一章
男が勤めるその会社は、雑多なビル街にあった。周りと比べても決して高くはない七階建て。色あせた乳白色の外壁は、伸び悩む業績を示しているようだった。
男の名前は高田正平。よく、苗字を『たかだ』と間違われるが、実際は『こうだ』という。
高田は照明器具を製造、販売している会社で、営業を担当していた。
明かりというのは、車、外灯、工場、学校、家庭、自動販売機――あらゆる物、場所に必須なものである。そのため、業界の需要は絶えず、安泰の限りであった。しかしそれもかつての事。耐久年数が高く、電力消費の少ないLED照明への一斉切り替え。それに伴い、新規参入のライバル会社も増えたことで、ここ数年、高田の会社は苦戦を強いられるようになっていた。
今日も成果を挙げられずに午前の営業を終えた高田は、バツの悪さもあり、一旦会社へ戻ったものの、すぐに外へと繰り出していた。
ため息を吐きつつ歩いて五分ほどの場所にある馴染みの定食屋に入ると、五百円の日替わり定食を頼む。セルフサービスの水をガラスコップに注ぎ、傍のラックからスポーツ新聞を取って、いつもの小テーブルについた。
厨房からは雑多な音が響き、棚の上に設置されたテレビの音はほとんどかき消されている。こぢんまりとした店は、座席の半分程が埋まっている状態で、繁盛とは言えないまでも、よく健闘しているといったところだろうか……。
そんな店内で、高田が新聞を眺めていると、
「高田さん?」
ふと自分を呼ぶ声に顔を上げると、可愛らしいキャラクターポーチを胸に抱えた一人の若い女性が立っていた。黒縁眼鏡に、おっとりとした瞳。セミロングの黒髪は後ろで纏められ、前髪はやや揃い気味になっている。縦に伸びるラインのレディーススーツは、細身の体型を際立たせ、ほんのりと塗られた薄い化粧が清潔な印象を作り出していた。
「あっ、中村さん」
「やっぱり高田さんでしたか」
女性――中村奈津子は、お久しぶりですと小さく頭を下げた。
高田は思わず立ち上がると、広げていた新聞を急いで畳み、向かいの席を勧めた。
中村は取引先でもある八葉商事という会社に勤務している女性で、以前、高田が営業で苦しんでいた時、同じ大学出身というよしみで、自らの得意先を紹介してくれたことがあった。その甲斐あって、高田は中々の契約にこぎつけ、危機を脱していたのだった。今もこうしてこの仕事を続けられているのは、中村のおかげと言っても過言ではない。高校卒業から上京して七年。それがなければ、今ごろ殺風景な片田舎に帰る事になっていたかもしれない。
「その節はありがとうございました」
高田はかしこまって頭を下げる。
「いえいえ、こちらこそ。先方からも、すごく喜ばれていましたよ。高田さんの会社のデスクライトは目が疲れないって」
「そ、そうですか」
その言葉はもちろん、ありがたいものだったが、高田にとっては少々複雑だった。商品は良いのに売れないということは、自分には営業の才能がないのかもしれないということを、間接的に突きつけられているようだったからだ。
中村は注文を取りに来た従業員に鮭定食を頼んだ。
「それで、最近はどうですか? 順調にいってます?」
「いやぁ……」
あまり弱みを見せたくは無かったが、やはりそれを訊かれると、思わず言葉に詰まってしまう。
「――それが、正直、残念ながらうまくいっているとは言いがたい状況ですね。何しろ、この数年でライバル企業が各段に増えてしまいましたから」
「そうですか……。まぁ、どこも不景気ですしね。でも気を落としてばかりいたら、上手くいくものも、上手くいきませんよ。明るくいきましょう」
「……そう、ですね」
しかし今の高田にとって、それは一番難しいことだと言えた。営業マンとして常に作り笑顔と苦悩に悩まされてきたからなのか、いつの間にか自然な笑みというものが出せなくなっていた。高田も、それを改善しようと会話術や笑顔作りのセミナーなどに通った時期もあったが、そのテクニックだって結局は作り物だと思ってしまうと、どうもしっくり来なかった。 こんなとき、彼女でも居れば心の持ちようでまた違うのかもしれないが、そんな出会いもない。以前、一度学生時代の友人から合コンに誘われた事はあったが、年々廃れていく会社の状態を見ていると、いたたまれなさから、どうしても乗り気にはなれなかった。
「そうだ。高田さん、占いって興味ありますか?」
中村がそんな話をしてきたのは、お互いに運ばれてきた定食を食べ始めたときだった。
「占い、ですか? 朝のテレビ番組であるようなやつなら、信じたことはありませんね」
「いえいえ、そういうのじゃなくてですね。もう少し本格的なやつです」
「本格的……というと、1対1で向かい合ってするような、あの?」
「はい、そんな感じのです」
「いやあ、全くありませんね。中村さんは好きなんですか? 占い」
「ええ。まあ、少しだけですが。あ、そうだ」
すると突然中村は、ぐいと身を乗り出してきた。そして横目で辺りを窺うと、小声で言った。
「実はですね、最近この街に変わった占い師が出没するらしいんです。聞いた事ありますか?」
「占い師、ですか? いや……元々が疎いですし。でも、変わったというのは、具体的にはどういうふうに?」
「それが、神出鬼没なようで、私もまだ出遭ったことはないんですが……なんでも、凄い力を持っていて、願いなんかも叶えてくれるとか。同僚の女子社員の間では結構有名な噂なんですよ」
「へえ……」
中村は乗り出した上体を戻す。
「と言っても、実際は誰も体験したことないみたいですけどね」
「そうなんですか?」
「はい。あくまで、噂ですから」
そう言って、困ったように笑った。
「でも占いって、自分が普段気づかないような事を指摘してくれますから。高田さんも悩み事があるようでしたら、一度占ってもらってみるのもいいですよ」
「ですが、俺はそういうのに詳しくないし……」
「じゃあ、もしあれでしたら、今度一緒に行きませんか? もちろん、私が知ってる占い師さんの所で良かったら、ですけど」
――占いねえ……。
高田にとってそれは、正直、興味を感じたことなど全くないものだった。結局は心の持ちようだろうし、何も知らない初対面の人間にこうしろああしろと言われても、それで仕事の業績が上がるとは思えない。
はっきり言って、全く心が動かない。
だが、誘われるうちが花とも言う……。それに一人では行き辛い面があるが、女性と一緒ならば、さほど他人の目を気にすることもないだろう。
見方を変えれば、これはチャンスなのかもしれない。どうせこのままではジリ貧だ。
――占いで打開できるなら、それに越したことはないか。
「そうですね……。じゃあ、ちょっと行ってみようかな」
「決まりですね。それでは、ご予定がなければ、今度の日曜日とかはどうでしょう?」
「ええ。問題ありません」
スケジュールはスカスカだ。手帳を見るまでもない。
「では、予約を取っておきますので、後の詳細はメールでもいいですか?」
「はい。じゃあ、アドレス交換を」
高田と中村はお互いの携帯情報を交換した後、食事を済ませ、それぞれ午後の仕事へと向かった。




