第28話 笑
輔薬のすり替えを確かめてから、林瓶は二日ほど穏やかな日々を過ごした。
もちろん、気を抜いていたわけではない。胸の内には、確かな収穫がある。問題がどこにあるのかは掴んだ。誰の仕業かも分かった。次にどう動くべきかも、もう腹の中では決まっている。あとは頃合いを見て謝臨平のもとへ行き、証拠を机の上に並べるだけだった。
とはいえ、届けるべき物資は届けなければならない。宗門が、お前の薬の調査が終わるまで待ってやろう、などと言ってくれるはずもない。薪は焚かなければならない。糧食も運ばなければならない。玄女峰の古びた窓の蝶番も、取り替える必要がある。
今日の届け物は、窓の修理に使う精鉄の棒だった。
林瓶は鉄棒を束ねて背負い、山道を玄女峰へ向かった。
冬の山道は、いつもより静かだ。寒さのせいで、外を歩く弟子も少ない。ただ、風が葉を落とした枝を吹き抜ける音だけが、低く響いている。林瓶は歩きながら、頭の中で輔薬の証拠をもう一度整理した。どこを問い詰められても崩れないよう、一つひとつ確かめる。
玄女峰の麓に着くと、鉄棒を置き場に下ろした。
きちんと積み上げてから、林瓶はその場に数秒立ち尽くす。
もう下りるべきだ。
だが、足が動かなかった。
やがて林瓶は振り返った。山を下りるのではなく、脇の小道へ足を向ける。はっきりした理由はない。ただ――せっかくここまで来たのだから、もう一度、彼女の顔が見たい。そんな気持ちが胸をよぎっただけだ。
林瓶は殿の脇を回り、回廊のほうへ向かった。前に唐執事がここから奥へ通してくれたのを覚えている。廊下はしんと静まり返っていた。木枠の窓から差し込む日差しが、床に幾筋もの光の帯を落としている。
しばらく歩いても、人の気配はない。
さらに数歩進む。
中庭も空だった。銀杏の裸枝が、風にかすかに揺れている。
彼女はいない。
林瓶は立ち止まり、引き返そうとした。
そのとき、前庭のほうから足音が聞こえた。
唐執事の、あの落ち着いた足取りではない。もっと軽い。どこかためらうような歩き方だ。
角を曲がると、彼女が殿の入り口の石段に立っていた。山道のほうを向き、何かを窺うように眺めている。
ふいに風が吹いた。
衣の裾がかすかに翻る。その一瞬、林瓶の視線は無意識に彼女の腰元へ落ちた。
玉の色が、わずかにのぞく。
縁には、半輪の合歡花の紋様が彫られていた。
風が過ぎると、裾は元に戻り、玉は隠れた。ほんの一瞬のことだった。自分が本当に見たのか、疑いたくなるほど短い。
だが、林瓶は確かに見た。
顧青煙の手にあった、あの玉とよく似ている。どちらも半輪の花だ。ただ、玄霜のほうがさらに出来がいい。線がくっきりしている。まだ佩かれたばかりの、新しい品のようだった。
林瓶はその光景を胸の内にしまい込んだ。
問いかけはしない。
二人は同時に、互いの存在に気づいた。
玄霜の手が空中で止まる。まるで扉を押し開けて外へ出ようとしていたところへ、林瓶がこの方角から現れるとは思っていなかったかのように。林瓶もまた、その場に立ち止まった。中庭を隔てて向かい合う。どちらも、すぐには口を開かなかった。
数息ののち、先に沈黙を破ったのは玄霜だった。
差し出しかけた手を引き戻し、睫を伏せる。
「もう、帰ったのかと思ってました」
林瓶は答えた。
「……今、帰ろうとしていたところだ」
一呼吸置いて、さらに一言つけ足す。
「通りすがりだ」
玄霜は顔を上げ、林瓶を見た。ただ、その「通りすがり」が言い訳だと知っていて、あえて指摘しない眼差しだった。
――
林瓶がその場で、この「通りすがり」をどう取り繕うか考えていると、玄霜のほうも、二人そろって黙ったまま立っているのが妙に気まずいと気づいたらしい。彼女はうつむき、手に持っていた銀杏の葉を指先でひとつ転がした。それから口を開く。声は前より少し穏やかだった。
「この前、あなたが言ったあの句――『夢入江南煙水路、行尽江南、不与離人遇』(江南の煙る水の道を夢に見る……江南を巡り尽くしても、想う人には逢えない……)。暗記しました」
林瓶は頷いた。
何を言えばいいのか、まだうまくまとまらない。だが玄霜は、そのまま先を続けた。
「『睡裡消魂無說処』(眠りの中で消え入る想い、語る術もない……)……次の句は、何ですか?」
林瓶は一瞬、虚を突かれた。自分で先へ進んでいるのだ。
少し考えてから、続きを口にする。
「『覚来惆悵消魂誤』(目覚めればなお切なく、消え入る想いに悩まされる)」
林瓶の胸の内で、その一節がわずかに響いた。
玄霜は指のあいだで葉をもう一度転がし、低く繰り返した。
「覚来惆悵消魂誤……」
そして顔を上げる。
その口元が、ふっと動いた。
前回の、あの試すような、ぎこちないわずかな動きではない。
本物だった。
浅い。けれど確かに、満ち足りたものがにじむ笑顔。
それはほんの一瞬のことだった。まるで、この表情を長く保つやり方を忘れてしまったかのように。一度笑ったあと、口元を戻す速さが少しだけ遅い。どれくらいの速さで引っ込めるのが自然なのか、自分でも分からなくなっているようだった。笑みに引かれた彼女の肌は、やわらかな白さを帯びている。青白さではない。上等な羊脂玉を長く手のひらで包んだあとに宿る、あの内側からにじむような温かな白さだ。
林瓶はその場に立ち尽くしたまま、その笑顔を見ていた。
身体が凍りついたようで、動けない。
澄みきったその瞳が、ほんの少しだけ弧を描く。
まるで、千年雪をいただく峰に、初めて朝日が差し込んだようだった。雪は溶けない。だが、光がその上に落ちた瞬間、山全体が輝きを帯びる。
そして玄霜は顔を上げ、林瓶を見た。
林瓶は気づく。彼女の目が、前より少し違う。
瞳の色が変わったわけではない。だが、かつてその上に薄くかかっていた靄が、いくらか晴れたように見えた。視線が林瓶の顔に留まる。その目には光がある。日差しの反射ではない。目そのものの奥から透けてくる光だ。まるで澄んだ水の底から、何かが静かに湧き上がってくるようだった。
玄霜は一瞬ためらい、それから胸の中で何かを決めたように言った。
「昨日、もう一首見つけたんです。あなたが前に言ったのより、少し短いんですけど」
彼女はうつむき、手の葉を見つめながら、静かに詠んだ。
「『誰道閒情拋擲久?每到春来、惆悵還依舊。』(誰が言った、無聊の想いは捨て去ったと?春が来るたび、もの悲しさは相変わらず。)」
そこまで口にして、少しだけ止まる。記憶の奥から次の句を引き上げようとしているようだった。
やがて続きを紡ぐ。声はさっきより小さい。だが、一音一音をいっそう丁寧に、噛みしめるように。
「『日日花前常病酒、不辭鏡裏朱顔瘦。』(日々花の前で酒に醉い、鏡の中のやつれた貌も厭わない。)」
詠み終えると、玄霜は顔を上げた。
その表情には、わずかな不安が混じっていた。林瓶の評価を待っているようでもあり、自分が間違えていないか怯えているようでもある。
林瓶は黙って彼女を見つめた。
詞を詠むあいだ、彼女はずっとうつむき、葉を見ていた。声は小さい。けれど、少しも曖昧ではない。どの一文字も、はっきりと噛みしめるように発している。それは幼いころから読み方を教わり、きちんと教養として身につけてきた者の習いだった。
林瓶は言った。
「よく選んだ」
玄霜はうつむいた。
口元がもう一度、わずかにほころぶ。
さっきよりさらに小さな笑み。けれど、認められたことへの嬉しさが、ほんの少しにじんでいた。まるで胸の内でそっと頷いたように。
――
二人のあいだに、また数息の沈黙が落ちた。
林瓶が、どう話をつなげば自然か考えていると、玄霜が不意にくるりと背を向け、殿の中へ入っていった。
林瓶は一瞬、呆気に取られる。
もう戻ってしまうのかと思った。
だが、しばらくして彼女は再び姿を現した。
手には、粗い陶器の小さな植木鉢を抱えている。
植木鉢は、前に中庭で見たときより少し様子が変わっていた。あの蕾の先が、以前より赤みを増している。ゆっくりと、少しずつ押し上げられているようだ。鉢の縁に入った細かなひびはそのまま。下に敷かれた古布は洗われて、きれいになっていた。
彼女はその植木鉢を、林瓶の前に差し出した。
視線は蕾に落ち、それから顔を上げて林瓶を見る。
その表情には、隠しきれないほど小さな得意げさがあった。何かを――誰かに見せるだけの価値があるものを――ちゃんと育て上げた子どものような顔だ。
「大きくなってるんです」
彼女は言った。
「きれいですか?」
林瓶は目を落とし、その蕾を見た。
固く閉じた蕾の先だけが、ほんの少し薄紅をのぞかせている。まるで、自分が咲くべきかどうか、まだ迷っているようだった。
林瓶は、もう一度玄霜を見る。
彼女は返事を待っていた。
冬の日差しが彼女と手の中の植木鉢に降り注ぎ、わずかに上向いた顔を照らしている。目は前よりずっと明るかった。まるで水面が風に揺れ、その底に沈んでいた光がふいに見えたように。
――君のほうが、きれいだ。
そう言葉が胸の奥に浮かぶ。
だが、口には出さない。
ただ頷いて、言った。
「うん。前より、ずいぶん元気になったな」
玄霜はうつむいた。
その数語を、大事に胸の内へしまい込むような仕草だった。
彼女は植木鉢を静かに回廊の欄干に置き、指先で鉢の縁のひびをそっとなぞる。それから手を引っ込め、もう何も言わなかった。
――
林瓶は、自分がどうやって山を下りたのか、よく覚えていなかった。
石段を下りる途中、緩んだ石板に足を取られ、よろめいてようやく体勢を立て直す。
だが、その石板を見ようともしない。
頭の中は、さっきの光景でいっぱいだった。
彼女が殿の入り口に立っていたこと。手に銀杏の葉を握っていたこと。日差しがその身に降り注いでいたこと。そして、彼女の口元が、たしかに弧を描いたこと。
胸の奥が、かすかに震えた。
あれは愛想笑いではなかった。
内側から芽吹いた笑みだった。
その弧は小さく、ほとんど見落としてしまいそうなほどかすかだった。けれど、長いあいだまったく使われていなかった顔にとって、その一度のわずかな動きは、長く閉ざされていた扉が初めて少し開いたような、そんな一瞬だった。
石橋を渡るとき、林瓶はもう一度だけ振り返った。
玄霜はまだ回廊の端に立っていた。遠く、冬の日差しの中で、小さな白い点のように見える。まだ中へは戻っていない。林瓶が振り返ったのに気づいても、彼女は目をそらさなかった。ただそのまま、そこに立っていた。手のそばには、あの植木鉢がある。
林瓶は前を向き直り、歩き続けた。
足取りは、来たときより少し速い。
しばらくして、林瓶はふと自分の手を見下ろした。
さっき植木鉢を受け取ったとき、指先が鉢の縁に触れた。あの温もりは、日差しで温まった陶器の熱だったのか。それとも、彼女の温もりだったのか。
そこまで考えた瞬間、足はさらに速くなった。
山道の曲がり角で、危うく誰かにぶつかりかける。
林瓶は慌てて足を止めた。
向こうも横に身を避ける。手に持っていたもの――《噐》が揺れた。
蘇晴だ。
彼女は灰がかった藍色の短衣を着ていた。袖口には墨の跡がついている。手には文字の書かれた紙束を握っていて、どこかへ急いでいる最中らしかった。
蘇晴は顔を上げ、それが林瓶だと分かると、まず一瞬きょとんとした。次いで、上から下まで値踏みするように見回す。視線が林瓶の顔で止まり、わずかに目を細めた。
「お前、顔、赤くないか?」
林瓶は一瞬、言葉に詰まった。
無意識に手の甲で頬に触れる。……熱い。
「……山の上の風が強くて、冷えただけだ」
蘇晴はじっと林瓶を見た。
その目には明らかに「嘘をつけ」と書いてある。
だが、追及はしなかった。手元の薬のメモに目を落とす。どうやら本当に急いでいるらしい。
「まあいいや。言わないなら聞かない」
そう言って林瓶の横を通り過ぎる。
二歩ほど進んだところで、また足を止めた。
振り返り、もう一言つけ足す。
「でもな、次から言い訳を考える前に鏡を見たほうがいいぞ。お前、顔が赤いときは耳の付け根まで赤いからな」
言い終えると、蘇晴はそのまま歩き去った。
足取りはせわしない。本当に帳簿の突き合わせに急いでいるようだった。
林瓶はその場に立ち尽くし、無意識に自分の耳に触れた。
……熱い。
手を下ろし、再び歩き出す。
玄女峰の地界を出るころ、林瓶はふと思う。
前世では、古詩を覚えるのは試験のためだった。
今世では――古詩を覚えるのは……
その先は、胸の中に押しとどめた。
口にはしない。
けれど、足取りだけは、来たときよりずっと速くなっていた。




