睡蓮ー覚悟と愛編ー
父から母の事を明かされて七日が経った早朝。
金剛龍寺の座敷。
雨の音が障子越しに、静かに響いている。
義徳は、膝を正して座していた。
その姿は、七日前とは別人のように静かで、どこか張り詰めている。
父は、湯呑みに口をつけたまま、一切目線を向けなかった。
義徳は、まだ怒り・裏切り・悲しみ・拒絶の渦の中にいた。
心の奥にあるのは、道具のように扱われた自分。
産む為に必要な存在としてしか見られていない透明な存在。
何もかもえぐるような環境。
父から貰った誕生日プレゼントの天体望遠鏡で夜空の星を見つけて涙を流した日もあった。
それでも、自分の存在の痛みの根源を直視する耐えがたい苦しみを背負おうと覚悟を決め、自分の人生を自分の手で進める為に見る事を選んだ。
そして、義徳が口を開いた。
『お母さんの出産に立ち会わせてください』
義徳は、そう申し出た。
七日前、義徳は魂ごと崩れ落ちるほどの真実を突きつけられ、悲しみのどん底にいた。
そんな義徳が自ら母の出産に立ち会いたいと言った。
父にとって想定外の一言で、複雑な感情が渦巻いた。
『やめとき』
義徳は一度、瞼を強く閉じた。
『この世に生まれてくる弟の顔をこの目で、はっきり見ときたい。行かしてください』
父は湯呑みを置いた。
『なんで?』
『自分の存在のはじまりに向き合いたい。私がこの世に出てきた時、誰がどんな顔で迎えてくれたのか。お母さんが、どんな顔で私を産んだのか。それが、ずっとわからなかった。ずっと愛されて生まれた実感がなかった。だからこそ今、弟の命が誕生する場に身を置きたい』
父は、ゆっくりと義徳の方を向いた。
その目にはわずかに動揺がある。
『諦めなさい。見たら、もっとえらなる。知ったら戻れやんくなる』
義徳は言葉を噛みしめ、両手を膝に強く押しつけた。
『それでも、ちゃんと向き合うてみたい』
『向き合うっていってもなぁ……義徳の生まれは……』
『本当は言われる前から全部知ってました。できれば嘘だと思いたかった。事実だなんて認めたくなかったよ』
『………………!!!』
『しかし、お母さんは何年経っても私に本音を打ち明ける事はないでしょう。私が人を見たら全て分かってしまう能力がある事、その重さも痛みも、どこまで判るのでしょうか。全て知っていても、それでも行きたい。お母さんが、どんなふうに産んだのか、私は実際に見ときたい。この身に、この胸に全部刻みたい』
父は沈黙した。
畳に置かれた手が、かすかに震えている。
『私は、このお寺を引き継ぐ為の手段として産まれました。誰にも祝われずに、産声をあげたかもしれない。せやけど今度は何も知らずに生まれてくる弟の、その瞬間を私が見守りたい。遠くでそっと見守るのではなく、ちゃんと近くで見守りたい。あの日のまま、崩れたまま、そんな同じような痛みを繰り返してほしくないから』
父が何か言おうとして、口を開きかけて止まった。
『しかし、義徳……』
『あのお母さんが、どうやって人を産むのか。私も、かつてこうして産まれたのか。 その時、お母さんは何を感じとったのか。それを見たい。 自分の出生の痕跡に触れたい。過去に戻るのではなく、自分の人生の始まりに、もう一度立ち会いたい。お母さんも弟も見たい。お母さんの顔と弟の生まれる瞬間。その命が初めて息をする瞬間。そして、その命を抱くお母さんの姿。憎しみでも和解でもなく、ただひとつの命が生まれる瞬間を自分の目で見て私は、ほんまにこの母から生まれたんや、この人があの時、私を産んだんや、私の命も、かつてこうして始まったんやと、それを胸に刻みたい。それから、私のように生まれながらに背負わされたものを弟が背負う事のないように、ちゃんと見ときたい。弟には私と違う出発をしてほしいから』
父の目元がわずかに揺れている。
湯呑みを持ち直す手が空を切ったまま止まった。
義徳は自分という存在の根源に触れ、これまで奪われてきた生まれる権利を、漸く自分の手で取り戻そうと、必死に訴え続けている。
義徳がここまで自分の命に真剣に向き合おうとしているとは思ってもいなかった。
父の瞳に過去の重さと後悔と恐れが詰まっていた。
暫く沈黙が続いた。
義徳は父の言葉をじっと待った。
父は目を伏せ、深く静かに息を吐いた。
湯呑みに再び手を伸ばし、口をつけた。
そして、少しだけ目を伏せたまま、静かに答えた。
『一緒に行こう』
『ありがとう、お父さん。覚悟を持って行きます』
義徳は自分の人生を自分の手で進める為、見る事を選んだ。
それは、赦しでも復讐でもない受容だった。
その後、義徳は父と一緒に金剛龍寺の門を出て、雪子の家へと歩き出した。
いつも通る山道は明るい筈のに海の底のような暗い闇の中で遠い光を追っているみたいだった。
山の無数の命たちの音が耳に優しく強く伝わってくる。
細い山道がまるで母の胎内に還ったように見える。
途中で遭遇する左右の分かれ道が運命の分かれ道のようだ。
弟に地獄を見せないように嘘を尽きながら生きるか、弟に地獄に突き落とさないように正直に生きるか。
義徳は考えながら一歩一歩進んだ。
二度廃止した登山バスの道と旅館後が未来の自分を予知するように襲った。
ケーブルカー跡の階段が、極楽浄土に続く道のようだ。
戦争の金属類回収令でレールを根こそぎ剝ぎ取られた跡に取り残された折れ曲がった架線柱が義徳の中で初めて自分を直視した瞬間だった。
昔は多くの人で賑わっていた場所は今は本来の自然に還ったように静かだ。
逆を向くと時代と共に変化していく街と海が見える。
そこで義徳は自分が進む道は覚悟だけでは足りない橋を渡っている事に気付いた。
その先に進むと険しい道があり、アオスジアゲハがひらりひらりと飛んでいるのが見えた。
淡い水色の羽が、どこか悲しく美しく見える。
その翅の動きが、背中を押しているような気がした。
山の道を通り終え、やがて、駅が見えてきた。
無人の駅舎だ。
父は義徳の小さな手を握って階段を上るものの、表情に影が見え始めた。
義徳は父の顔を見なかった。
ただ、真っ直ぐ前を向いて小さな身体で大きな階段を一生懸命上った。
一段一段を丁寧に焦らずゆっくりと父と一緒に上った。
もう、引き返す事などできないのだ。
無人の駅で伊勢市駅に向かう電車を待った。
二人は無言だった。
母の秘密を知る前は列車は笑顔が絶えない空間だったが、悲しい思い出になってしまった事を父は心の中で息子に申し訳ないとばかり思っていた。
列車が大好きな義徳にとって、重い時間が耐えられなかった。
だが、泣かなかった。
水筒の冷たいお茶を飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
喉の奥に何かが引っかかっていた。
涙でも悲しみでもない、名前のつけられない何かだ。
アナウンスがいつもより遅く、濁って聞こえる。
それは自分の中の時間が、ゆっくりと伸び縮みしているからだと、義徳は感じた。
そして電車がやってきた。
父は義徳と足を揃えて電車の中に入った。
前は、この電車に乗るのが嬉しかった。
窓から見える景色に名前をつけて、父と笑い合った。
今はもう、その同じ景色がモノクロに見える。
あの頃の自分には戻れない。
もう、知らなかったでは済まされない場所に向かっている。
目的の駅に着くまで、二人とも一言も発さなかった。
父の手は震えていた。
義徳は自分がしっかりしなければと腹をくくった。
そして、伊勢市駅に到着した。
扉が開く音が、どこか巨大な鉄の扉のように響いた。
踏み出すその一歩が、もう戻れない一歩だと義徳は感じた。
これから先、どんな顔に出会っても。
どんな言葉に傷ついても、自分の目で現実と向き合う。
それだけを胸に義徳は前を見て歩いた。
五十鈴の川が流れる音と父と義徳が歩く音が響いている。
義徳は少しだけ緊張していた。
門の前に立ち、父はほんの一瞬だけ息を吹いた。
義徳は父の手をぎゅっと強く握り締めた。
『行こか』
義徳は『はい』と返事をした。
インターフォンを押し、玄関の戸を開いた瞬間、湿った空気とともに、奥から声が飛んだ。
『久しぶり、お兄ちゃん。すぐ行く』
土間の奥から姿を現したのは、父の弟、荒木田悠希だった。
年は父より3歳下で、がっしりとした体格である。
悠希は父の姿を見るなり、顔をしかめて一歩前に出た。
『義徳も一緒で、どうしたの?』
義徳は父より一歩前に立ち、悠希の冷たい目を見つめた後、冷静に頭を下げた。
『こんにちは、荒木田義徳と申します。本日は雪子さんの事でお話をしたくて会いに来ました』
悠希の眉が跳ね上がった。
『これはどういうこと?』
『私からお願いしました。全部知った上で、ここへ来ました』
義徳は表情を崩さず冷静に答えた。
悠希の視線が、横に立つ義徳の父、勇武に移った。
悠希の目つきが鋭くなり、それでも義徳は冷静に立ち続けていた。
『まさか、こんなに小さい子に全部話してしまったのか?』
勇武の眉がわずかに動いた。
『ああ、全部話した。それで、義徳が雪子の出産に立ち会いたいって言うたんやに』
『それは………、ちょっと……』
奥の部屋にいた雪子は、玄関先で聞こえる義徳の声に凍りついた。
鼓動が、耳の奥で激しく跳ねた。
義徳の声。
もう、何年も聞いていなかった。
幻かと思った。
だが、違った。
現実だった。
雪子はもう、これ以上耐えられず、無意識に立ち上がった。
膨らんだお腹を両手で支えながら、風が通る廊下をゆっくり歩いた。
目の前がぼやけていた。
玄関の向こうに立つ姿だけは、はっきり見えた。
その小さな影が、顔を上げてこちらを見た。
雪子と目が合った。
その瞬間、義徳が口を開いた。
『お母さん』
音が止まった。
心臓が、脈を打つのを忘れたみたいに感じた。
周りの全てが溶けたように消えて、ただ、その一言だけが雪子の世界を覆った。
義徳の声が、何度も頭の中で反響した。
産んだだけ。
育てたとも、愛したとも言えない。
どれだけの傷を与えたかも分からない。
自分には、その資格なんてない。
ずっと、そう思ってきた。
それでも、義徳が、お母さんと、そう呼んだ。
誰よりもその言葉を聞きたかったのは自分だった。
雪子の足が自然と動いていた。
『義徳』
気づけば、その名を呼んでいた。
震える声だった。
それでも、はっきりと言えた。
義徳の顔は、ずっと我慢していたように見えた。
でも、泣いていなかった。
その瞳の奥には、怒りでも、恨みでもなく、何かもっと深くて優しいものがあった。
『私は、お母さんに会いに歩いてここまで来たよ。あなたが私のお母さんだよね。会いたかった。やっと会えた』
その言葉が、雪子の中に染み込んでいった。
言い訳も、説明も、何もできなかった。
ただ、義徳の前に立ち尽くし、義徳の小さな体をそっと抱きしめた。
腕の中にあるこの命は、かつて自分が産んだ命。
あのとき、どんな顔で迎えたかも覚えていない。
それほど、自分は壊れていた。
だけど今、ようやく出会えた気がした。
かすかに震えるその身体を、ただ、母の手で優しく抱きしめた。
『お母さん』と呼ばれた時の、自分の反応が正しかったのかどうかなんて、分からない。
だけど、これだけは分かる。
この子は、赦してくれたわけじゃない。
でも、向き合うためにここまで来てくれた。
心の奥で、音を立てて何かが崩れ落ちていった。
そして、同時に何かが生まれた。
新しい命ではない。
母としての、雪子自身の再生だった。




