大海心 ー前編ー
慧心は、漸くの思いで金剛龍寺の山門にたどり着いた。
冷たい風が頬を斬るように吹きつける。
門前で、しばし動けなかった。
それでも、覚悟を決め、黙して一歩を踏み出す。
石畳を進むたび、かつての己が脳裏に浮かぶ。
加害者としての沈黙。笑い。軽蔑。放置。
ひとつひとつが重石のように肩にのしかかり、足取りは重くなるばかりである。
虚飾を剥がされた裸の心が試される場、金剛龍寺。
臨済宗として厳然と立つこの道場は、かつて真言の炎を灯した密教の聖地でもある。
今は禅の寂を湛え、言葉ではなく沈黙の中に真理を求める者たちの地。
だがその奥底には、かつて密かに唱えられた真言の余韻が、未だに息づいている。
門を越えた瞬間、慧心の中の“日常”は消えた。
堂宇の前に立つひとりの僧。
その姿は岩のように動かず、気配すら呼吸しているようだった。
副住職の荒木田義徳。
慧心は、深く礼をし、言葉を発した。
『バキュラの遺命により、経典と写本数巻、禅書を携えて参りました。こちらにてお納めいただきたく、参上つかまつりました』
義徳は短く頷いたのみで、一言も発さず、踵を返し、宿坊へ案内した。
その背に導かれるように、慧心も一歩、足を踏み出した。
静寂の中、石畳を進んだ。
空気は張りつめ、呼吸すらも禅の一環として統御されているようだ。
宿坊には一人、静かに慧心を待つ僧の姿があった。
『お久しぶりです』
その声に、慧心の全身が硬直した。
視線を向けることすらできない。
そこに立っていたのは、慧心が傷つけてきた徳密だった。
慧心は義徳に巻物を差し出した。
義徳は巻物を受け取ると、床に置くでもなく、脇に抱えたまま、静かに壁の傍に立った。
目も口も、閉ざしたまま。
慧心は一歩、徳密の前に進み出た。
その動きには迷いがあった。
まるで足元の石に何かを取られたかのように、かすかによろめいた。
そして、深く頭を下げた。
その背中が、今にも崩れ落ちそうに見えるほど弱々しかった。
『……徳密さん』
くぐもった声が、空気を震わせた。
『……はい』
徳密は、まっすぐに慧心の頭頂を見下ろしていた。
顔には感情が浮かんでいない。
ただ、静かに待っている。
『剛徳寺で、私は……徳密さんに、言葉では尽くせぬほどの傷を与えました』
暫く沈黙が続いた。
徳密は無言で慧心の言葉を待っている。
『……嫉妬と色んな焦りから、あなたの光を曇らせることばかりしました。当時の私は、自分の中の醜さから目を背けていました。あなたがどれほど苦しかったか、知ろうともしませんでした』
声が震えている。
だがそれは感情が込み上げての震えというより、自分の言葉の重みに押しつぶされそうな不安から来る震えだと徳密には気付いていた。
『今こうして言葉を並べること自体、傲慢かもしれません。許してほしいとも、償えるとも、簡単には言えません。ただ私は……あなたにしてきたことを、一生、忘れません。私の過去は、私の一部です。どれほど悔いても、消えません。だからこそ、これから私は……生きるかぎり、その過ちと共に歩きます。申し訳ございません』
その場に、再び静寂が落ちた。
慧心には無限のように感じる時が流れた。
やがて、徳密が息を吸う音が聞こえた。
静かで明確な吸気である。
慧心の体が、その音だけでピクリと反応した。
『……は…………はぁぁ……。つまり、“ついでに謝りに来た”ということですか?』
その声に、慧心は思わず顔を上げてしまった。
徳密の表情は、怒りでも嘲りでもない。
ただ、冷たかった。
『いえ……そんなつもりは……』
慧心の唇が震え、言葉が滲むように流れた。
徳密は一歩、前へ進んだ。
『私には嫌々、来てるように見えます。自分がやったことを楽にしたいから、今ここで“それっぽく”謝って、自己完結しようとしてるようにしか見えませんよ』
慧心の目が揺れた。
目の奥に焦燥と恐怖と僅かながら逃げ場を失った子どものような感情が浮かんでいる。
徳密は、その変化を逃さなかった。
『……自分がやったこと、今ここで全部言えます?』
徳密の声のトーンは変わらない。
だが、その静けさが逆に慧心の心を刺した。
『私は、全部覚えてますよ』
その一言で慧心の息が詰まった。
凍てついた空気が流れている。
『いじめ、陰口……、そんな軽い話じゃありませんよ。生死に関わるほど追い詰めたのですよ、あなたが。出世や評価の為に意図的に私を貶めたじゃないですか。師僧への嘘の報告、誤った情報、名誉毀損的な噂。制度内の締めつけを使って、私を追い込みましたよね』
徳密の声には、かすかに感情の端が見えた。
呼吸が一つ、わずかに早まっている。
だが、怒鳴りはしなかった。
逆に淡々と、事実をなぞるように語るその声音が、慧心をより深く追い詰めてきた。
『あなたがしたことは、精神的にも社会的にも深く、残酷な傷を残す行為でした。謝罪というのは、わかってるふりをしながら頭を下げることではございません。心の底から謝りたいのなら、逃げずに、まず目を見て、自分が何をしたのかを一つひとつ、言葉にしてください』
慧心の目に、涙が浮かんだ。
だが、それを拭うことは許されない。
両手は、まるで縛られているかのように力なく垂れている。
『夜眠れない日もありました。身体が動かなくなった日もありました。人を信用できなくなった時間もありました。それでも、私は、こうしてここに立ってるんです』
徳密は一歩、また近づいた。
その足音が、慧心の鼓膜に、重く響いた。
『……あなたが覚悟を決めて、ここに来たのなら、聞きます。ちゃんと……。今ここで言ってください。私に何をしたのか、どんな意図で、あんなことをしたのかを。自分の口で、私の目を見て。逃げずに。それができないなら、あなたはまだ、謝る準備すら、できてませんよ』
慧心の喉が、小さく鳴った。
空気を吸いたいのに、吸えない。
そんな音だった。
その場には、時計の針すら聞こえないほどの沈黙が落ちた。
慧心は、うつむいたまま、指先だけが震えていた。
徳密はその姿を、何も言わず、ただ静かに見つめている。
義徳は徳密の心の中に広がる暗く遠い海の底に沈んだ一つだけ輝くラムネのビー玉を見守りながら、慧心の言葉をじっと待っていたのであった。




