18
あのよくわからない〝なにか〟の、翌日。
俺は図書室に返却の用事があったため、少し遅れて生物室に向かった。
生物室のドアの前、手を軽く浮かせて、躊躇する。
普通に入って、普通に挨拶するだけだ。わかっているのだけれど、なんだか妙に落ち着かない。
息を吸って、吐く。そわそわする気持ちをなだめ、俺は思い切ってがらりとドアを開けた。
すでにケージを運んできた宗像が、こちらを振り返る。
「よ。遅かったな」
「あ……う、うん。ちょっとその、本が、ええと、図書室でだな」
駄目だ。文節の並びがおかしい。案の定宗像は、なんだそれ、と言わんばかりに首を傾げた。
「新しい人気本でも入ってたとか?」
「あ、いや、えと、逆。返してた」
「ふうん。小説? 論文系?」
「え……エッセイ」
「へえ、珍しいじゃん」
どぎまぎして妙なリアクションを取ってしまう俺に対して、宗像は完全に通常運転だ。乱れはひとつも見当たらない。
どんなやつ、と問うてくる彼に答えながら、俺は鞄を下ろして準備を始めた。
いつもと同じように、マウスの面倒を見ようとする。だが俺の作業はすぐに遮られた。
「待った。今日から、片方だけやり方変えるから」
「え?」
目を丸くする。宗像はさっとケージを見下ろした。俺もつられてケージを見る。
見ればたしかに普段と違い、マウスたちが二つのグループに分けられていた。
伺う意図で宗像を見上げると、彼はさらりと言った。
「いろいろ整ってきたから。実験の最終準備に入ろうと思って」
「準備……?」
「そう。んー……どっちにすっかな」
宗像の静かな目が、二つのマウスグループを見下ろしている。
人差し指がすっと伸びて、どちらにしようかな、と彼は小さく口ずさんだ。よくある数え歌だ。
「……それ、最初にどっちからスタートするかで決まっちゃうやつじゃん」
「それはそうだけど。様式美ってあるだろ」
そう言って宗像は数え歌を続ける。神様の言うとおり、から先は、俺の知っている文言と少し違っていた。そういえばこいつ、転校生だったっけ。
最終的に、手前側のマウスたちが指さされた。はいこっち、と言うと、宗像はなにかの準備を始めた。
俺はなにが起こっているのかわからず、ただ棒立ちのままだ。この、選ばれなかったほうのマウスは、普通に世話をしていいのだろうか。
「あのさ。なにしてるの、それ」
「んー……俺の研究テーマ、覚えてるか」
「えっと……精神病のマウスの行動実験」
「そう。そのために、どうしても必要なものってなんだと思う」
「え? えーっと……」
俺はかすかに考え込み、そして、思い至った。
「……精神病の、マウス?」
「正解」
さらりと言う宗像。俺はおずおずと尋ねた。
「精神病のマウスを用意する、って……どうするの」
宗像は答えなかった。ただ淡々と、なにかの準備を続けている。
見たことのないケージが出てきた。それから、スイッチとボタンのついた、バッテリーみたいな箱も。宗像は機械とコンセントをつなぎ、それからケージと機械をコードで繋いだ。
ケージの中には仕切りがいくつもついていて、一つずつの空間はとても狭い。マウス一匹ずつくらいしか入らないだろう。しげしげと覗き込む俺の耳に、ぱちん、と宗像がゴム手袋をはめる音がした。
宗像は淡々と、選ばれた方のマウスを仕切り部屋に入れていく。一部屋に一匹ずつ。実際にマウスを入れてみると、やっぱりそこは狭く、身動きは少ししか取れない。
最後の一匹を入れると、宗像はぱたんとケージの蓋を閉めた。そして、がたっ、と椅子に腰掛ける。無造作に組んだ長い脚。使用済みのゴム手袋をゴミ箱に捨てる仕草。
静かな目がケージを見つめて、ぱちん、と機械のスイッチが入る。ぶうん、という起動音。そして彼は、おもむろにボタンを押した。
――途端、マウスたちがいっせいに鋭い悲鳴を上げた。
「え――っ」
短い悲鳴を上げて、マウスが次々飛び上がる。小さな体がぶつかって、がしゃん、とケージが揺れる音。
(これは……)
うっすらとなにが起こっているか悟りつつ、俺はおそるおそる宗像に尋ねた。
「こ、このケージって、もしかして」
「ああ。電撃ショックを与えられるケージ。ちょっと高かった」
「し、ショック……」
バッテリー危ないから気をつけろよ、と言われ、俺はただこくこくと頷く。宗像は俺の方を見なかった。ただ淡々と、ボタンを何度も押してマウスに電撃を与えている。そのたびに痛々しい悲鳴が上がって、ケージががたがたと揺れた。
(う、うわ……)
実験動物を扱うのだ、これくらいのことがあってもおかしくはない、でも。仕方ないとわかりつつも、残虐な方法にちょっと腰が引けている自分がいた。
宗像は俺を見ないまま、〝実験の最終準備〟をただ続けている。その横顔はとても静かで、色のない、よくわからない瞳をしていた。なんとなく、背中の辺りがすうっとする。
俺は恐る恐る尋ねた。
「あの、さ。仕切りで分けてるのって、飛び上がったときにぶつかりあって、死んじゃうから……とか?」
いや、と即答が返ってくる。宗像はマウスをじっと見つめたまま、言葉を続けた。
「孤独にさせた方が、ストレス負荷の効率いいんだよ」
「そ、そう……」
「体格のいいマウスと同じケージに入れて攻撃させる、ってのもあるんだけど。社会的で自然なうつ状態ってよりは、急性の外的ストレスの方がいいんだよな。あとこの装置、ボタン押すだけだから特別なスキルとか必要ないし。複雑で技術のいるストレス負荷やると、うっかり死なせちゃうことあるからさ」
「……」
少し早口で語る宗像の眼差しはじっとマウスを見つめていて、色のない、冷静な目をしていた。何度も見たことのある、あのよくわからない眼差し。
まるでそういうBGMみたいにマウスの悲鳴が何度も何度もさざめいて、そんな中なのに、宗像はまったくの平静を保っている。かち、かち、とボタンを押す音。ひっきりなしに聞こえる悲鳴。
俺はただ、〝最終準備〟を眺めるしかできなかった。実験動物の処遇にどうこう言うほど純朴ではなかったつもりだ、それでも。こうして目の前に晒されると、思ったより動揺している自分がいる。
(いや、でも)
俺が動揺しているのは、この行為に、なのだろうか。それとももっと違うものに、なのだろうか。わからない。
宗像はときどき休憩を挟みながらも、淡々とボタンを押し続けている。悲鳴がだんだんと弱くなってくるのを感じる。そのたびに宗像は一分ほど手を止めて、マウスが回復した、あるいは恐怖を忘れかけたころを見計らって、またボタンを押すのだった。
かち、とボタンの音。ほっとしていたところに喰らったのだろう、落ち着いていたマウスがひときわ大きな悲鳴を上げる。ビクン、と小さな体が痙攣して、がちゃん、とケージが激しく揺れた。電撃のせいで漏らしたのだろう、糞尿のにおいがかすかに漂い始める。
「む、宗像……」
なぜ今、彼を呼んだのかはわからない。ただ、勝手に声が出ていた。
宗像はこちらを向かなかった。よくわからない表情、とても静かな、色のない瞳。
じっとマウスを見つめている、なめらかな眼球の表面に、ケージが映り込んでいる。ゆっくりとまばたきが映り込んだものを消して、ふたたび眼差しが現れても。彼の瞳はさっきと同じままだった。
なんだか――ぞわぞわする。ほとんど生理的な反応、勝手に足が一歩うしろに下がって、ぶつかった椅子が、がたっ、と大きな音を立てた、その瞬間。
「――っ……!」
宗像が、はっ、と弾かれたように振り返った。
静かだった瞳が俺を見て、あ、と彼のくちびるが言葉を刻みかける。その、瞳が。
(……あのとき、の――)
我に帰ったような、それでいてまだ違う場所に心が引っ張られているような、うまく言葉にできない、あの表情。信じられないほど沢山の、俺の知らない宗像の情動が、たった一瞬のあいだ、次々と浮かんでは消えるのが、ありありと感じ取れる。
びりっ、とした強烈な衝動を覚えた。指先がしびれて、呼吸が止まる。
まばたきより短いたった一瞬。俺の空っぽの内側を、鮮烈なものが通り過ぎていく。でもその正体を掴むより先に、流星はあっという間に消えていった。宗像が、困ったように苦笑する。
「……悪い。こんなもの、見せて」
「あ――い、いや、うん……」
あの表情はほんとうに一瞬でかき消えて、宗像はいつもの、完璧で実直な男に戻っていた。実験の手を止め、体ごと俺に向き直る。心底すまない、という表情と声で、正直な瞳が俺を見つめた。
「やっぱ、あんま気分のいいもんじゃないよな。こういうの」
わかってるよ、と小さな声。落とした肩と、こちらを気遣う眼差し。完璧な姿。でも、俺には宗像の言葉が、半分くらいしか聞こえてはいなかった。
どうしようもなく、ぞくぞく、していた。
宗像のあの、明言のできない表情。それがもたらした、自分の中の生きた情動。今までひとつも知らなかった〝なにか〟が、俺の深いところで火花を散らして、余韻がまだ、ちっとも抜けてくれない。鳥肌が落ち着かない。
ふたりきりには広すぎる生物室の中、かしかしと、選ばれなかった方のマウスが平和にペレットをかじる音がする。校庭から、部活の掛け声が遠く聞こえてくる。
うっすらした雲越しに、空梅雨の淡い日差しが差し込んで、室内は明るかった。宗像の、男っぽい顔立ちが白く照らされている。その顔は申し訳なさそうに歪んでいた。嘘の表情には思えなかった。
なんとも言えない気持ちになる。俺はぎゅっと胸元を握りしめると、思い切って言った。
「お……俺、最初に、言ったから。大丈夫だって」
だから平気、とささやく。語尾が勝手に小さくなるのを、なんとか奮い立たせた。顔を上げる。
「……そっか」
宗像の顔には、申し訳ないような、後ろめたいような、苦い色が見て取れた。だめだ、と思った。
実験に、驚くのはいい。でも、嫌悪するのは違う。謝られるのはもっと違う。だって俺は、大丈夫って言ったんだから。
宗像だけに汚れ仕事をさせるのは本意ではなかった。きっ、と目元を鋭くして、言う。
「俺もやる」
「いいよ」
意を決して言ったのに、あっさりと即答されて、俺はかすかに眉を寄せる。でも、と言い募るが、宗像はほとんどかぶせるように言葉を重ねた。
「三島は、しなくていいんだ」
「……っ」
やけにきっぱりと断られ、ひるむ。大丈夫、と重ねて言われて、俺はそれ以上うまい言葉が思いつかなかった。宗像が、かすかに笑う。
「これはほら、俺の実験だから。三島も、早く研究テーマ決めな」
俺と遊んでばっかりだと、在学中に論文出せないぞ、と軽い口調。うん、と返す声は小さい。宗像が立ち上がって、とん、と俺の肩に手を乗せた。
「じゃあ、そうだな。対照群の世話、頼めるか」
「……うん」
穏やかな笑みまじりに言われて、たぶんこれは気遣いだ、とわかっている。俺に〝最終準備〟をさせず、かといって後ろめたい気持ちにさせないように、仕事は与えておく、そういう。相変わらずそつがない、完璧な立ち回りだった。
完璧なふるまいに、むらむらとこみ上げる感覚が、反発心なのか、それとも違うものなのか。わからない。ただ俺は頷いて、のろのろと選ばれなかった〝平常〟のマウスの世話を始めた。宗像はまたストレスマウスに向き直って、座った。
「きつかったら、音楽でも聞いて、こっち見るなよ」
「……大丈夫だよ」
きいきいとした悲鳴を背景に、世話をする。いつも通りのルーティーンはすぐに終わった。
あまり仲間の悲鳴を聞かせるとこいつらにもストレスがかかる、と宗像は〝平常〟マウスをすぐ飼育室に戻してしまった。
よかったら本でも読むか、どっか外しててもいいから、とまた気遣いを見せられる。俺はただ平気、とだけ言って、座って、延々と続く〝最終準備〟を、黙って聞いていた。まっすぐ見るのはためらわれた。
時間が来て、帰る前。ようやくあの機械を片付けた宗像は、マウスを淡々と筒状のものに詰め、一匹ずつ拘束しはじめた。動けない、というのも強いストレスになるのだという。これでこのマウスたちは、食事と排泄以外なにもできなくなる。
二分の一の可能性、神様の言うとおり、でたまたま選ばれただけなのに。一方は普通に生活できて、もう一方はこんな目に遭うのか。なんだかあまりに理不尽だ。
「……片付け、終わった?」
「ああ。待たせた」
べつに、と答える声は我ながら沈んでいて、重かった。宗像の大きな手が鞄をさらい、実直な瞳がこちらを見つめてくる。気遣いがありありとにじんだ目。
「自販機で、なんか買ってやろうか」
「大丈夫」
「たしか新作入ったんだよ。つぶつぶの桃が入ってるとか、女子が騒いでた」
「いいよ、ほんとに」
「……そう」
宗像の目が、かすかに歪んで、細くなる。押し殺した、ためらうような吐息が聞こえる。すっ、と小さく吸う音も。そのくちびるが明らかに謝罪の形に動いて、あ、と思って。
「三島。ごめ――」
「だ……っ、大丈夫ッ!!」
思った以上に大きい声が出た。宗像が目を丸くする。心臓の辺りを押さえて、俺はもう一度、大丈夫、と繰り返した。
宗像は最初に言った。うちはこういうこともする部だけど、大丈夫か、って。
実験動物を扱う部活なんだから、こういうことがあるのなんて、最初から予想できてしかるべきだった。俺がなにかを言ったり、宗像を責めたり、それどころか謝らせるのは、違う。絶対に。
下を向いていた顔をきっと持ち上げて、宗像の目をまっすぐ見て、口を開く。
「俺、最初に言った。こういうことする部だけど、それでも大丈夫って。言った」
うまい言葉は出なかった。ほとんど片言、みたいな言葉を不格好に連ねて、でも、宗像は肩の力をかすかに抜いてくれた。
丸くなっていた目が細くなって、淡い笑みの形を作る。そっか、と小さな声がする。
「じゃ、帰るか」
「うん」
宗像はいつもの顔で笑って、俺のぶんまで鞄を持って、ドアに向かって歩いていった。慌ててあとに続く。鞄、いいって、と言う俺の言葉を無視して、宗像は振り返ることもせずに。
「……ありがとな。三島」
ぼそっ、と一言、小さくつぶやいた。胸の奥がなんだか切なくなった。
宗像に見えていないとわかるのに、俺は何度も首を振る。
そういうんじゃないのに、と思う。それでも、言葉は出てこなかった。
あれだけ本ばかり読んで、暇つぶしに国語辞典だって読むくせに。もっと語彙力がほしい、と痛いほど思った。
こういうとき上手に立ち回れることが、コミュ力というのだろうか。俺には圧倒的に足りないスキル。もどかしかった。
結局、駅につくまで俺の鞄が帰ってくることはなかった。
宗像はいつもと同じようにバカ話や最近見た論文の話をして、いつもと同じように笑って電車を下りていく。
俺はひとり残された車内でタブレットを取り出して、挫折寸前のゲーテを取り出した。読みにくくても、億劫でも、頑張って読もうと思った。
難解で困難な読書は普段より進み、ファウストが美しい少女に出会ったあたりで、俺は駅に下りた。