07
静かな夜だった。満ち満ちていく月も、今日は分厚い雲に身を隠してしまって、その光を降らせてはくれない。
殿下の来訪はいつもよりずっと深い時間で、出迎えたわたくしは欠伸を呑み込めなかった。
「起こしたか?」
「いいえ、キースさまの体温なしでは眠れませんもの」
「嬉しいことを言ってくれる」
室内に入った殿下は、ベッドではなくテーブルの方へ歩いて行ってしまう。背に隠した手に握られていたのは、ワインだった。
「喜べ、今日は良い酒だぞ」
「こんな時間から飲みますの?」
「何だアイリーン、知らないのか? 悪事は夜の方が楽しいんだぞ」
にやり、と口端を持ち上げて、殿下はわたくしの返事も待たずに戸棚からグラスを持ち出した。迷いのない動きに笑みがこぼれ落ちる。
「いけない旦那さまですこと」
「ああ、兄上のとっておきだ。バレたら大目玉だな」
「え……?」
さらっと紡がれた言葉に、笑みのまま表情が凍りついたのが自分でわかった。……今、なんと言いました?
「宝物殿の奥にな、兄上の秘蔵の酒を隠した棚がある。俺にバレたのが運の尽きだ」
何をさらっと白状しているのでしょうこの方は!? え、嘘……このワイン、宝物殿から盗んできちゃったの!?
目を白黒させるわたくしには構わず、殿下はさっさと栓を抜いて並べたグラスにたっぷり注いでしまった。
「き、キースさま、」
「共犯になってくれ。あなたがいれば叱られない、多分」
「いいえ、絶対に叱られます」
「二人なら怒りも分散するだろう?」
「倍叱られます!」
陛下の秘蔵のお酒ということは、王妃さまが愛する銘柄ということだ。わたくしの存在など関係なく、王妃さまを悲しませた不届き者は問答無用で刀剣王の怒りに触れる。叱られるだけで済めば良いが、きっとそんなことはない。
「まあ……もう開けたんだ。あなたも腹を括れ」
「巻き添えではありませんか!」
「夫婦は運命共同体だろう?」
「こんな時ばかり運命を共有しようとしないでくださいまし!!」
絶対に叱られる。ものすごく叱られる。脳みそが溶けるほど叱られる。
「ダメだったら……しかたない、兄上を殴り飛ばして逃げよう」
「なぐっ……! 殿下!?」
「大丈夫だ。強めに殴れば記憶も飛ぶさ」
ワインを盗んで飲んだという罪は忘れても、弟に殴られたという記憶は焼き付くと思う。罪の重さでいえば前者の方が軽いのだが、わたくしはもう声も出ない。
「あっはっは! 心配するな、ちゃんと逃げ切る」
「そ、んな心配はしていません」
もう逃げることが決定事項になっている。バレること前提だ。
「飲め、アイリーン」
「……いただきます」
腹などちっとも括れていないが、やけっぱちだった。
「絶対に、逃げ切ってくださいね」
「任せろ」
ぐい、とグラスを呷る。……美味しい。こんな気分でなければきっと、多幸感で胸が温まったであろう美味しさだ。さすが、陛下のとっておきなだけはある。
「これであなたも共犯だ。心強いね」
「笑い事ではありませんわ」
「ふむ……飲め、酔えば勝手に愉快になる」
なんて暴論、信じられない!
目を丸くわたくしをよそに、殿下はじゃぶじゃぶおかわりを注いでまるで水でも飲むように干してしまう。
「で……キースさま、せめてもう少し味わって飲んでくださいまし」
陛下のとっておきのワインなのに。黙って持ち出してまで飲んでいるワインなのに。陛下に申し訳なくて、わたくしは心の中でしくしく泣いた。
せめてわたくしだけでも味わおうと、ゆっくりゆっくりグラスを干す。
「そうだ、アイリーン。取ってきたぞ」
不意に、殿下が何かを放って寄越した。思わず受け取って、瞠目する。
「扇……」
「俺はあなたと勝負をしているらしいんだが、記憶になくてな」
ひくっと、喉の奥が鳴る。レーヴェさまの嘘吐き! 口は堅いと言っていたのに! 何一つ大丈夫じゃない!
「勝つとあなたに破廉恥な要求ができるというのでな。もぎ取ってきた」
口が軽いにもほどがある。
「殿下、違うのです。いえ、違いませんけれど……」
「キース」
「キースさま! 勝負というのは、その……」
青くなっておろおろするも、ふわふわしてきた頭では言い訳の一つも浮かばない。
「まあ、今日は保留としよう」
「へ……?」
最後の一杯を干して、殿下の指がとん、とテーブルを叩いた。
「少し真面目な話をしようか、アイリーン。あなたの悪巧みのことだ」
「……」
――あぁ、そうか。
「今日はわたくしを叱りにいらしたのね」
「叱っても改めてくれんだろう、あなたは」
「……」
とん、と指がもう一度テーブルを打つ。
「アイリーン、何をそんなに焦っている?」
見透かすようなその言葉に、わたくしは返事をし損ねた。
「アイリーン、」
レーヴェさまが帰省すると聞いて、北方を調べ始めたことに理由はない。何も出なければそれで終いだった。ただ調べて、そうしたら不穏を嗅ぎ取った、それだけ。この国を攻め滅ぼそうという第一王子の目論見の理由はわからなかったけれど、あの方の考えはどれもわからなかったから、事実だけ集めた。調べて調べて、調べ尽くして、協力者がわたくしを狙っていることを知った。
わたくしがエレオノーラの恋人に気づいたのは、ただ調査にかけられる時間が多かったからに過ぎない。お兄さまだってもっと時間があればたどり着いた。
犠牲にするならまず己から。わたくしは、わたくしを損ねることも傷つくことも惜しくない。苦痛も悲哀も構わない。だから餌にするなら、わたくしにしようと思った。
そうしてレーヴェさまに番犬をお預けした。あの子たちなら確実に守ってくれる。指一本、悪意のひとかけらだって寄せ付けない。扇はカサンドラ家当主の証。それさえ持っていれば、レーヴェさまは安全だった。毒は放っておいてもしかける端からお兄さまが回収する。誤算だったのは、護身用に残すはずだった番犬の一部を殿下が散らしてしまったこと。扇を譲っても、事前に伝えた命令はそのまま遂行してくれるから本隊と分けたのに。勝ってしまえば引くしかなかった。
愛する女性の罪から少しでも殿下の目を逸らそう、とわたくしを標的にするつもりだと知って。用いる手段が毒だと知って。蜜のように甘いその思惑を、呑み込むことは到底できなかったけれど。北方の問題が片付くまでなら構わなかった。どうせ未熟な第一王子では勝てない。長期戦になることはない。
お父さまへ連絡したことで、アスセーナ将軍の目を曇らせる準備は整っていた。第三軍から裏切り者が出た。くだらない動機で我が国の戦力を削ぐわけにはいかないから、彼をどう孤立させるかは悩んだが、勝手に王宮の隠し迷宮に潜り込んでくれて手間が省けた。
あの日、わたくしの部屋の周囲を彷徨いていた彼に遭遇した時ばかりは背筋が凍ったけれど。直接わたくしを手にかける度胸がなかったのか、迷子のフリで逃げて行ってくれてホッとした。
あとは北方の問題が片付けば、扇を回収して彼を消して、毒と証拠を提出してお終い。お兄さまが気づいてしまったから、これでお終いだ。
「アイリーン、事の顛末を全部声に出してくれたのはありがたいがな。聞きたいのはそれじゃない」
「……」
「部屋に引きこもって、酒も飲まず。毒以外の手段を用いる可能性を排除せず最大限の警戒までしておいて、なぜ俺にもメレディスにも助けを求めない?」
部屋に入れるな。対象は殿下と、お兄さま。刺客からわたくしを守り、殿下とお兄さまに毒を回収させない為に打った手だった。
「あなたは今回、何がしたかった? あなたにしては粗末な計画だ。動かせる駒を失って情報の収集が困難になっても、それでもやめなかった理由は何だ」
北方の問題はわたくしが手出しする必要がなかった。だって殿下とお兄さまが気づかないはずがない。事実、わたくしが何をするまでもなく問題は片付いた。そして鼠の彼も、命を懸けるほど真剣に向き合わなくても容易く排せた。でも、それでもわたくしは、もうこんな方法しか思いつかなかった。どんなに杜撰な計画でも、粗末な手段でも、命を死に近づけるくらいしか思いつけなかった。
「アイリーン、頼むから」
殿下の真剣な目に宿るのは、わたくしを案じる気持ちばかりで。泣いてしまいそうな顔をするから。
「だ、だって……」
言うつもりのなかった言葉がこぼれる。瞬きの弾みで、涙が出た。
「だって、陛下のお体がいつまで待ってくれるかわかりません」
「兄上?」
寝所を共にするようになって、殿下は前よりずっとわたくしに触れてくれるようになった。けれどこれまで一度だって、添い寝以上の夜はない。
「陛下が、わたくしとキースさまの子を抱きたいと、そうおっしゃるから……王妃さまも、一緒に名付けをしましょうねって……なのに、」
しゃくりあげる喉が言葉を阻む。ぼろぼろこぼれる涙が邪魔で、殿下の表情も見えない。
「キースさまを独占できることが嬉しくて、ずっと……言い出せなくて」
国を想えば、後継ぎを生むことを先延ばしにはできない。わたくしだって、殿下との子を望んでいる。
これはわたくしの我儘だ。わたくしの愛は全て殿下にだけ差し上げたい。殿下の愛は全てわたくしにだけ向けて欲しい。
だって子を産んでしまったら、絶対に愛おしくて、惜しみなく注いでしまう。それを寂しい、と。そう思ってしまった。もう少し、あとほんの少しでいい。わたくしだけの殿下でいて欲しい。――なんて、なんて酷い女だろう。
陛下と王妃さまの望みを叶えて差し上げたい。でも、欲張りな自分を諫められない。
「陛下のことも王妃さまのことも、大好きなのです。でも、」
だから、胸を焼くこの焦燥をどうにかしたくて。
――悪い子は、お終いにしたいから。
「どうしても、棘のように刺さった心が邪魔をするのです」
殿下には、わたくしの全部を差し上げたいのに。心は余さず、差し上げたのに。
「アイリーン?」
ずっと、ずうっと。わたくしを呼ぶ声がする。耳を塞いでも心を閉ざしても。泣くのをやめても。それでもわたくしを離してくれないから。
「キースさま、わたくしを」
彼が置いて行った欠片が、いつまでも痛むから。お終いにする為に何度呼んでも、彼は来てくれないから。
「攫わせてしまわないで」
――助けて。
生まれて初めて、助けを求めた。
一人では勝てないその敵を、それでも噛み殺そうと、そう思ったから。
「今のわたくしとでは、駄目なのでしょう? だから眠ってしまわれるのでしょう?」
抱きしめてくれる腕は優しくて、優しいばかりで。その先を求めない殿下がもどかしくて。でもわたくしは自分の歪を知っている。知っているから言い出せなくて。嫌われたくない、その一心で。黙って口を噤んだツケが回ってきた。
「ちゃんと、できます。良い子になります」
かの軍神は、わたくしが噛み殺す。だから、
「嫌いにならないで……」
◇
すやすや眠るアイリーンの寝顔に、自然と眉尻が下がった。
「悪いことを教えるな、と。俺は確かに言ったぞ」
普段ちっとも悟らせないその本心を、湯水のごとく垂れ流す。酒はアイリーンにとっての毒だ。
「まったく、手強い……」
かの軍神に愛された娘。
わかっていた、最初から。アイリーンの在り方は人のそれを外れている。不完全で歪なその心は間違いなく、軍神が好む形をしている。わかっている、つもりだった。
「たかが鼠一匹だ。それらしく処理するくらいのことは貴様らでもできるだろう? 今夜のうちに済ませろ」
アイリーンの本心が知れれば、もう鼠を生かしておく理由はない。
音もなく背後に立った影に告げる。返事はなかったが、気配で頭が下がったとわかった。次の瞬間にはかき消えた気配にはもう目もくれず。
アイリーンの寝顔に語りかける。
「あなたの為なら、神殺しくらいいくらでもやってやるというのに」
俺たちが兄上の調子が良いことを黙っていたばかりに、アイリーンは焦燥感から無茶をした。忍び寄る死の恐怖も、終わりが唐突であることも、アイリーンは知っている。それが余計に彼女の胸を焼いた。
計画と呼べるほどのものは何もなかった。アイリーンはただ、己の命を危険にさらせればそれでよかった。呼んでも来ない、己を愛した神を呼ぶ、ただその為に。
「嫌うものか」
そればかりが腹立たしい。
アイリーンの歪を危うい、と思っていることは確かだ。添い寝以上を求めないことも。しかしそれを、己の不完全さが俺に二の足を踏まれていると捉えるとは思わない。――独占したい。さっさと言ってしまえば良かった。十年もアイリーンを独占したレオンに妬心を募らせ、兄夫婦をいじめてでも子より夫婦の時間をとった。ガキのようだと恥じる気持ちなど、奥方を不安にさせることに比べれば些事だ。
「アイリーン、愛している」
返ってくる言葉はなく、寝息だけが静寂を揺らした。
俺にも、兄にも隠した秘密。
「アイリーン、頼むから」
攫われる前に、俺の名を呼んでくれ。
そしたら俺は、地獄の底にだって迎えに行くから。




