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睡蓮ー千年に一度のバキュラ編ー

お部屋の空気が張り詰めている。

まるで何か重いものが天井から吊られているような、息の詰まる沈黙。


雪子は、静かに義徳を見た。

その視線には、迷いと恐れと断ち切れない過去が重なっていた。


義徳は、真正面に座っていた。

震える膝を押さえ込むように両手を太腿に置いている。

それでも目だけは逸らさずに、母をじっと見ていた。


『私からお願いがあります』


その声は、驚くほど静かだ。

だが、部屋中に鋭く響くような、ずっしりとした重みがあった。


『お母さんの出産に立ち会わせてください』


雪子の眉が動いた。

すぐには答えない。答えられない。

その申し出が、どれほど重たいものか知っているから。


雪子は、ゆっくり口を開いた。


『あなたは男の子やから出産の立ち合いは無理やに』


その言葉は、まるで冷たい水をぶつけるようだった。

しかし、それは母なりの精一杯の優しさでもあった。

苦しませたくない。そっとしたい。

そして、何よりも自分の罪から逃れたい。


義徳は目を伏せた。

しかし、次の瞬間、静かにその身を畳み、両手を床についた。


そして、額を畳に強く押しつけた。


『……お願いします』


それは、小さな身体にしてはあまりにも痛々しい土下座だった。


誰も動けなかった。


雪子も、悠希も、勇武も。

何かが破壊する音だけが胸の中に響いていた。


一分、五分、十分と、時計の針が苦しげに進んでいく。

義徳は、その姿勢を崩さなかった。

床にこすれる額。

指の先が震えている。

声ひとつ漏らさない。


悠希が立ち上がった。


『もう……、やめさしてや…。こんな小さな子に……』


しかし、誰も止められなかった。

止める事が義徳の覚悟を否定するように思えたからだ。

義徳は何を言われても、頭を下げ続けていた。


二時間が過ぎた。


悠希が義徳の肩にそっと手を置いた。


『もう、ええ。立って、義徳。……!!!』


その瞬間、義徳の身体がびくりと揺れた。

全身が、震えていた。

小刻みに、ずっと我慢していたように。


悠希は思わず、その小さな背中を抱きしめた。


(こんなになるまで……この子は……)


抱きしめた腕に、子供の痩せた背中の骨が突き刺さるように感じた。

熱も、呼吸も、命も、全部がこの腕の中で震えていた。


怒りが、こみ上げた。

過去に対する怒り。

兄と雪子に対する怒り。

そして、自分への怒り。


それでも悠希は自分の中で膨れ上がる怒りを飲み込んだ。

そして、深く息を吐いて静かに雪子の方を向いた。

言葉の端に滲む、怒りとは違う熱。

悠希は、震える声で言った。


『雪子、勇武。私たちの間では和解した過去や。せやけどな…、この子にとって、まだ終わっとらん過去なんやで。それでも、今こうして頭を下げて、土下座して、命が生まれる瞬間を見たいって言うとる。なら、私が言う。立ち会わしてやれ。これは命乞いとちゃう。命を見つめたいっていう命の叫びなんや。この子が今日という日を迎えられたのは奇跡やに。だから私は、叔父として、この子の願いを認める』


雪子は、俯いた。

その肩が、わずかに揺れていた。

掠れた声で、ようやく絞り出す。


『でも……、これから産まれてくる子が、もし、異父兄弟だって、気づいてしもたら、なっとするの?』


雪子の言葉は震えていた。

それは母の叫びでもあり、逃げたい過去の鎖でもあった。


義徳はゆっくりと顔を上げた。

瞳は静かだ。

まるで、すべてを飲み込むような光が宿っている。


『……いずれ、気づく時が来るでしょう。隠しても、いつかバレます。そのときが来たら、私と一緒に、全員で覚悟を決めてください。泣いても、逃げても、言い訳しても、その命に対して責任を取るのは当たり前です。一番の被害者は、私でも、あなたでもありません。これから生まれてくる子です。それだけは、どうか、忘れないでください』


言葉が、空気を切り裂くように部屋に響いた。

その場にいた誰もが、何も言えなかった。


すると静かに勇武が、ゆっくりと義徳の横に膝をついた。

そして、額を畳につけて、深く土下座した。


『……義徳……ごめん。義徳の人生を…命を……こんなふうにして、ほんまにごめん……』


その姿は、父としての誠意だった。


『そう言えば楽でしょうね……。しかし、周りから許してあげたらなどと責められたとしても、私の弟が許さない限り、私はあなた達を許しません。私がここで許してしまったら、弟が一人ぼっちになっちゃうから……』


義徳は力強く、そう言った。

勇武は、義徳の言葉を受け止め、頷いた。

そして、勇武は雪子に頭を下げた。


『私からも頼む。義徳にとって雪子の子は弟や。その命を迎える瞬間を兄として見届けさしたってや』


悠希は、勇武の背中を見つめた。


これまで笑顔で迎えてきたが、本心では何年も、何十年も許せなかった兄。

その背中が、こんなにも小さく、弱く、切実に見えたのは初めてだ。


そして、氣づいた。


(そうか……、私はずっと、雪子とお兄ちゃんの過去ばっか心の中で責めて続けとった。せやけど、お兄ちゃんも、もうずっと自分の罪と向き合い続けとったんやな……)


悠希の目から、ひとすじの涙が零れた。


その瞬間、自分の中で何かが崩れていくのを感じた。


許したわけじゃない。

でも、過去に縛られ続けるのをやめたかった。


雪子は、その場に崩れ落ちた。

そして、震える声で言った。


『……そやかて……そやかて、あかん……、お断りします……』


その声には、母としての恐れと、自分自身への赦しのなさが混ざっていた。

そして、雪子は立ち上がり、義徳と勇武を家から追い出そうと背中を押した。


『出ていきなさい』


その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凍った。


義徳と勇武は、黙って頭を下げ、立ち上がり、雪子に頭を下げて部屋を後にした。

背中を見送る雪子の手が、わずかに伸びかけたが、何も言えず、何もできず、ただその場に膝をついた。


その後、義徳と勇武は二人で静かに帰った。

そして電車が止まり、朝熊駅のホームに義徳と勇武の二人だけが降り立った。


無人の駅。

誰もいない、風の音だけが通り過ぎていく。

秋の夕暮れが始まりかけている。


二人とも、何も話さなかった。

車内でも駅に着いてからも無言で歩き続けた。

言葉を交わすのが怖いのではなかった。

言葉よりも深く、胸の中に澱のように溜まった何かが互いに見えていたからだ。


そして二人は山を登り始めた。


足元の落ち葉が乾いて、踏むたびにカサカサと音を立てる。

木々の間から斜めに差し込む光が、二人の影を伸ばした。


途中、ふと、義徳が足を止めた。


目の前には、今はもう使われていない、かつてのケーブルカーの跡。

剥がれた鉄のレールの名残。

戦争中に供出された金属の影。

斜面に立ち尽くす、ひしゃげた架線柱。


まるで、自分のようだと改めて感じた。


どこかで誰かの都合によって、勝手に奪われて、ねじれて、置き去りにされた。


それを見つめながら、義徳は小さく呟いた。


『お父さん……』


勇武は振り返った。

声は小さかったが、その震えが耳に痛いほど響いた。


『お父さんは……、私のこと、好き?』


父は一瞬、立ち止まった。

夕陽のオレンジが、木々の隙間から差し込んでいる。


風の音。

鳥の羽ばたき。

木々のざわめき。


それらすべてが、一瞬、静まったような氣がした。


勇武は、ゆっくりと義徳に歩み寄った。

その瞳に、何かを決めたような光があった。


そして、低い声で言った。


『当たり前やろ』


その瞬間だった。


義徳の身体が、小さく揺れた。


目を見開いたまま、何かが堰を切ったように涙が溢れた。

声にならない嗚咽。

顔をくしゃくしゃにして泣いた。


泣いて、泣いて、泣いて、叫んだ。

ただ黙って、父の前で子どもとして泣いた。


誰もいない山の中で、誰にも見られることのないその涙は、もしかすると、義徳が生まれて初めて見せた子どもの姿だった。


勇武は何も言わなかった。

ただ傍に立ち、少しだけ離れて見守っていた。


『ほんまに好きなん?私は、お父さんの子供として生きてええんやんな?』


しゃくりあげながら、絞るように問う義徳。

父は一歩近づき、義徳を抱き上げた。


『好きや。好きに決まっとるやろ』


『ずっと、道具みたいで……ずっと、誰にもおらんって言われとる気ぃしとって……』


『そんなん、絶対にない。義徳は私のたった一人しかいないかわいい息子や』


その言葉が、義徳の胸の奥に深く深く届いた。


夕日が赤く、世界を染めていた。

まるで、その瞬間だけが、永遠のように感じた。


泣き止むまでに、父は義徳を優しく包み込むように抱きしめていた。

義徳は何度も涙をぬぐい、深呼吸を繰り返した。


義徳が顔を上げたそのとき、父が静かに言った。


『こっち乗ってみ』


そう言って、勇武は背をかがめ、義徳を肩に乗せた。


『わぁ!』


一瞬驚いたが、すぐに義徳は肩車の形で高く持ち上げられた。


見たことのない高さ。

地面が遠い。


そして、目の前が開けた。


山を少し登ったその場所からは、伊勢湾が一望できた。

夕日に照らされた海が、静かに揺れている。

小さな漁船が、帰港する灯を灯して、ゆっくりと滑っていく。


『きれいな景色……』


義徳は思わず、声を漏らした。

初めて見た世界だった。

今まで下から見上げることしかできなかった風景。

それが今、父の肩の上で自分の目で、まっすぐに見ている。


『きれいやんな』


風が、頬を撫でた。

そのとき、義徳の中に、確かな決意が生まれた。


『絶対にお兄ちゃんになる』


小さな声だったが、その言葉には確かな重みがあった。


『泣いても、嫌われても、逃げられても。私は兄として、この命を守る。あの子が背負わんでええ苦しみは、全部私が背負う』


勇武は静かに、その言葉を受け止めた。

そして、そっと、肩の上の義徳の足を支えながら、静かに歩き出した。


『お父さん、おろして。もう景色おしまいだよ?』


『ええやんか、もう少しこのままで歩かしてや』


『うん……』


木々の向こう、夕陽がゆっくりと沈んでいく。


それは、何かが終わっていく夕陽ではなく、

ようやく始まりを迎える、小さな命の夜明けのようだった。


家に着くと、空はすっかり夜になっていた。


星がきらきら光っている。

窓の外は静かで、虫の音すらどこか遠く感じた。

もう季節はすっかり秋の深みに足を踏み入れていた。


家の中に入ると、父は無言で台所に向かった。

義徳は少し遅れて、その背中を追った。


『今日、湯豆腐食べる?』


義徳は、小さくうなずいた。

心の奥にまだ温もりが残っていた。

父の肩の上から見た海と、あの夕陽の残像。


そして、父の言葉。

“好きに決まっとるやろ”


義徳の中に、ゆっくりと光が灯り始めていた。


父が土間の棚から土鍋を取り出す。

古いが、ピカピカに磨き上げている鍋。

ずっと使い続けてきている思い出の深い鍋だ。


『ええか、まずは昆布や。水のうちに入れとくんや』


『どうして?』


『沸かしたらダシが濁るで』


勇武がそう言いながら、大きな手で昆布を鍋に沈める。


『これで、一時間くらい寝かせる。……今日は時間ないから、ちょっと短めやけどな』


義徳は横で真剣にメモをとりながら見ていた。

心の中では何かがじわじわと満ちている。


『湯豆腐って、なんで豆腐なん?なんで、わざわざ煮るん?』


『なんにも、ないからやに。余計なものがない。それがええんや。心がくたびれた時はなぁ、優しいものが一番沁みるんやに』


その言葉に義徳の胸の奥が静かに震えた。


勇武が包丁を持ち、豆腐を丁寧に切っていく。

まるで、何か大事なものを触っているような手つきだ。


『こうやって、ゆっくり切るんや。強う押したら崩れる。人間も、豆腐も一緒や。強う触ったら、みじゃける』


義徳は、その言葉をずっと忘れない氣がした。


鍋に湯が立ち、豆腐を入れる。

小さな泡が静かに、豆腐のまわりで踊っていた。


薬味は、すだち。

ポン酢の器が二つ、食卓に並んでいる。


小さなちゃぶ台の上に、湯気が白龍のように立ちのぼった。

勇武が、土鍋をちゃぶ台の真ん中に置いた。


義徳は合掌してから、そっと箸で豆腐をすくう。

ふわりと崩れそうな、それをそっとポン酢にくぐらせて、口へ運んだ。


やさしい。

そんな味がした。

あったかくて、ほっとして、胸の中の何かがすっとほどけていくようだ。


『おいしい』


小さくそう言うと、勇武は笑顔で答えた。


『天ぷらも食べてな』


二人は、しばらく黙って庭の景色を眺めながら湯豆腐を食べた。

時間が、ゆっくりと流れている。

外は真っ暗で、風が木々を揺らす音だけがかすかに聞こえる。


家の中には湯気と、豆腐の温もりと、父と息子が少しずつ歩み寄っていく音があった。


それは、あまりに静かな夜だったが、義徳の心の奥には、確かに何かが温かく燃えていた。


『お父さん』


『なぁに?』


『また、今度作ってくれる?』


勇武は箸を止め、ちょっとだけ驚いた顔をしたあと、静かにうなずいた。


『ああ。お前が望むんやったら、なんべんでも作る』


義徳は小さく笑った。


『次は私も作りたいなぁ』


『一緒に作ろうか』


『うん』


二人は、またひと口ずつ、湯豆腐を口に運んだ。

その温もりが、言葉よりも多くを伝えてくれる夜だった。


夜の空気は透き通るように澄んでいる。


金剛龍寺の裏手にある、誰もいない山の丘。

夜の冷たい風が草を揺らし、木々の間をすり抜けていく。


義徳は一人、空を見上げていた。


挿絵(By みてみん)


父と一緒に作った湯豆腐の温もりは、まだ胸の奥に残っている。

だが今は、自分の足でこの宇宙を見て、何かを掴まなければならない夜だった。


空には星が、こぼれるほどに瞬いている。


その中に、今夜だけの特別な光があった。


静かに尾を引いて横切る、一つの彗星。

レモン彗星。

千年に一度、地球のそばをかすめるという神話のような存在。


その尾は淡い黄金色をしていて、まるで誰かの祈りを引きずって流れているようだ。

義徳は、何も言わず、それを見つめていた。


すると、その彗星のすぐ近くに無数の閃光が夜空を駆け抜ける。

オリオン座流星群。

ひとつ、またひとつ。

まるで、夜空が義徳の魂に言葉を送ってくるように静かに激しく落ちてくる。


その光を見ながら、義徳はゆっくりと合掌した。


『どうか……生まれてくる弟が、自由に生きられますように』


これは願いごとではない。

それは、命への祈りだった。


その瞬間。


彗星の尾が、突如として強く輝いた。


金色の光が夜空を裂き、空間が静かに歪む。


義徳の目の前に光の中から、ひとつの影が降り立った。

風も止まった。


時間が止まったかのように、すべてが凍りついた中に、ただひとつだけ動く存在がいた。


純白の透けるような衣を纏った、緑色の長い髪の姿から猫のような巨大なものに変化した。

その顔は、人とも、どうぶつともつかない。

どこか懐かしさと慈愛に満ちた表情をしている。


星の神。

光の意志。

人間が千年に一度、ほんのわずか触れる事を許された宇宙の意識。

千年に一度だけしか現れない三光明星神バキュラだ。


三光明星神バキュラは、義徳に近づくと何も言わず、その頭にそっと手を置いた。

その瞬間、義徳の胸の中で、何かが静かにほどけていくのを感じた。


怒りも、悲しみも、孤独も。

すべてが、あたたかな何かに溶けていく。


その手は、母の手のようでもあり、

星の光のようでもあった。


三光明星神バキュラは口を開かず、義徳の心に直接語りかけてきた。


“お前は、光を連れて歩く者。

見えぬ命の重みを知ったお前は、これから生まれる者たちの道標となる。

孤独を知った者だけが、他者に寄り添える。

怒りを知った者だけが、赦しを理解できる。

自分が選んだ道を進むといい。

星々は、お前のその一歩一歩を見ている。”


義徳の目から、ひと粒の涙がこぼれた。

それは哀しみの涙ではなかった。


生きていてよかった。


心から、そう思えた涙だった。

三光明星神バキュラは、義徳の額にそっと触れ、夜空へと舞い戻っていった。


挿絵(By みてみん)


その姿は、レモン彗星の尾と一体になり、再び宇宙の彼方へと還っていった。


そして、流星群の光も、次第にその数を減らし、夜空はいつもの静けさを取り戻していく。

義徳は、仰向けに寝転び、深く息を吐いた。


『ありがとう』


そう、つぶやいた。


誰に届くでもない言葉が空に星に、そして自分に確かに届いた。

義徳は静かに家に帰った。

その晩、義徳は父に叱られた。


『どこに行っとったんや!事件に巻き込まれたんとちゃうかって心配したに!勝手に家から飛び出して、誰かにさらわれたりしたらなっとするんや!』


『オリオン座流星群が見とうて…』


『先に言うてや。言うてくれたら天体望遠鏡を持って一緒に行ったのに』


『ごめんなさい…』


義徳は、小さくうなずいて謝ったあと、

勇武はしばらく黙っていた。

怒りを鎮めたあとの呼吸だけが部屋にゆっくりと溶けていく。


やがて、勇武が立ち上がり、押し入れの奥をゴソゴソと探り始めた。

出てきたのは、天体望遠鏡だ。


『よう考えたら、今年はレモン彗星とスワン彗星も出とるって言うとったな。せっかくやで、行こか。見に行こう』


『やったぁ!』


『さぶないように上着着よう。そうや!ぬくたいお茶とどら焼きも持ってこう!』


ほんの少し、義徳の表情が和らいだ。

それを見て、勇武も口の端をほんの少しだけ上げた。


外は冷えている。

空は澄み、吐く息が白く浮かぶ。


ふたりは寺の裏山を抜けて、懐中電灯を照らしながら小高い見晴らしの良い丘へと向かった。

足音だけが、湿った落ち葉の上でサクサクと響く。


丘の上には誰もいない。

これを貸し切りブラボーという。

冷たい空気と静寂だけが広がっている。


勇武は手慣れた様子で三脚を立て、天体望遠鏡を組み立てた。


『これは義徳が3歳の頃に買うたやつやに。覚えとる?』


『覚えとるに。誕生日の晩、一緒に星を見にここに来たやんな』


『その頃はなぁ、星座を覚えるのに必死やったなぁ』


勇武は小さく笑った。

義徳はじっと空を見上げた。


オリオン座の星が、まっすぐに空を貫いている。

その脇を、小さな尾を引く光がすーっと流れていく。


『流れ星や!』


『お、見えたか。願いごと、言うたか?』


『あぁ、間に合わんかったぁ…』


二人してふっと笑った。


やがて望遠鏡のレンズ越しに、淡い軌道を描いて現れたのは、レモン彗星。

長くのびる尾が、ほんのり青みがかっている。


『これがレモン彗星かぁ』


『そう、千年に一度、って言われとる彗星や。見えるだけでもすごいに』


『千年かぁ。じゃあ、次は見られやんね』


義徳は寂しそうに言った。


『尊いなぁ…』


勇武がそっと、息子の肩に毛布をかけた。


続いてスワン彗星が小さく、白い羽を引いて夜空の端を滑るように流れていく。


義徳は何も言わなかった。

ただ、瞳を大きく見開いて、空の端から端まで目で追いかけていた。


勇武は、そんな義徳の横顔をそっと見つめた。

そこには何かを胸の中で確かめようとする少年の静かな決意があった。


『星って全部名前があるん?』


義徳が訊ねた。


『名前がある星もあるし、まだ名前のない星もある。見とる人間がおって、その人がちゃんと覚えとるなら、名前がなくても、その星はずっとそこにある。消えやん』


義徳は少し考えるようにしてから、また空を見上げた。

星々の光が瞳に反射して、ほんのわずかに揺れていた。


風が強くなり始めた。

勇武が荷物をまとめて立ち上がると、義徳も一緒にお手伝いした。


帰り道、父の背中を見ながら、義徳がふとつぶやいた。


『また一緒に行こ』


勇武は歩を止め、後ろを振り返った。


『いつでも言うてくれたらええ。1人で勝手に行ったらあかんよ』


言葉が風に流れて、夜の静寂に染みていく。


義徳は、小さくうなずいた。


そしてもう一度、レモン彗星が通った夜空を見上げた。

それは何千年の旅をしてきた彗星の軌跡だったが、義徳にとっては父と過ごした、たったひとつの今が、空に焼きついた特別な時間だったのであった。

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