09
――神様、
祈ったのはあれが最初で、あれからは一度もない。たった一度の祈りさえ聞き届けてくれない。祈っても助けてくれない神様。大嫌いだ。
初めて会ったのがいつなのか、もう覚えていない。彼はいつだって、わたくしの心が悲しみに沈んだ夜に現れた。泣きじゃくるわたくしの夢の中に、晴れやかな夜のように微笑んで。そうしてわたくしの心を、涙で膿んだそこを抉って嗤う。
わたくしの渋顔に何を思ったか、彼はどこか誇らしげに胸を張って、その場で踊るようにくるりと回った。
「見てよ、この体。君に会う為だけに用意したんだよ」
「嫌いですわ」
「そう言わないでよ。せっかく会いに来たのに」
頬を膨らませる様はまるで子どものよう。けれど彼の姿は、容姿だけ見れば殿下とそう変わらない。立派な器に稚拙な中身。ちぐはぐだ。
容姿に見合わぬ停滞した少年の無邪気さ。それこそ、彼が危険である何よりの証。どれだけ長く生きても、彼は無邪気なまま、ずっと変わらず残酷なまま。
「君がぼくを呼んだから来たんだよ、薔薇姫。ぼくに会えて嬉しいでしょ?」
「滅んでください」
ちっとも嬉しくない。大嫌いだ。
もっと早く来ることだってできたくせに。切羽詰まってじたばた足掻くわたくしを見て嗤っていたのだどうせ。
「きびしーい」
嬉しそう。彼はいつだって笑んでいて楽しそうで、けれど全部が嘘なのだ。
「あなたの笑った顔が嫌い。あなたの弾んだ声が嫌い。わたくしはあなたの全てが嫌い」
「知ってる。だからぼくは君のことが好きなんだ」
奥歯を噛みしめる。瞬きで震える睫毛さえ憎らしい。拳を握りこみ、手のひらに爪を立てる。
痛みで怒りを散らさなければ、殴りかかってしまいそうで。
「嫌われても笑ってしまうなんて、よほど暇でしたのね」
こどもっぽい挑発だと自覚はあったが、口端からこぼれ落ちた。
「暇だよ。この国は今、つまらないほど平和だから」
戦闘の狂乱にのみ心を震わせる、混沌と破壊の神。
ふいに、彼が目を細めた。ふわりと微笑むその顔に、先程までの無邪気さはない。時折、彼はこうしてまったく違う雰囲気を纏う。
「ねえ、アイリーン。ぼくの薔薇姫。君も暇だったでしょう? 耐えがたい退屈だったでしょう? こんなに平和な世界じゃあ、どうしたって生きづらいでしょう?」
わたくしが否定するなど微塵も考えていない。そういうところも嫌いだ。
「あなたと同列に語られるほど屈辱的なことはありませんわ」
「ひどいなあ。……君、ぼくが求婚してること、なかったことにしてるでしょう?」
「あなたこそ、わたくしがお断りしたこと、なかったことにしているのでしょう?」
「うん。はい、って返事しか覚えてられないからね」
「あなたのことは嫌いです」
「あはは、知ってる」
忌々しい。
「差し上げるのは命だと、わたくしはそう申し上げたはずですわ」
お母さまを助けてくれるなら、その為に代わりが必要なら。そういう約束。
「うん、でもぼくは心がほしかったから」
あっけらかんと言ってくれる。助けてくれなかったくせに。たとえ差し出したのが心でも、彼はきっと助けてくれなかった。知っているから、わたくしは彼が嫌いだ。
「どちらにせよ、わたくしの祈りを叶えてくれなかったあなたに差し上げるものは何一つありません」
「叶えてあげたでしょう? 権利を一つ、君まだ持ってるよね?」
とん、と細い指がわたくしの胸を叩く。
忌々しい。大嫌いだ。
「あれは、あなたへの罰です」
「……神様を罰する人間なんて聞いたことないよ」
「あら、神殺しはいつだって人間の特権でしょう?」
「君のそういうとこきらーい」
「大いに結構。もっと嫌って、そうして二度と関わらないでくださいまし」
「君が喜んじゃうから、嫌だよ」
からからと笑う口元を張ろうと腕を振る。しかしあっさり掴まれ、そのまま腕を引かれた。触れそうなほどの距離で、彼が笑う。
「それに、ぼくは贈り物もしたでしょ? お返しがないんだけど」
「勝手に押し付けて行ったんでしょう? いつでもお返ししますわ」
「返品不可でーす」
ムカつく。
「本当、君は昔からぼくのことが大嫌いだよね」
「大嫌いですわ」
「人前では軍神さまなんて良い子ぶって呼ぶくせに。ぼく、これでもこの土地の主神なんだけど? 今じゃ唯一神と言ってもいい」
「あなたなんて大嫌いです。ちょっと信仰されているからって、調子に乗らないでください」
「あはは! ブレないなぁ~そういうところ大好きだよ、結婚しよ?」
「嫌です」
掴まれた腕を振りほどく。
燃え上がる嫌悪感を余さず瞳に込め睨めつける。そんな態度にもどこ吹く風で、彼はやれやれ、と溜め息を吐き出した。
「参っちゃうよ、まったく。君ねぇ、ぼくの心の欠片をもらっておいて、なに別の男と結婚してくれちゃってるのさ」
心の欠片。軍神の狂気の一端。わたくしの、心の根源。
「アイリーン、君の根源は狂気。平和を享受することも、退屈に耐えることも、人間らしく生きることも、君にはできないんだよ」
言い聞かせるような口調。どうしてわからないの、と。本心からの疑問に、どうしようもなく感情が乱される。
「最愛の母を殺されて、それでもぼくと何事もなかったように言葉を交わしている。アイリーン、わからない? 人間にはそんなこと、できないんだよ」
ギリィ、と噛みしめた奥歯が悲鳴を上げる。
お母さまを奪った病は、安寧秩序に飽いた軍神の戯れ。退屈した神様が気まぐれにばらまいた狂気。どれだけ調べても、病の源は見つからなかった。最初は誰か、始まりはどこか。なぜ流行ったのかすら不明の、未知の病。
恨んで嫌って憎んで呪って殺したくて。それでもどうしたって滅ぼせなかった。何事もなかったように接したことなんてない。ただの一度も、平気だったことなんてない。
「そういえば、この国の王さまはしぶといね。病に抗って死に損なう人間は珍しい」
目の前が真っ赤に染まる。どんな言葉を選べばわたくしが怒るのか。どんな言い方をすればわたくしが傷つくのか。この神は知り尽くしている。
「ぼくが狂気をばらまいたと知って、それを一人で呑み込んで。頑張るよねえ、君も。大好きなお父さまに言って、助けてもらえばよかったのに」
言えない、言えるわけがない。軍神に求婚されている。わたくしの泣き顔が見たいばかりに、軍神がお母さまを奪っていった。そんなことを言ったらきっと、わたくしは大好きな人みんなに嫌われてしまう。
なんて酷い神様だろう。――そんな神様に愛されるわたくしは一体、どれほど醜い生き物なのだろう。わたくしさえいなければ、誰も泣かずに済んだのに。さっさと死ねば良かったんだわたくしなんて。それでも、愛してもらえることが嬉しくて、誰にも言えなかった。
あなたの笑った顔が嫌い。あなたの弾んだ声が嫌い。わたくしはあなたの全てが嫌い。――わたくしは、嫌いなあなたを喜ばせるわたくしが、大嫌い。
「泣いて、泣いて、苦しんで。それでも最後は諦めてしまえる。嬲られた心がそれでも砕けないのは、弄ばれた心がそれでも生きてるのは、その根にぼくがいるからだ」
愉悦を隠そうともしないその声に、怒りが爆ぜる。
「あなたのおかげだったことなんて、一度だってありはしません。諦めたことだって……あなたへの殺意が鈍ったことなんて一度もない!」
「でも、君はぼくを呼んだじゃないか」
「今度こそ殺そうと、そう思ったから呼んだのです。あなたの寵愛など必要ない。わたくしにはもう、守ってくださる旦那さまがいるのです!」
「言うじゃないか。その旦那さまを得る為にめちゃくちゃしたくせに」
「っ……!」
息を呑む。
かさぶたになった傷が、ちくりと痛んだ。
「ははは! 自覚あるんじゃないか」
大嫌い、大嫌いだ。わたくしの嫌がる姿に、傷つく姿に、泣き顔に、最大の悦びを見出すこの神が、わたくしは大嫌いだ。
「あの娘のことだって、わかって放置していたくせに。石への興味だけで、疼いた狂気を御せなかったくせに」
違う、と叫びたい。そんなことない、と。
けれど今、口を開いたら、わたくしはきっと泣いてしまう。
「さぞ愉快だったろうね、ぼくの薔薇姫。愉しかったろう? 愛につけ込んで大好きな人たちを傷つけるのは。嬉しかったろう? 混沌の遺物を発見できて、その専門家を得られて」
違う、わたくしは――
「酷い女だよね。自分の狂気を満たすのに有利な旦那さまを得る、その為だけに国さえ脅かすなんてさ」
ふと、彼が声を潜めた。愛を囁くようなその声に、背筋を這うような不快感がせりあがる。耳を塞いでしまいたいのに、それは負けを認めてしまうことのようで。滲んだ涙がこぼれぬように、睨めつける目に力を込めるだけで精一杯なんて。
「ねえ、本当にその旦那さまでいいの? 君の狂気を知ってなお受け入れてくれるような、理解を示すような男なの?」
唇を噛む。血が出るほど噛んで、こぼれそうな感情を押し込める。こんな男の前でだけは、何があっても嫌だった。もう二度と、見せてやらない。
「ぼくの薔薇姫。ぼくなら君を、それでも愛してあげられるよ? 君の狂気も満たしてあげられる」
可哀想に、生きづらかったね。
その言葉に、肌が粟立つ感覚が全身を駆け巡った。胸を焦がす拒絶感に、迷わず伸ばされた手を弾いた。
嘘吐き、大嫌いだ。
「あなたの愛など必要ない。あなたの狂気など埋もれてしまうくらい、わたくしはたくさんの愛を注いでもらっているのです。わたくしはもう、寂しくない」
人間の在り方なら、お兄さまに叩き込まれている。私欲で国を滅ぼすような妹を、お兄さまは決して許さない。歴代最高の猟犬たるお兄さまがわたくしを殺さず生かしているのならそれは、わたくしが人間である何よりの証明だ。
お兄さまだけが、いつだってわたくしの誤算。今回のことだって、お兄さまが煽ったから、ムキになった殿下が番犬を蹴散らすに至ったのだ。あれがなければ、わたくしは内緒を隠し通した。あれがあったから、わたくしは今、彼の手を跳ね返せた。
臆病者のお兄さまがしっかり者になってしまうほど、世話の焼ける困った妹ではあるけれど。それでも愛してくれるから。わたくしは神の狂気にだって打ち勝てる。
わたくしのお兄さまを舐めるな。
「お兄さま、ねえ……」
アイリーン、と。名を呼ぶ声が氷のように凍てついた。
「ぼくは君が生まれた時からずっと、ずうっと好きでいたのに。どうしてぼくを選ばないの? 心がほしい、なんて。言い出したのはぼくが先だったじゃないか。同じ言葉をくれる男、後出しの方を選ぶのは、単にぼくへの当てつけだろうに」
違う、と開いた口を彼の手が塞ぐ。
「違わないよ。君の心にはぼくの棘が刺さってる。ぼくは君の心を知っている」
違う、絶対に。同じ言葉であるものか。
殿下は優しかった。いつだって優しくて、泣いてしまうほど優しくて。大好きなんだ。
殿下の笑った顔が好き。殿下の弾んだ声が好き。わたくしは殿下の全てが愛おしい。――わたくしは、大好きな殿下を喜ばせるわたくしが、少しだけ好き。
優しくされるのも、甘やかされるのも、慰められるのも、全部、殿下が良い。あなたでは、嫌だ。
「駄目だよ、アイリーン。無理だよ、ぼくの薔薇姫。君は、ぼくがもらうと決めたんだ。他の誰にも、譲ってあげない」
不誠実で気まぐれな神が、瞬きのような時間、ほんのひと時だけ与えてくれる執着と愛。そんなもの、わたくしは欲しくない。心なんて要らない。……大嫌い。
「それでも、ぼくは君の心がほしい」
『俺は、あなたの心がほしい』
駄目、あなたにはあげない。わたくしの心は全部、もう殿下に差し上げた。
滅べ。こぼれそうな涙の代わりに呪詛を吐く。嫌い、大嫌い。
ぴくり、と跳ねた指の隙間から声を出す。
「キースさま、」
――助けて。
彼の双眸が揺れるより早く、彼の双眸に怒りが宿るより早く。
「アイリーン!」
わたくしを呼ぶ声が空気を震わせる。
弾かれたように声の方を向いた彼が、わたくしの口から手を放した。迷わず駆ける。
初めて見るような怖い顔なのに。殺意すら宿した双眸なのに。殿下に名を呼ばれたことが、そんなことがただ嬉しくて、涙が出た。




