第1話 死
林瓶は死んだ。
それが、死体安置所にいる全員が知っている唯一の事実だった。彼は冷たい石板の上に横たわり、後頭部には目を覆いたくなるような裂傷があった。血痕はとっくに乾き、埃まみれの雑役服にこびりついていた。室内は薄暗く、戸口の脇の台に置かれた油灯が、吹き抜けの風に煽られて炎を揺らしていた。
疲れ果てた顔をした中年の雑役が横に蹲り、筆で何かを帳面に記している。書く速度は遅く、字も歪んでいた。どうやらこの仕事には慣れていないらしい。
「雑役・林瓶、不慮の墜死……」
一語一語、なぞるように口にする。「林瓶」という二文字に差し掛かったとき、一瞬、手を止めた。何か言いかけたが、結局首を横に振るだけで先を続けた。最後の字を書き終えると、しばらく迷った末に、もう一行書き足した。
「明日、内務長老に報告する。」
書き終え、帳面を閉じて立ち上がる。そして足元の死体を見下ろした。
月明かりが戸の隙間から一筋差し込んで、若い顔を照らし出していた。この雑役のことは知っていた。聚霊峰の方にいる者で、姓は林。普段はあまり喋らないが、仕事はきちんとやる。今朝も物資を担いで鎮獄峰の方へ向かうのを見かけた。そして、午後にはもう息絶えていた。
「お前なあ、ただの荷運びでどうやったらこんな死に方ができるんだよ。」
静まり返った死体安置所に声が響く。もちろん答えは返ってこない。返ってくるはずもない。林瓶は死んでいるのだから。
中年の雑役は溜息をつき、油灯を手に取って外へ向かおうとした。二歩ほど歩いて立ち止まり、振り返る。そして手を伸ばして、死体の乱れた衿をそっと直した。
扉が軋んで閉まった。足音が廊下の奥へと遠ざかり、やがて夜風に呑まれて完全に消えた。
死体安置所は、再び漆黒の闇に包まれた。
──
数刻前、林瓶はまだ生きていた。
正確に言えば、原身の林瓶は生きていた。彼は大きな荷物を背負い、山道を登っていた。足取りは軽やかで、呼吸も穏やかだ。太乙宗の雑役暮らしは確かに辛いが、もう慣れていた。朝早く起きて働き、荷を運び、修理をし、使い走りをする。疲れることは疲れるが、食事と寝る場所は保証されている。それで十分だ。
今日の仕事は、鎮獄峰への物資運びだった。鎮獄峰は宗門の最西端にあり、地形が険しい。普段は誰も近づかないが、執法長老の方から月初めに申請が来ていて、修理用の木材と縄が一式必要なのだという。内務長老謝臨平は申請書類をぱらぱらと捲り、林瓶を指名した。
「鎮獄峰の道は険しいから、気をつけろ。」
謝臨平はそう言ったきりだった。林瓶は頷いて引き受けた。深く考えない。雑役は上から指示されたことをやるだけで、理由を訊ねることは決してない。
山道は進むほどに険しくなった。鎮獄峰の外周の道は何年も手入れされておらず、潅木が道を呑みかけている場所もある。林瓶は枝をかき分けながら歩く。心の中で、早く届けて早く帰ろうと考えていた。しかし足元の道はますます悪くなる。小石が浮いていて、踏むたびにずるりと滑る。
潅木の茂みを回り込んだそのとき、耳に何かの音が触れた。一瞬気を取られ、足元が空いた。緩んでいた小石が体勢を崩させ、彼はそのまま斜面を転がり落ちた。潅木の枝が顔や腕を引っ掻き、埃が喉に詰まる。必死に手を伸ばして何かに掴まろうとする。辛うじて一筋の露出した木の根を掴み、ようやく落下が止まった。
荒い息を吐きながら、半ば崖にぶら下がる。灰色の短褐は岩に何箇所も裂け目が入り、腕が焼けるように痛む。見下ろすと袖が破れ、腕に幾つかの血痕。幸い浅い。
彼は悪態をつき、手足を使って這い上がろうとした。しかし顔を上げると、自分が一度も来たことのない場所に落ちていた。ここは潅木がさらに密で、空気に異様な匂いが混じっている。腐敗臭ではない。むしろ何年も陽の光を浴びていない石が発する、古びた閉塞感のようなものだった。
目の前の潅木をかき分けると、隠れた洞窟の入口が現れた。入口は小さく、蔦と岩に大部分が覆われている。たまたまこの角度に立たなければ、絶対に気づかない。入口の縁には、びっしりと紋様が刻まれていた。暗がりの中で、暗紅色の微かな光を放っている。陣法の痕跡だ。林瓶には意味が分からなかったが、触れてはいけないものだと直感した。鎮獄峰の奥には何かが封印されている。それは太乙宗の誰もが知る伝説だが、詳しく訊ねる者はいない。
彼はすぐにでも引き返すべきだった。
しかし入口には一筋の隙間があった。大きくはないが、人が首を横に向ければ中を覗ける程度の。あの奇妙な音が洞の奥から聞こえてくる。規則正しい、ゆっくりとした呼吸の音。それに混じる、鎖が時折ぶつかる微かな金属音。
林瓶の鼓動が速まった。去るべきだ。普段の彼なら、とっくに逃げ出していた。
だが、どういうわけか、足が地面に根を張ったように動かない。
彼の手が洞窟の壁に触れた。そっと頭を傾け、目を隙間に近づける。
洞の中は暗かった。しかし、息を数えるうちに目が慣れてくると、ぼんやりと人影が見えた。女だった。
洞窟の奥は冷え切っていた。
湿った岩肌の匂いに、錆びた鉄の臭気が混じる。
太い玄鉄の鎖が女の四肢を拘束し、岩壁へ縫い付けるように繋がれていた。
乱れた長髪が顔を覆い、その容貌は見えない。
だが。
彼女は彼を見ていた。
暗闇の中で。
まるで最初から、彼がここへ来ることを知っていたかのように。
「お前……雑役か?」
女が口を開いた。声は嗄れていたが、はっきりと聞こえる。
「伝言を頼みたい……」
林瓶の頭の中で何かが炸裂した。氷水を浴びせられたように全身が強張る。彼は勢いよく後退し、振り返って逃げ出そうとした。しかし二歩も出ないうちに、誰かにぶつかった。
その人物は顔を布で覆っていた。目だけが、異様にぎらついて露わになっている。
「何を見た?」
声は静かだった。まるで今日の天気を訊ねるような口調で。
林瓶は口を開きかけたが、頭の中は真っ白だった。
「……わ、わたし、道に迷って……」
彼はどもりながら言った。
相手は答えない。黙って林瓶を見つめている。その目には怒りも驚きもなく、ただ背筋を凍らせるような平穏があった。
「お前は、ここに来るべきではなかった。」
これが、林瓶が生きているうちに聞いた最後の言葉だった。
一掌。胸の正中に、掌打が叩き込まれた。
五臓六腑が砕ける感覚がした。彼の身体は、まるで糸の切れた凧のように吹き飛び、後頭部を鋭利な岩に激しく打ちつけた。激痛が一瞬だけ走り、そのあとはすべてが闇に没した。
彼は、自分が何を間違えたのか、死ぬまで分からなかった。
──
闇。
無限の闇。
そして痛み。後頭部を金槌で叩かれたように、ずきずきと波打つ。鼻腔には濃い血腥い匂い。身体は氷のように冷たい。まるで氷室から引き上げられたばかりのようだ。
林瓶は目を開けた。
いや、正確に言うなら、誰かが目を開けた。
自分は誰だ?
その問いが頭の中を三秒ばかり漂ったあと、怒濤のように押し寄せる記憶に呑み込まれた。
聚霊峰の朝靄。小蔡の笑顔。謝臨平の指示。物資を担いで山道を歩く自分。潅木。洞窟。あの女。そして、あの何でもないような一掌。
これらの記憶は、自分自身のものではない。しかし確かに自分の頭の中にある。誰かが一冊の本を丸ごと、無理やり彼の脳内に押し込んだようだった。読み解く暇はなく、まずは丸呑みにするしかない。
彼は数秒かけて、自分の状況を理解した。
原身は死んだ。自分は転生した。
この認識は、大きな感情の波を伴わなかった。おそらく痛みがすべてを上回っていたからだ。あるいは、まだ頭が完全に追いついていないだけかもしれない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
彼は記憶を整理し始めた。
「日常」の記憶——朝の仕事、小蔡の笑顔、謝臨平の指示——を一つの引き出しにしまった。
「異常」の記憶——潅木、洞窟、あの女、一掌——を別の引き出しに置いた。
そして「疑問」——なぜ物資の運搬で死ななければならなかったのか。あの洞窟にいた女は誰か。顔を布で覆った男はなぜ言葉もかけずに殺したのか——を、最後の引き出しにしまった。
今は答えを出せない。だが、これらの質問を忘れはしない。
彼にはただ一つのことだけが分かっていた。自分は冷たい石の上に横たわり、後頭部が激しく痛み、周囲は漆黒で、外では誰かが歩き回っている。
足音が近づいてくる。
林瓶は本能的に目を閉じた。全身の力で呼吸を制御し、胸の上下を最小限に抑える。扉が軋んで開かれ、誰かが顔を覗かせた。先ほどの中年の雑役だ。手に油灯を掲げている。彼は灯りを石板のほうへかざし、林瓶がぴくりとも動かず横たわり、血色が完全に失せているのを確認した。
「……完全に死んでるな?」
「息はもうありません。検めました。」
「ならいい。明朝、葬りの手配をする。」
扉が閉まる。足音が遠ざかる。石室は再び死の静寂に包まれた。
林瓶は闇の中で目を開けた。大きく息を吸い込み、心臓は太鼓のように打ち鳴っている。後頭部の痛みが波のように押し寄せる。指を動かしてみる。動く。しかし右腕全体が鉛を詰められたように重い。
ここを出なければならない。夜明けまでに。
しかし身体を起こそうとしたそのとき、まだ戸の外で足音がした。今度の足音はより静かで、よりゆっくりと、意図的に音量を落としているようだった。林瓶は再び緊張し、目を閉じ、呼吸を限界まで潜める。
扉が開かれた。
先ほどの雑役ではない。
来たのは灰色の道袍を着た、痩せた男だった。白髪が混じっている。顔は油灯の明かりの中でぼやけてよく見えない。彼は石の床のそばに立ち止まり、動かずに、ただ林瓶を見下ろしていた。
林瓶は目を開けられない。しかし、その人物の視線を肌で感じた。
しばらくして、その男は手を伸ばした。二本の指を、林瓶の首筋に当てる。
冷たい指だった。指先には、かすかに硬い胼胝があった。
二本の指は、数呼吸のあいだ留まり、そして離れた。
「……やっぱり、生きてたか。」
声はとても軽かった。林瓶には、それが誰か分かった。
内務長老——謝臨平だ。
謝臨平は去らなかった。その場に立ち止まったまま、何かを考えているようだった。石室は静まり返り、油灯の炎が時折パチパチとはぜる音だけが聞こえる。
しばらくして、彼の声が響いた。とても低い声で、独り言のように。あるいは死体に話しかけるように。
「小僧……お前とあの女は、いったいどんな関係なんだ……」
その声は、まるで溜息のようだった。
「鎮獄峰の下にいる御仁だぞ……誰にでも関係を持てる相手じゃない。」
また沈黙が降りる。そして、いくつかの単語がぼんやりと漂ってきた。断続的で、水に遮られたように聞こえる。
「前任の……玄……知ってるのか?」
あとの言葉は聞き取れなかった。林瓶の意識は深い泥の中に沈み込もうとしていた。痛みと失血で、思考は沼のように絡みつく。あの言葉は耳に入ったが、脳に届く前に闇に飲まれた。
だが、その直前——林瓶の意識のどこかが、その単語を掴んで離さなかった。
「玄」。
それが何を指すのかは分からない。人名なのか。称号なのか。何かの略称なのか。判断する材料は何もない。しかし彼は、その一文字を「疑問」の引き出しにしまった。忘れないために。
やがて、謝臨平の声がもう一度聞こえた。
「……なら、死ぬなよ。」
彼は振り返らずに外へ出た。すぐに、二人の者を連れて戻ってきた。その二人の雑役が、林瓶が目を開けて石の上に横たわっているのを見て、悲鳴を上げそうになった。謝臨平の一瞥で押し殺された。
「雑役房に送れ。崖から落ちて、丸一晩昏睡して、さっきやっと目を覚ました、ということにしておけ。」
二人の雑役は顔を見合わせたが、素直に林瓶を担架に乗せた。
林瓶が持ち上げられたとき、後頭部が石板に触れて痛みが走り、思わず呻き声が漏れた。彼は横を向いて謝臨平を見る。あの長老は戸口のそばに立っていて、その影は油灯に照らされて異様に高く、細く見えた。表情は読み取れない。
謝臨平は彼を救った。なぜだ?
この問いは林瓶の頭の中をぐるぐると巡りながら、雑役房に運ばれ、自分の寝床に置かれ、薄い布団を掛けられるまで、答えが出ることはなかった。
しかし一つだけはっきりしていることがある。
彼は生き返ったのだ。
何があったにせよ、謝臨平がどんな理由でそうしたにせよ、彼はまだ生きている。
彼の頭の中にはもう一層、ぼんやりとした、この世界のものではない記憶があった。灯火で明るく照らされたトレーニングジム。マットの上で組み合う人影。汗とゴムの匂いが混ざった空気。そして深夜まで残業するパソコンの画面。コーヒーカップの底に残った茶色い跡。そのあとは空白。
あれは誰だ。自分か。自分の名前は。何をしていたんだ。
分からない。
しかし自分が今は林瓶という名前で、太乙宗の一人の雑役であり、誰かに一掌で打ち殺され、そして目を覚ましたことだけは分かっている。
自分が幸運なのか、不運なのか、彼には判断できなかった。
だが生き返ったのなら、まずは生き延びよう。
生き延びて、答えを探せ。




