07
長官の執務室に、扉を破る勢いで飛び込んだ俺を、アイリーンは驚きもせず出迎えた。
「あら、キースさま。いいお天気ですわね」
長官の言った通り、我が物顔でくつろいでいる。
アイリーンはソファーにゆったりと腰かけ、優雅にティーカップを傾けている。昨日と違うドレスを着ているということは、着替えたのだろう。
「まさか昨晩からずっとここにいたのか?」
「はい。お兄さまもここには近寄りませんから」
メレディスと長官は仲が悪い。
やられた。思えば各所に散らされた番犬も、ここには一匹もいなかった。ウロウロと移動する煩わしさで、全てを追うのをやめたのだが失敗だった。追っていれば、ここには一度も、一匹も寄りつかなかったと気づけただろうに。
「ここで寝たのか」
「はい。長官が仮眠で時折このソファーを使っていらっしゃるそうで、寝心地は保証してくださいました」
カチンとくる物言いだ。わざとだろう。
「あなたの潜伏に協力的だと言っているように聞こえるな。先程は随分と怒り心頭だったようだが?」
「あら、キースさまったら、長官にお手伝いいただきましたの? ちょっとしたかくれんぼでしたのに。キースさまにも苦手なことがありましたのね」
「……」
いつになく棘がある。この調子で長官にも八つ当たりしたのなら、なるほどさっさと回収しろと言いたくもなる。
言いたくない、と抵抗するアイリーンを組み敷いて、白状するまで溶かしたのはさすがに意地になり過ぎた。結局、一目惚れというのはメレディスの言った通りで、恋だとか愛だとか、そんなものへ意味が変わったのはそれより後ということで。酒が入っていたこともあり、ムキになってしまった。
冷静になるも遅く、アイリーンは俺の鼻に歯形を残して部屋を出てしまったから、やり過ぎたと反省する間もなかった。
「アイリーン、俺が悪かった。あなたがいなくては寂しい」
「あら、昨晩はお一人でも平気でいらっしゃったのでしょう?」
「……」
まさか戻ってこないなどと想像もできず、遅いな、とのん気に構えて待っていたが気づけば意識が落ちていた。朝になって青褪めたが、朝食まですっぽかされたのではどうしようもない。
「アイリーン、すまなかった。ムキになった」
「……」
愛されているという自覚ばかりはしっかり握っているせいで、アイリーンは俺から己を奪うことが罰になると知っている。
かくれんぼが得意。
これはよくない。非常にまずい。今ここでアイリーンに許されなければ、気が済むまで戻ってこない可能性もあり得る。
「アイリーン……」
声は意識せず情けないものになった。
「あなたに嫌われては生きていけない」
「お兄さまみたいなことをおっしゃいますのね」
「あれのことはいい。俺の話だ」
俺以外の男の部屋で眠り、俺以外の男を話題に加える。そろそろ勘弁してくれ。
「……嫌いだなんて申し上げておりません」
「だが怒りを沈めてもくれないのだろう?」
「……わたくしが怒っていると、何か不都合がありまして?」
「もちろん」
身が持たない。挫けそうだ。情けないことだが、アイリーンの機嫌いかんで俺の一日が決まる。すっかりアイリーンに掌握されてしまった。
「すまない。俺が悪かった。反省した」
機嫌を直してほしい。
嘘偽りなく本心で肩を落とす。自分がどんな顔をしているのか想像したくはないが、おそらくは臣下に見せられるものではないだろう。こんな特権は、アイリーンが相手でも渡したくはないものだ。妻にとっては、かっこいい夫でありたい。些細な願いであるはずなのに、アイリーンを前にすると途端に駄目だ。
萎びた俺をどう思ったのか、アイリーンはしばし沈黙し、そしてまっすぐ視線を交えてきた。
「このソファー、寝心地がいいとは言っても、やはりベッドには敵いませんの。わたくし今日はお昼寝いたしますので、その間、抱き枕を務めていただけますか?」
「喜んで」
間を空けず返事をする。
ソファーのそばへ寄って、恭しく跪いて見せる。手を差し出せば、赤くなった頬を隠す為だろう表情ばかりをムッとさせながらも、アイリーンは手を重ねてきた。
立ち上がるまで支え、ふと思いついて、歩き出そうとするアイリーンの体を横抱きにする。
「き、キースさまっ!?」
やはりアイリーンを抱き上げる時は驚かせるに限る。うまく不意を突ければ、必ず抱き着いてくれる。そのあと怒られるが、得のほうが大きいので気にしない。
「部屋まで運ぼう。そのまま眠るといい」
「お気遣いなく。歩けますわ」
「昨日のお詫びに、今日はうんと甘やかして特別に優しくさせてもらおうと思ってな」
「わたくしもう怒っていませんわ」
そんなことはわかっている。本気で怒っているのなら、会話すらまともにしてもらえなかったことだろう。
「あなたの怒りは関係ない。俺が償いたいだけだ」
「わたくしの反応をご覧になりたいだけでしょう」
「反省を行動で示そうとしているんだ。受け取ってほしい」
「キースさまったら……」
何を言っても無駄だと諦めたのだろう。大きな溜め息を一つこぼして、アイリーンは抵抗をやめた。さっさと部屋を出る。
「……」
「眠っていいぞ」
「起きてますわ」
眠いのだろう。アイリーンの体はぽかぽかと温かい。
きちんとベッドで眠らないからだ。やり過ぎた俺の責任だが、棚にあげてそんなことを思う。他人が仮眠に使っているソファーで一夜を明かした、というのは俺への嫌がらせだとしてもよろしくない。そんな手段で俺の妬心を煽って、どうなっても知らねえぞ。
「安心しろ。俺が責任をもって、あなたを部屋まで連れて行く」
声に笑みが混じって、鋭く見咎めたアイリーンが口を尖らせる。睨んでいるつもりなのか眉根をきゅっと寄せているが、とろんと微睡んだ双眸で台無しだ。
「おしゃべりな枕ですこと」
呂律も甘い。
「しゃべるな、とは言われなかったのでな」
「まあ、では口を塞いでしまいましょう」
きっと自分が何をいっているのか、半分もわかっていないだろう。普段のアイリーンであれば絶対に言わないような言葉がスルスル出てきて面白い。
両の頬に手が添えられ、調子づいてこぼれそうになる笑みを必死で噛み砕く。ここで正気になられてはたまらない。さっと廊下の壁に身を寄せる。周囲に人の気配はないが、間違っても人目に触れないよう、壁と己の体でアイリーンを隠す。
口をつぐんで、先んじて目を閉じる。さあ、いつでもこい。
「……」
こないな。
これは正気に戻ったか、と片目を開けて確認する。
「……」
「くぅ……」
「……」
ぴったりと閉じた瞼に長い睫毛が影を落としている。寝息は規則正しく、眠りの深さを示していた。
「……」
期待した俺がバカだった。
黙った途端にこれだ。
口を塞ぐ。まんまとしてやられた。確かに黙ったが、その瞬間に寝てしまうとは思わない。
ちくしょう。
張り切って目を閉じた俺の姿はマヌケそのもの。妻を抱えて壁際に寄って、俺は一体、何をしているんだ。羞恥が顔を焼くが、文句を言おうにもアイリーンは夢の中にいる。
寝入ったアイリーンを起こすのは躊躇われて、歯軋りもできない。大人しく抱き枕に徹するしかない。
あーあ、また俺の負けだ。まったくこの妻には敵わない。




