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白銀の果てに散った星  作者: じろう


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第1話 お空の星

肺を焼き切るような、冷気。


息を吸い込むたび、喉の奥でチリチリと氷の粒が弾ける。視界は狂ったような純白。鼓膜を打つのは、世界中の悲鳴をかき集めたような吹雪の轟音だけだ。

一歩踏み出そうとした足が、そのまま雪に沈む。

硬い氷の大地が、容赦なく膝を打った。


指先の感覚は、とうの昔に死に絶えている。赤黒く変色した皮膚からは、もう痛みすら登ってこない。


ああ……世界の氷を溶かすには、僕の力は、少しばかり足りなかったらしい。


雪って、案外ふかふかしてるんだな。

……なんだか、温かい。


まぶたに張り付いた氷柱が重い。目を閉じると、凍りついた鼻腔の奥に、不意に懐かしい石鹸の匂いが蘇った。

こんな夜でも必ず起きて、僕らの帰りを待っていてくれた――陽だまりのような、あの人の匂い。



「僕も働きたい!」


5歳のあの日。

吐く息は常に白く、孤児院の石造りの床からは芯から冷えるような冷気が這い上がってきていた。

部屋の中央にあるストーブは、ただの黒い鉄の塊だ。薪を買う銅貨すらなく、小さな子たちは身を寄せ合ってガタガタと震えている。

年長組は泥だらけになって夜遅くに帰ってくる。その手には、僅かな硬貨と、霜焼けの赤いひび割れ。


だから、教会へ走った。

分厚い『神授の魔導書』。その冷たい羊皮紙に、背伸びをして小さな両手をつく。

火を出せる魔法使いになれば、ストーブが点く。狩人になれば、みんなに温かいお肉のスープを飲ませてあげられる。


「……ああ、可哀想に」


神官の震える声が頭上から降ってきた。

「『勇者』の加護だ。なんの力もない……ただの、雑用係の印だよ」


哀れむような大人の視線。

けれど、足はすぐにギルドへと向かっていた。

握りしめたDランクのスタンプ台紙が、くしゃくしゃに鳴る。

これで、お仕事ができる。みんなの役に立てる!


冷え切った路地裏。素手で氷を叩き割り、ヘドロの詰まったドブに両腕を突っ込む。

鼻が曲がりそうな腐臭と、骨まで凍るような泥水。

ガチガチと歯の根を鳴らしながら、ただひたすらに泥を掻き出した。


夜。孤児院の薄暗い食堂。


「なんだよそれ。あんなドブ臭い思いをして、たった一枚ぽっちかよ」

鼻をすする音と一緒に、年長の少年が嗤う。

「俺なんて今日は薪割りでこれだけ稼いだぜ」

チャリン、と別の少年が誇らしげに銀貨を鳴らす。


「小さな器で泥をすくったって、この氷河期は終わらない。凍え死ぬ前に無駄なことはやめな」


大人びた少女の言葉が、冷え切った空気にすとんと落ちた。

握りしめた小さな拳の中で、たった一枚の銅貨が、やけに冷たい。

爪の間には黒い泥が詰まり、体からはまだドブの嫌な匂いが立ち昇っている。


……僕の小さな器じゃ、世界どころか、この部屋ひとつ暖められないんだ。


唇をぎゅっと噛み締めた。うつむいた視界の端で、ぼろぼろの靴が滲む。


「よく頑張ったね」


突然、視界がふわりと覆われた。

微かな石鹸の匂い。

先生の腕が、ドブ臭い泥だらけの小さな体を、躊躇いもなく力いっぱい抱きしめていた。


「君のその泥だらけの手のおかげで、街の人たちがどれだけ助かったことか。君は本当に、すごい勇者だよ」


背中をさする手のひらが、熱い。

痛いくらいに冷え切っていた頬に、ポロポロと、大粒のしずくが伝い落ちた。

ドブの中では一度も鳴らなかった嗚咽が、ストーブのない部屋に響いた。



――ポロロン……。


酸いエールと、焼け焦げた獣肉の匂い。ムワッとむせ返るような熱気を孕んだ酒場の喧騒を縫って、羽飾りの帽子をかぶった吟遊詩人が、大げさな身振りで歌い始めていた。


♪〜

『むかしむかし、世界が真っ白に凍りついた頃。

どこにでもいる、普通の一人の若者がおりました。


若者は幼い頃から、いつか世界を救う日を夢見ておりました。

その夢に向かって、小さな紙に『勇気の印』を一つずつ集めておりました。

一つ、また一つと印を重ねて、若者はついに誰よりも高い階段のてっぺんに辿り着きました。


若者の勇気に心打たれた太陽の姉神と月明かりの弟神が、微笑みかけました。

二柱の神様は、若者に『決して老いない時間』を授けました。

若者は単身、魔王の城へと乗り込み、その祝福の光で、当時一番大きかった真っ黒な魔王の影を打ち払いました。


けれど、神様の怒りに触れた世界は、悲しい氷河に閉ざされたまま。

終わらない時間をもらった若者は、世界を春に戻す使命を胸に、真っ白な世界をどこまでも旅しました。


やがて世界の果てで、神様が書き残した『はじまりの書(真なる原本)』を見つけました。

若者がその本に触れると、溢れるほどの命の光が、若者の器に流れ込みました。


若者は、剣も振らず、魔法も唱えず、その光で世界の氷を溶かしました。

やがて氷は水になり、世界に春が戻りました。


けれど、光を詰め込みすぎた器は、パチンと弾けてしまいました。

すっかり空っぽになった器を残して、若者はお空の星になりました。


めでたし、めでたし』

〜♪


ジャァァァァァァンッ!!


派手な和音が、暖炉の火の粉とともに弾ける。


「――さあ、スタンプの端くれから星にまで成り上がった『神選勇者の奇跡』! 今宵は世界再生の日だ!偉大なるお空の星に乾杯といこうじゃないか!」


吟遊詩人がウインクとともに締めくくると、酒場の客たちから「おおーっ!」という割れんばかりの歓声が上がった。

足元のくたびれた木鉢には、チャリンチャリンと景気良く銅貨が投げ込まれていく。


「ぷはあっ! 『神選勇者の奇跡』に乾杯!」

「ぎゃはははっ! 違えねえ! おい、エールのおかわりだ!」


音楽が陽気でテンポの速いものへと変わる。

ジョッキが乱暴にぶつかり合う音、男たちの笑い声、赤く燃え盛る暖炉の熱。


「おい吟遊詩人! 次はもっと景気のいい話にしてくれよな!」

「ええ、ええ、もちろんですとも! では次は、輝かしい黄金の魔法使いの英雄譚を――!」


世界を救った男の死など最初からなかったかのように、赤く染まった酒場には、今日も夜通し陽気な歌が響き渡っていた。

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