06
その日、早朝の王宮に響き渡った絹を裂くような悲鳴は、アスセーナ将軍から威厳も恐怖の代名詞として築き上げてきたものも、根こそぎ奪い去っていった。
「なぜ、なぜこんなことに……」
両手で顔を覆ってくずおれる姿は、思わず背を撫でてあげたくなるほどの悲愴を背負っている。それを見て、殿下は壁に手をついて必死に爆笑を堪えている。兄もいつになく険しい顔で耐えてはいるが、肩が震えている。
「妃殿下、あんまりです。私が何をしたというのですか」
その声には涙すら滲んでいる。
「妻と娘まで巻き込むなんて、卑怯ではありませんか! カサンドラの名が泣きますぞ!!」
まるでわたくしが将軍の奥さまとご息女を人質にとって、将軍を脅しているような物言いだ。さすがにムッとする。北方の国境と王都。離れて暮らす家族との再会くらい、素直に喜べばよろしいのに。
ちらり、と視線を向けると、アスセーナ夫人は呆れ顔でこめかみを揉み、リリー嬢は遠い目をしていた。父だけが、愉快そうに呵々大笑している。
「お前は相変わらず面白いな、エヴァン」
父の声に、将軍の様相は一変した。嘆きは鳴りを潜め、代わりに怒りで染め上げた顔で父に掴みかかる。
「アレックス貴様! なぜ貴様が私の妻と娘を引き連れてくるんだ!!」
「久し振りだったから挨拶に寄った。そうしたら是非一緒に、とのことでな」
「ぬぅ、大体なぜ貴様がここにいるんだ!!」
「お前に会いに来たんだろ?」
きょとん、と返事をする父に、将軍がわかりやすく怯んだ。ぐっと引き結んだ口端が震えている。
そこへ、夫人の深い、深い溜め息が割って入った。
「あなた、いい加減になさい。妻である私が嫉妬するほど愛しているカサンドラ卿との再会だからって、いくらなんでもはしゃぎすぎですよ」
「ああああああああ!」
大地を揺らすほどの絶叫。殿下は耐えられなかった。腹を抱えて爆笑している。
そう、将軍は父を嫌っているのではない。少々、思いが強すぎるのだ。
若き日の父は、将軍と同じく軍に籍を置いていた。互いを好敵手と認め、研鑽を重ねる日々。芽生えた友情は暑苦しいほどすくすく育ち、夫婦と称されるまでに至った。けれどそんな中、父が恋をする。婚約者として顔合わせをしたその日に、父は母を見初めたのだ。
カサンドラの溺れるほどの情は、将軍への友情から母への愛情へコロッとすり替わった。愛称だった夫婦の生活は、父の結婚を機に儚くも離婚と相成った。不仲になったわけでも、愛を得たことで父が将軍を粗末にしたわけでもない。ただ父が、母の為に生きると決めただけ。そうして父はさっさと領地へ引っ込んでしまい、取り残された将軍は満ち満ちてはみ出している父への感情を、持て余しこじらせ、そしていまだに捨てられずにいる。
「お前! なんてことを言うんだ!? 愛してない!! 俺はこんな熊男、断じて愛していないぞ!!」
「はっはっは! 俺はお前が好きだぞ、エヴァン」
「あぁぁああっ!?」
「素直に認めなさいな。こうまで言ってくださっているのに」
久し振りの再会は、将軍の心ばかりを大いに乱しつつやっと盛り上がりを見せ始めた。
「リリー嬢、お久し振りです」
わたくしも旧交を温めよう、と声をかけたリリー嬢は、
「恥ずかしい……」
真っ赤な顔で唇を噛みしめていた。
「妃殿下、あんまりです。あれで北の暴れ熊だなんて、私はこの国が心配です」
ちょっと泣いている。リリー嬢は二十二歳。持ち込まれた縁談の全てを父親の強面が跳ね返してしまい、もうお嫁にはいかない、と腹を括ってしまった豪胆な女性だ。
将軍譲りの赤毛は、夫人の血を受けゆるやかに波打っている。猫目が愛らしい、大変な美人であるのに。
将軍だって悪気があるわけではない。むしろ娘の縁談には前のめりになっている。けれど如何せん顔が怖い。幾人もの幼子を泣かせてきた強面はお上品な貴族にも痛烈に効果を発揮し、笑顔の練習は尽く裏目に出た。
「し、将軍はちょっと、お父さまとのことになると歯止めが利かないだけですわ。第三軍は我が国が誇る精鋭揃い。そこを任される将軍は国一番の兵ですから、安心してくださいませ」
「ちょっと……? あれでちょっと……」
呆然と呟くリリー嬢の視線の先で、将軍がまた絶叫してくずおれた。見つめる双眸から徐々に光が失われていく。
「お、お兄さまにもご挨拶して差し上げて! リリー嬢に会えるのを、お兄さまも楽しみにしていましたのよ!」
慌てて手を引き、兄の元へ連れて行く。殿下の方をチラと見るが、笑い過ぎて使い物にはならなそうだ。
お兄さまも限界なのだろう、口元を押さえて、もう肩と言わず全身が震えている。そこを一睨みして紳士の仮面を被らせる。このままではリリー嬢が泣いてしまう。
「お久し振りです、メレディスさま」
「こちらこそ、レディ」
手を取り甲に口付ける。その姿は立派な紳士。
和やかに会話を始めた二人を見て、詰めていた息をそっと吐き出す。
「ではお兄さま、リリー嬢、わたくしは向こうで笑い転げている旦那さまを回収して参ります」
「行っておいで。思いきり噛みついてやれ」
「お兄さまったら……」
そそくさとその場を去る。
殿下は、部屋の隅っこの方でまだ笑っていた。
「殿下ったら……」
「あなたの家族は、友人まで愉快なのだな」
「将軍は……少々特殊な部類ですわ」
我が家とお付き合いのある方が全員あんな感じだと思われては堪らない。
「あなたはもういいのか?」
「殿下がお一人ではお寂しいかと」
「優しいね。どいつもこいつも、俺のことは視界にないようだ」
「殿下が隅っこで小さくなっているからですわ」
お父さまと将軍はとにかく体が大きい。二人が並ぶとちょっとした壁だ。そんな巨躯の後方に下がれば必然、視界からは隠される。
「喜劇は観客でありたい方でな」
「もう、見世物ではありませんわ」
ふと、殿下が声を潜めた。
「それで? 俺の奥方はどんな悪巧みで、俺を困らせようとしているんだ?」
「……内緒ですわ」
「内緒にしてやるのは俺だ、アイリーン」
咎めるような気配はない。……内緒に、してくれる。優しい、優しいその声に、揺らぎそうになる。けれどそれは、いけないことだ。
「まだ、内緒ですわ」
「そうか……」
寂しそうな殿下の声に、胸の奥に刺さった棘がちくり、と痛んだ。
◇
「信っっっっじられない!!」
頭を抱えたレーヴェの絶叫が反響する。
「どこの世に姪っ子を囮に使う人間がいるのよ!!」
侍女に協力者を吐かせる、という名目で丸一日、部屋に二人きりで放置した。第三軍は将軍に内密で部屋から閉め出し、鼠を炙り出そうとしたのだ。
すべてを隠し通すことは不可能で、アイリーンが預けた荷物を回収する際に一番バレたくないことが真っ先にバレた。おかげで、レーヴェは抱える激情を遠慮なくまき散らし大騒ぎしている。
「うるせえよ。先に巻き込んだのはそっちだろ」
到着と同時に隠し通路に飛び込むような奇想天外な真似までして、護衛と侍女を振り切った。兄上と義姉上にはちゃっかり、俺を巻き込む了解を取り付けていたのだこの姪は。
「救! 助! 要! 請! 身内に助けを求めて何がいけないのよ!!」
救助要請、ねえ。それにしてはあまりに遠まわしな要請だった。しかも口火を切ったのはアイリーンだ。
第二王子とその護衛を務める第六班の話。派生して第一王子の話。花の話が出なければ、侍女のことなど気にも留めなかった。
百合は純粋さと無垢を表す花だ。そしてダリアは栄華や優美を表す。しかしわざわざ黄色と色を指定した。黄色のダリアは裏切りの象徴。純粋なはずの娘が裏切った。渡す情報はヒントだけで、それでも助けろという。……我儘が過ぎる。
「旦那に頼れよそんなもん。さっさと王子の首を落としてもらえば、わざわざここまで逃げてくることなかったんだ」
レーヴェの双眸が怒りに燃えた。
「知らないわよあんな唐変木! ちゃんと手順を踏むって第二王子にべったりなんだから!」
「……国家の危機に夫婦喧嘩持ち込むなよ。他国まで巻き込みやがって」
「それ、叔父さまにだけは言われたくないから。それに、巻き込んだのは叔父さまだけよ!」
「俺の嫁が巻き込まれてんだよふざけんな」
迂闊だった。侍女の協力者など想像もしない。
「……知らなかったのよ」
「だろうな。知ってて黙っていたのなら、お前は今ここにいない」
俺が真っ先に殺している。
「誰かと手紙のやりとりをしてることは知ってた。でも、家族からだろうと思ってたの」
レーヴェは自分で気づいて自分で攻める、燃えるような恋をした女だ。最初の恋がそれで、実らせた恋は今も火が消えずにいる。だから他の……慎ましく秘めるような恋は知らない。他人の恋を土足で踏み荒らすような女でもない。だから、気づけなかった。
メレディスも、手紙の送り主までは辿れなかった。誰も知らない、二人だけの恋。硝子細工のように繊細で、大切に閉じ込めていたおかげで噂程度の情報もあがらなかった。第一王子の手が及んだと調べがついた段階で、事の顛末が繋がったことも拍車をかけた。
「第一王子の計画が実ることはありえない。それでも無視はできなかったって……」
第一王子が脅しの材料に選んだのは、身内だ。厄介な身内の些細な罪。それを振り払えないほど甘ったれた娘を、それでも手元に残したい。甘ったれ同士お似合いの主従だ。
「殺さず手元に置くなら、二度が無いようしっかり躾けろバカが」
「わかってるわ。無垢な心を濁らせたくない、そう思って囲い込んだ私がいけなかった」
野に咲く百合ならそれでいい。しかし侍女として摘んだ以上、そのままでは困る。
「北方の情報は同期に頼んで、軍鳩で伝えてもらってたみたい」
「なるほど。王宮じゃ誰かしら飛ばしてる」
風景の一部を気に留める奴はいない。
「残りの毒をアイリーンさまの部屋に仕込んだって聞いたのは、メレディスさまに声をかけられる直前だったそうよ」
何とかする、と言われ素直に毒を渡した。
「お前にせよアイリーンにせよ、暗殺を企てれば罪に問われる。しかしお前が無事で標的がアイリーンと知れたら……まあ、俺が黙ってないよな」
侍女の罪など消し飛ぶほどに怒り狂う。罪の配分を乱すほどに。
「舐められたもんだ。まとめてぶっ殺すに決まってんだろ」
どうせ身を滅ぼすのなら、自分が犠牲になる。麗しい自己満足だ、反吐が出る。
「アイリーンさま、大丈夫よね?」
「毒はメレディスが回収した」
部屋に引きこもるアイリーンを俺が適当な理由で連れ出して、その隙に。
「証拠付きでまとめて置いてあったよ。さすがは俺の奥方だ」
「……アイリーンさま、いつから気づいてたの」
レーヴェから回収した荷物の包みを開ける。中身は扇。アイリーンはレーヴェを守る為に、番犬を丸ごと、そうとは知らせず貸した。俺との勝負など、ありもしない賭けを持ち出して。だから第三軍を引かせたのだ。番犬がいれば、レーヴェの安全は保障される。目敏い将軍は、カサンドラ卿と家族の来訪でそれどころではなかった。
「さあな」
おそらくは、レーヴェの帰省を知らされた時にはもう、調査を開始していた。
レーヴェに扇を預けたその日から、アイリーンは部屋に引きこもり始めた。部屋の外に出るのは俺がそばにいる時だけ。
喧嘩を口実にわかりやすく配置したわずかな番犬は、俺の来訪を妨げる為だけではなかった。いずれやって来る刺客の来訪を、あるいは刺客がしかけた罠を回収に来るであろうメレディスを寄せ付けない為でもあったのだ。レーヴェに扇を預け番犬を貸した後も、己を守る盾としての命令を残す為に分散させておいた番犬。しかしそれを俺が蹴散らし、結果として番犬を引かせたことで、アイリーンは残すはずだったわずかな護衛すら失った。だから一人では、不用意に出歩けなかった。
戦闘能力では父にも兄にも俺にも敵わない。アイリーンが猟犬として歴代最高と呼ばれない、女であるが故の弱点。アイリーンでは、剣を携えた男の刺客を撃退できない。
刺繍を終えてレーヴェの部屋から私室へ戻るまでのわずかな時間。その間に刺客が手を出さなかったのは奇跡と言える。
「叔父さま、ごめんなさい」
「第一王子は討たれ、王位争いは第二王子が制して幕引き。あとは親善試合を口実に迎えに来る旦那がお前を連れて帰れば、お前側は全て片付く。王都に滞在中の第三軍は丸ごとお前の護衛に回してやる。他の仕事は別に振り分ける。旦那が来るまでせいぜいしっかり守られてろ」
「ねえ、叔父さま。どうするつもりなの?」
「お前と、お前の国の問題は片付いたろ。あとは俺と奥方の問題だ。夫婦の問題に口出しすんな」
穏健派の第二王子はこちらを友好国として捉えている。戦争の心配もなく、これまで通りの関係を継続するというのなら、わざわざ攻め滅ぼす理由はない。兄上の了承があるのなら、俺の一存で事を治める。いつまでもこんな些事に付き合ってられるか。国家の問題はこれで終いだ。
アイリーンには無茶の理由を吐かせる。鼠は殺す。自己犠牲を貫きたいというのなら、責任取ってさっさとくたばってもらおうじゃねえか。
「で、でも第三軍は――」
「たまたま第三軍に所属していた馬鹿が、愛を理由に暴走しただけだ。馬鹿の為に我が国の貴重な戦力を削れるかよ」
都合の良いことに、死体で見つかっても問題ない理由がある。
「将軍と約束したからな。骨は故郷に帰してやるさ」
愚かな嘘吐きには、抱いた理想に殉じて迷宮の犠牲となってもらおう。




