにどこか硬い声。
「正直に白状するとさ。クローゼットには散らかった部屋の中身をぜんぶ突っ込んでるから。開けたら雪崩起きるんだよ。そんだけ」
「そ、そうなんだ……」
「そ。急な来客でよくあるアレ」
「よ、よくあるんだ……」
知らなかった。なにせ俺に来客など存在しないので。
俺はまだどくどくする心臓を抑えながら、へえ、ふうん、と意味のない相槌を打つ。
宗像は、組んだ指をほどいたり絡めたりして、下を向いたままだった。
なんとなく、いま宗像はあの、俺の情動を突き動かす、言葉にできない表情をしてるんじゃないかという気がする。確認したい気もしたが、なんとなく怖くて、できなかった。かすかな沈黙。
そのとき、階下からばたばた、と足音が聞こえてきた。
それはあっという間に近付いてきて、ばん、と無遠慮にドアが開く。
「達也! 帰ってたのか」
「あ――父さん」
宗像がぱっと顔を上げる。視線がドアの隙間に向けられた。
俺もつられてそちらを見る。
(宗像の、お父さん……?)
そこには、スーツの中年男性が立っていた。
年齢こそ中年と呼ぶべきだが、きちんとセットされた髪、彫りの深い凛々しい顔立ちは若々しい。体付きも年齢のわりにしっかりしていて、スーツがきれいにフィットしている。なるほどこれは、女子が騒ぐはずだ。
その父親らしき人の目が、すっと動いて俺を見留めた。
ぴく、とまた肩が跳ねる。驚いたようにこの方は、と尋ねられ、宗像がああ、と苦笑した。
「友達。同じ部活の、副部長」
「ど……どうも、その。お邪魔してます。み、三島です」
ぺこ、と小さく会釈する。知らない大人が急に目の前に現れた緊張感。だが同時に、俺の胸には確かな歓喜が浮かんでいた。
(友達……いま、友達って言ったよな)
間違いない。部活の仲間でもクラスメイトでもなくて、一番最初に、友達って言った。内心で、やった、と思い切りガッツポーズを作る。これは――本当に順調だと思っていい。
俺は口の端が上がってしまいそうになるのを抑えて、宗像の父親を見上げた。ちら、と俺を一瞥するも、宗像の父親はすぐに息子へと向き直る。達也、と低い呼び声。
「……おまえ、病院には行ってないだろうな」
妙に強い口調だった。目元が険しくて、少し怖い。俺はおどおどと宗像と、その父親を交互に見る。
「行ってないよ」
とてもあっさりと宗像が言った。それだけで、他にはなにも言わなかった。
彼は父親の方を向かないまま、まるでなんでもないように薄く笑っている。
一方の父親は、じっと探るような視線を息子に向けていた。
(な……なんだ、この空気)
宗像の父親は、明らかに納得がいっていない様子だった。だが、その鋭い視線がちら、とまた俺を捉える。
俺という部外者がいるせいで、強く出られないのかもしれない。どうしよう、と身を縮こまらせる俺をよそに、ふうっ、と父親はため息をついた。
「……なら、いい。わかっていると思うが」
「わかってるから。言わなくていいよ」
「……」
宗像はただ淡々とした口調で、ちゃんとやってるからさ、と笑う。まるで安心させるみたいな口調、なのに彼は一度も、父親の方を見なかった。
数秒の沈黙。父子の視線は交わらない。先に折れたのは宗像の父親だった。諦めたように小さく息を吐く。
「……悪いが、すぐ戻らなきゃならない。夕飯はあるもので済ませてくれ。よかったら、三島くんにも出してやるように」
「え、あ、俺は、その、おかまいなく……」
俺の言葉に返答せず、軽い会釈だけを残して。ばたん、とドアが閉まった。
足早に階段を下りていく音。それが小さくなって、ようやく聞こえなくなった頃。宗像が軽く笑った。
「ごめん。思ったより、親が帰るの早かったわ」
「あ……いや……」
うまい返事を思いつかない。なんだか、ただならぬ雰囲気だった。
宗像の態度からは、親子仲が悪いという感じでもなさそうだったけど。でも、なにかある、ということくらい、鈍い俺でもさすがに感じ取れた。
(これは……聞いちゃ駄目なんだろうな)
コミュ力ゼロでもそれはわかる。俺はおずおずと宗像を見つめた。視線が交わる。
宗像はさらりとした様子のまま、まったくの平静、いつも通りの笑みを浮かべた。
「じゃあ蝶見せてやるよ。こっちな」
そう言って、勢いよくベッドから立ち上がった。スプリングがきしむ音がかすかに響く。
俺は慌てて椅子を机の下に押し込むと、待って、と宗像の背を追いかけた。




