ダイヤモンドと羊
読者の皆様へ
いつも温かいご支援を賜り、誠にありがとうございます。このたび、予定しておりましたイラストの公開についてお知らせがございます。
制作にあたり、協力してくださった方との話し合いを重ね、慎重に検討した結果、イラストの公開が読者の皆様にとってあまりにもリスクが高い可能性があるという結論に至りました。安全面や配慮が必要であるとの指摘を受け、最終的にイラストの公開を見送る決断をいたしましたことをご理解いただければと思います。
今後も皆様にお楽しみいただけるコンテンツを提供できるよう、引き続き努力してまいりますので、何卒ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
照子は、勲と一緒に築き上げた饅頭屋を閉める決断をした。
長い間、父親と勲と共に守り続けてきた大切な場所であり、思い出が詰まったその店は、照子にとって心の中でかけがえのない存在だった。
しかし、20年前に父親が老衰で亡くなり、勲も亡くなったことで、その思い出とともに照子の生活も大きく変わってしまった。
勲が亡くなった後、照子は一人でお店を運営しながら、剛徳寺のお土産売り場で掛け持ちをする日々を送った。
しかし、予想以上にその生活は過酷である。
最初は何とかやり繰りしていたが、次第に負担が大きくなり、精神的にも身体的にも疲れ果てていった。
お店を維持するには多くのコストと手間がかかり、毎月の支払いは重くのしかかるばかりだ。
勲と共に経営していた頃は、お互いに助け合いながら乗り越えてきたことも、今では照子一人で全てを背負うことになり、次第にその重さに押しつぶされそうになっていた。
家計の問題も深刻である。
勲の病気の治療費や生活費で何度も苦しい思いをしていたが、勲の死後、その負担は一気に重くなってしまった。
照子は店の経営に加えて、家計や生活全般の管理も一手に引き受けることになり、心も体も限界を迎えていた。
愛する人を失った悲しみ、そしてその喪失感を抱えながら、経済的な問題がさらに重なり、照子は精神的にも追い詰められていった。
ある日、お店に向かう道を歩きながら、照子はふと立ち止まった。
空を見上げると、雲が静かに流れている。
その静かな風景を見て、照子はふと思った。
『私も連れていって………勲さん……』
経営のストレスが体力を奪い、心が壊れた。
勲と共に支え合っていた日々が、今では遠い過去のようだ。
照子は、お店を閉めることが最も適切な選択だと感じるようになった。
しかし、その決断には大きな葛藤があった。
勲と共に過ごしてきた時間、共に作り上げてきたものを手放すのは簡単なことではない。
それでも、続けることで自分の心が壊れてしまうのなら、新たな一歩を踏み出そうと考えた。
お店は二人の夢の象徴であり、その夢を一人で背負い続けることはもはや無理だ。
そして、照子は決断を下した。
その日をもって、お店を閉めようと。
扉を閉じると、心の中で何かが静かに崩れ落ちるような感覚があった。
二人の足跡が、あっという間に過去のものとなり、思い出が詰まった空間は静かな空間へと変わった。
ひとりきりの時間が訪れ、照子は少しだけ心の重荷を降ろすことができた。
しかし、勲の死による空虚感は埋められることはなく、経営を続けられなかったことへの悔しさもあった。
それでも、最も大きな気づきは、こういった時こそ冷静にならなければならないということである。
照子は新たなスタートを切るため、少しずつ歩き出すことを決心した。
勲を忘れるわけではない。
勲との思い出を胸に、経営から解放されたことで、自分を取り戻すことができた。
これからは無理をせず、自分の心を大切にしながら、新しい人生を歩んでいくことを心に決めた。
勲が愛した店、二人で共に過ごした日々を忘れることは決してない。
照子はその先に新しい人生を描いていく。
それが、今最も大切なことだ。
しかし、お店をたたんだ後も商品や材料の残りや改装費用のローンが残り、経済的には依然として厳しい状況が続いた。
照子は、家や結婚指輪を売らなければならないのではないかと考え込んでいた。
そんなある日の夕方、バキュラが剛徳寺のお土産売り場の裏口に立っていた。
バイトを終えた照子を待っている。
やがて裏口の扉が開き、照子がバキュラの前に現れた。
『まぁ、バキュラちゃんじゃないの。どうしたの?』
『ギュラ』
バキュラは両手を広げた。
その刹那、視界が霧に包まれ、風が吹いた。
強風で吹き飛ばされそうになったが、なんとか落ち着いた場所にたどり着くことができた。
しかし、そこには見たこともない景色が目の前に広がっていた。
するとダイヤモンドを降らせ、バキュラは体の中に溜め込んで結晶化させ、一番大きなダイヤモンドを選んで照子にそっと渡した。
しかし、それはあまりにも大きすぎて、重くて運べないレベルのものである。
バキュラの手から出たダイヤモンドの重さは数千トン以上もある。
バキュラは照子のすべてを知っていた。
言葉にしなくても、バキュラの目には照子の心の中が映し出されていたからだ。
照子がどれほど悩んでいるのか、どんな感情を抱えているのか、どんなに辛い思いをしているのか、バキュラには全てが手に取るようにわかっていた。
バキュラはその敏感さと直感力で、照子の心の奥深くにある思いを感じ取っていたのだ。
照子が語らなくてもその苦しみを理解し、何を必要としているのかを察していた。
そして、照子が一番話しづらいこと、言葉にできない不安や恐れを、バキュラは無言で受け止め、寄り添っていた。
それはまるで、照子が一人で抱えきれない重荷を、バキュラがそっと肩代わりしているかのようだ。
照子が何も言わずとも、バキュラには全てがわかる。
そんな不思議な感覚を、照子は何度も感じていた。
『バキュラ、ありがとう。でもね……、もう大丈夫なの…。自分の力で立ち上がっていかないと強くなれないでしょ。だから、これはしまってちょうだい』
照子はバキュラにそう言って、ダイヤモンドを受け取る手を軽く引っ込めた。
照子の心には、誰かの助けに頼るのではなく、自分の足でしっかりと歩き出さなければならないという自立心があった。
今までずっと支えてもらい、助けてもらったことに感謝しているが、これからは自分の力で乗り越えていきたいと決意していた。
バキュラは静かに照子を見つめ、しばらくの間沈黙が流れた。
その後、バキュラは首を振り、巨大なダイヤモンドを両手で差し出して照子に向かってジェスチャーで訴えかけた。
どうしてもこれを使って生活を支えるようにという強い気持ちがあった。
バキュラには照子一人ではどうにもならない未来が見えていたため、力になろうとしていた。
一方、バキュラの無言の訴えに、照子は少し迷ったが、すぐに心の中で確信を持った。
バキュラの優しさは理解している。
しかし、それでも自分の道を歩んでいく覚悟を決めている。
照子は、バキュラが持ってきたダイヤモンドを見つめ、再び微笑んで答えた。
『ありがとう、バキュラ。でも私は、どんな未来が待ち受けていたとしても、それは私の未来なの。勲さんが言ってたの。どんなことがあっても“なんとかなるよ”って。でも、私は“なんとかなる”日は自分が強くなった日にしか来ないと思うの。どんなことがあっても挫けたらだめ。それに人間はみんなが純粋とは限らないの。バキュラが見つけたこのダイヤモンドを持ち帰ったとしても強欲な人間達の手に渡って汚くなっていく。それなら、私は地獄の中で光を照らしたい。だから、これはあなたのものよ』
照子は、そっとバキュラの両手を握ってダイヤモンドの上に置いた。
照子がダイヤモンドを受け取ることを拒み、独立して自分の力でやり遂げる覚悟を決めた瞬間、バキュラは照子に対して無償の支えをすることの意味を再認識した。
照子は愛と感謝の気持ちでバキュラを受け入れつつ、助けを求めずに自分の道を選んだ。
その瞬間、バキュラは何かを言いたげに一瞬戸惑ったが、照子を信じて頷いた。
バキュラの目には深い理解と優しさが宿っていた。
バキュラは照子が他人に頼らず、自分で困難を乗り越えようとする姿勢に感動し、無償の愛と支え合いが本当の意味で相手を強くすることを学んだ。
照子が経済的な困難を乗り越えようとする中でも、最終的には心を大切にすることが重要だと気づいたのだ。
そして、大きなダイヤモンドを自分の体内に戻して、照子の頭をそっと撫でた。
抱きしめたら、きっと照子は挫けてしまうかもしれない。
照子の痛みや葛藤を深く理解しており、無言で寄り添い続けた。
照子の意志を尊重し、最終的には照子の選択を受け入れたことで、バキュラは真の理解と信頼の重要性も学んだ。
誰かが困難に直面している時、無理に支援するのではなく、相手の意志を尊重し、寄り添い続けることが大切だということを感じ取ったのであった。
この瞬間、照子はここは青い星であり、バキュラの故郷であることを知った。
同時にバキュラは人間界に居る時間がもう僅かであることを照子は察してしまった。
こうして、バキュラは照子と一緒に元の世界へ戻って通常の生活に戻った。
3月30日、冬の終わりを感じさせる冷たい風が静かに剛徳寺の境内を吹き抜けていった。
春の訪れを予感させる新しい息吹が、まだ凛とした冷気の中に混じり始めていた。
境内に生い茂る木々の枝は、まだ無色の冬の空気に包まれているが、その一部が春の兆しを感じさせるように、柔らかな新芽を顔を出し始めていた。
風がその新芽に触れ、ほんの少しだけ揺れた。
その日の朝、法照は普段と変わらない穏やかな表情で、桂之助と最蔵を呼び寄せていた。
境内の一角にある僧侶たちの休息所に、二人が集まると、法照は深く息をつきながら、ゆっくりと口を開いた。
『本日はバキュラに関する大切なお話がございます』
桂之助と最蔵は、法照が発するその言葉に、ほんの少しの疑念を抱きつつも、その口調からは何か重大な事が起こったことを感じ取った。
『バキュラは実は、第捌惑星の神様でいらっしゃることが新たに判明いたしました』
法照は一瞬、言葉を区切り、二人を見つめた。
その一言が放たれた瞬間、部屋の空気が少しだけ重くなった。
桂之助と最蔵は驚きの表情を隠せず、互いに視線を交わした。
『バキュラが…第捌惑星の神様? それは一体…?』
最蔵がまず口を開き、その言葉にはまだ信じきれない驚きが滲んでいた。
桂之助も目を見開き、深く考え込むように法照の話を聴いた。
『これまでバキュラは神仏習合の象徴として、神道と仏教の調和を体現するご存在とされてまいりました。しかし、今回新たに明らかになりましたのは、実際に第捌惑星、すなわち宇宙の広がりと深遠な調和を象徴するご存在でいらっしゃるということでございます』
法照は、言葉に力を込めるように続けた。
『そして、この事実が明るみに出ることにより、私どもはバキュラのご存在について、さらに深いご理解を賜ることができるかもしれません』
桂之助と最蔵は、言葉の一つ一つに重みを感じながらも、その真意がいま一つ掴み切れずにいた。
最蔵は眉をひそめて、法照に質問を続けた。
『第捌惑星とは、一体何を意味しているのでございましょうか?』
法照はゆっくりと答えた。
『私どもが知っております地球とは異なる次元のご存在であり、深遠なる宇宙の調和の中に位置しているとされております。これまで、バキュラがその神様としてのご役割を担っていらっしゃったことにより、私どもの世界は調和を保ってまいりましたが、ついにバキュラがその帰還の時を迎えられることとなりました』
その言葉に、桂之助は静かに頷いた。
既に何かを覚悟していたような表情を浮かべ、次に法照が続けた言葉を待っていた。
『そして、もう一つ重要なお伝え申し上げることがございます』
法照は少し言葉を切り、空気が更に重く感じる中で、言葉を紡いだ。
『実は、バキュラが第捌惑星の神様でいらっしゃることが明らかになった結果、バキュラは今、再びその星へお帰りになる時が来てしまったということでございます』
この告げられた言葉が、二人の心に重くのしかかる。
最蔵は目を見開き、唇をかみしめるようにして黙った。
桂之助も言葉を飲み込みながら、内心でその事実がもたらす意味を噛みしめていた。
『バキュラが帰るということは?』
『はい。バキュラはこれまで、この地で人々をお守りになり、宇宙の調和を保つご役割を果たしてこられました。しかし、今、そのご役目を終え、再び第捌惑星の神様としてのご責任を全うするためにご帰還なさらなければならないのです。この移行は、バキュラが持っていらっしゃった調和と力が、再び宇宙全体の広がりの中で生かされるために必要なものであると考えられます。それから、バキュラは全八柱いらっしゃり、第弐惑星のバキュラが危険な神様でいらっしゃると伝えられております。そのバキュラは、どのバキュラよりも強力な破壊神で、今から6年後までに特殊な刀をお持ちになることができる少年を探さなければならなくなりました』
法照の言葉が、深く響いた。
その言葉に込められた意味が、桂之助と最蔵の胸にずしりと圧し掛かってくる。
桂之助は一息つき、思わず小さく呟いた。
『ついにその時が来たか』
その声には、長い間の覚悟と、そしてどこか満たされたような感情が含まれていた。
桂之助は目を閉じ、親指と薬指を合わせて深い呼吸をしながら、心を落ち着かせた。
最蔵もその言葉に頷き、重苦しい静けさが辺りを包み込んだ。
法照は、二人の反応をしっかりと受け止めながら、続けた。
『そのため、本日、剛徳寺様は臨時閉鎖とさせていただきます。バキュラのご帰還の準備を進めるため、すべてを整える必要がございます』
その言葉に、桂之助は一度深く頷いた。
最蔵はそのまま無言で立ち上がり、法照に向かって一礼した。
最蔵の顔には、驚きと共に納得したような表情が浮かんでいた。
『バキュラがご帰還なさるということ、それはすべてのバランスを守るために必要なことでいらっしゃいますね』
最蔵が穏やかな声で言った。
『はい』
法照は静かに答えた。
その日、剛徳寺の境内は普段の喧騒を閉ざし、静けさに包まれていった。
春の風が、今までよりも少しだけ強く吹いているように感じる。
バキュラは僧侶、一人一人にお別れをした。
最初に智真のお墓に手を合わせていた。
智真の首を斬ってさえいなければ第捌惑星に帰還せずに済んでいた。
あの時、人身御供として選ばれた者を智真は知っていたが、その対象が澄子だったため、智真が自ら身代わりとなっていた。
これがきっかけで、バキュラは二度と地球に戻ることが許されなくなってしまったのだ。
このことは光明以外の誰にも知られないまま、時が過ぎている。
光明は混乱を避けるため、本当のことは誰にも言えなかった。
また、剛徳寺を見守り続けてきたバキュラとして、僧侶の中で残虐ないじめをした慧心が気がかりとなり、最後に剛徳寺にあるものを残した。
それはバキュラが帰還した次の日に見るようにと皆に申し立てた。
バキュラにとって慧心は大切な仲間であり、そこには慧心への強い愛がこめられていた。
浄光と心平と慧心、最蔵と桂之助、そして澄子と照子は涙を必死に耐えながらバキュラにお礼を言った。
皆にお別れを告げたとは言え、今後も第捌惑星から見守ることには変わりないのだ。
だが、バキュラは“さようなら”とは言わなかった。
この時、光明はバキュラから、ある一族の強力な魔力を譲り受けていたが、それは誰にも言ってはならないもの極秘の力であった。
まだ先の話だが、光明は、その力を持ったまま成仏する日が来るであろう。
そして、その夜、剛徳寺の境内は静寂に包まれていた。
春の訪れを感じさせる風が、ひときわ冷たい夜空を吹き抜け、境内の古木がその風に揺れる音がわずかに響く。
お寺の鐘が時を告げる中、法照は一人、静かに読経した。
バキュラの帰還は天光堂の後継者のみとされているため、全ての法要は原則として法照一人とされている。
その心は、すでにその時を感じ取っていた。
バキュラの帰還の時が近づいていることを。
暗闇の中で、星々がひとつひとつ瞬き、夜空の奥深くに広がっていく。
それはまるで、何か大きな変化の兆しのように、法照の心に届いていた。
その瞬間、空気がわずかに震え、星々が一層輝きを増した。
まるで宇宙の力が、地上へと波及してくるような感覚だった。
境内の中心、古びた大きな鐘の前に、バキュラが姿を現した。
光とエネルギーが渦を巻いているかのようだ。
まるで、星々そのものが集まり、ひとつの存在となったかのような輝きだ。
法照は深々と頭を垂れ、尊敬を込めてその姿に敬意を示した。
バキュラは静かに動き、そこから放たれるエネルギーが境内に満ちる。
空気が変わり、まるで神聖な力が広がり、深い静寂が訪れた。
法照の目の前で、バキュラの姿は一層輝きを増し、まるで星々がひとつひとつ集まり、次第に宇宙の彼方へと引き寄せられていく。
その時、バキュラがほんの少し動き、無言で法照に答えるように、星々がその輝きを一瞬、強く放った。
次第に、その光は静かに消え、再び暗闇が広がっていった。
法照の心にはその輝きが深く刻まれていた。
言葉ではなく、存在そのもので答えるバキュラの意志が、法照にしっかりと伝わった。
法照は改めて、深い感謝の意を込めて頭を垂れた。
『今までお世話になりました。あなたの力が、この地にもたらした調和と平和が、これからも続くことを心より願っております』
その瞬間、バキュラが大きく輝き、法照の体がその光に包まれるように感じた。
星々が一斉に光り、空間が歪んでいくような感覚が広がる。
バキュラの力が最も深遠な宇宙へと戻る、その瞬間だった。
法照は再び、その場で深く頭を下げた。
バキュラは空間に溶け込ませ、光の粒子となり、夜空の中へと消えていった。
まるで宇宙の一部となり、その力を再び宇宙の調和に捧げるように。
法照はその後、静かに目を閉じ、深く息をついた。
心の中には、バキュラがどんな存在であったのか、そしてその帰還が何を意味するのか、深い理解と共に安堵の気持ちが広がっていた。
剛徳寺の境内は再び静けさを取り戻し、法照は一歩ずつ静かにその場所を後にした。
夜空には、ほんの少しだけ輝く星々が残り、深い宇宙の息吹を感じながら、境内を見渡していた。
『バキュラ、どうかお元気で』
法照は心の中で、再びその存在に感謝の念を抱きながら、夜空を見上げた。
その頃、澄子と友花は、互いに笑いながらお寺の中庭を歩いていた。
友人となった二人は、自然と息子たちも同じように仲良く遊んでいるのを見守っていた。
澄子の息子、剛仁は、まだ幼いながらも大人しい性格をしており、ちょっとしたことでも不安そうにまわりの様子を伺う。
輝は、その正反対で元気だ。
互いに性格は全く異なっているが、それでも二人は仲良しだ。
澄子と友花はお茶を手に取りながら、春の温かな光を浴びて、ただ楽しく会話をしていた。
澄子がふと、過去の思い出を語り始めると、友花も懐かしむように笑顔を浮かべながら応じる。
しかし、その穏やかな時間が一瞬で崩れる瞬間が訪れた。
その瞬間、空気が突如として変わり、澄子と友花は無意識に顔を上げた。
周りの景色が少し歪んだように見え、風が一瞬止んだように感じた。
そんな違和感が広がる中、二人の息子たちも何も言わずに互いに目を合わせた。
お互いの視線が一瞬交錯したが、その時の二人には、何かが変わったことに気づくことはなかった。
そして、澄子と友花の会話が再び始まったころ、何も変わったようには見えなかった。
しかし、実はその時、剛仁と輝が入れ替わっていたのだ。
二人はそのことに気づくことなく、ただ遊び続けた。
剛仁はいつもより活発に動き、輝はその静けさを保ちながら、何か違う感覚を感じていた。
澄子と友花は、息子たちの間に変化を感じ取ることなく、子供たちの遊びを見守っている。
二人はただ温かい気持ちを持ちながら、それぞれの思い出を語り合っていた。
だが、その楽しい時間の中で、剛仁と輝の入れ替わりは静かに、そして確実に進行していたのだ。
そして、日が傾く頃、澄子と友花は帰る準備をした。
二人がその場を離れた後も、お寺の境内には何も変わった様子はなく、ただ春の風が穏やかに吹き続けていた。
剛徳寺の静かな境内で起こったこの不思議な出来事に、誰も気づくことなく、その日が過ぎていったのであった。
バキュラが帰還した次の日、朝のお勤めが終わると、剛徳寺の僧侶たちが本堂に集まった。
いつもの静かな空気に包まれていたが、その日はどこか違った。
普段の慎ましさはなく、何か重たいものが空気を支配していた。
バキュラが剛徳寺に残した箱を開ける時が来たのだ。
箱は、ひときわ重そうに見える。
木で作られ、丁寧に包まれていたが、その中身が何であるのか、誰もが知る由もない。
箱の表面には、まるで時間を経たかのような古びた跡がついており、それがさらに謎を深めていた。
桂之助は慎重に箱を開けた。
箱の中には、まず一つ、輝くダイヤモンドが収められていた。
光を反射してキラキラと輝き、まるで何かの命を宿しているようだった。
その隣には、巻物が何本も束ねられ、さらにその上に、風呂敷包みが置かれていた。
全員がその包みを見守る中、桂之助はその風呂敷を慎重に広げ、そこに書かれた手紙を取り出した。
手紙の内容は、思いのほか簡潔であったが、その中に込められた重みは誰もが感じ取った。
『光明さん、このバキュラ語を翻訳してください』
光明はバキュラが書いた手紙を受け取り、読み上げた。
手紙には、こう記されていた。
『この経典と禅書は、金剛龍寺へ直接行き、義徳に挨拶してから徳密に届けるように。それも、慧心の手によって渡されなければならない。これは徳密からの要望であり、慧心の代わりに渡すことは許されない……って書いてある……』
慧心はその瞬間、まるで氷のように冷たいものが背筋を走った。
顔が急に青ざめ、呼吸が浅くなった。
『す、すみません……』
慧心は言葉を震わせながら口にした。
その声は、まるでかすかな風の音のようにしか聞こえなかったが、その場にいた誰もがそれを聞き逃すことはなかった。
『私、忙しいもので……。他の者に届けていただけませんでしょうか…』
桂之助は、優しく、譲らない口調で返した。
『それは許されません』
慧心の目は揺れ、心の中で無数の思考が駆け巡った。
しかし、それを外に出すことはできない。
桂之助の表情には微塵の揺らぎもない。
桂之助が言った言葉は、冷静かつ決定的で、慧心の動揺をさらに深めるだけだった。
『お…お願いです、どうか他の者に…』
慧心はさらに声を絞り出すようにして言ったが、その声にはもう自信などない。
浄光に目線を向けると浄光は慧心に冷たい眼差しで睨んでおり、心平も同じ目で慧心を見ていた。
深い恐怖が慧心を押し潰す。
慧心は金剛龍寺の義徳を恐れていた。
義徳は、人を見ただけで、これまでの行いが全て見える特殊能力を持っている。
また、僧としての心構えや行動に非常に厳しく、いじめという不正行為を許容しない人としても知られている。
特に禅の道を歩む者としての清廉さや自己の浄化が非常に重視されており、僧侶の品格が問い直されている。
そんなある日、義徳に対して過剰な憧れを抱いていた僧侶がいた。
この僧侶は義徳の清廉潔白な姿に心を動かされ、恋愛感情を持ってしまった。
だが、その感情を不適切な方法で表現し、義徳に対して不敬な言動を投げかけた。
義徳は修行と僧侶としての誠実さを最も大事にしている人であるため、そういった不敬な言動は絶対に許さなかった。
すぐにその僧侶に厳しく注意し、言動を改めさせるよう指導した。
本来ならば、処分を言い渡されるところだが、義徳は罰を与えるのではなく、修行を通じてその僧侶が心を清め、正しい道に戻ることを願っていた。
しかし、その僧侶は義徳の指導を受け入れず、パワハラだと逆ギレした。
義徳は冷静に、僧侶としての誠実さや品位を守ることが最も大事だと説き、容赦なくその僧侶を指導し続けた。
結局、その僧侶は自分の行動を恥じて泣きながら山を下り、再び山を登って金剛龍寺に戻って一から修行をやり直した。
義徳の厳しい指導によって、彼は自分の過ちを反省し、誠実さを取り戻すことができた。
この出来事は、義徳がどれほど僧侶としての品位を大切にしているかを示すものとなった。
しかし、慧心のいじめ行為があまりにも残虐であるため、義徳は無慈悲なまでに厳しく指導を行うであろう。
義徳は道を踏み外した者を放置しない性格である。
もし、義徳がいじめの事実を知れば、慧心に対して即座に厳しい処罰が下されることになる。
慧心は義徳に対して失望されることを極端に恐れていた。
桂之助は、わずかな間を置いた後、ゆっくりと首を横に振った。
『逆らうことは許されません』
慧心はその言葉に背筋が冷たくなるのを感じた。
何もかもが自分に降りかかってきたような感覚に、慧心の心は不安定になっていた。
バキュラの思い、そしてこの手紙の重み…。
すべてが重く、息が詰まるほどのプレッシャーを感じた。
『これは、あなたの務めでございます』
桂之助が静かに言うと、慧心はその言葉を受け入れなければならないことを悟った。
慧心の心は、まるで深い井戸の底に沈み込んでいくような感覚だった。
その瞬間、慧心は意を決した。
自分がどんな恐れに支配されようとも、この使命を果たさなければならない。
だが、その恐怖をどうしても拭い去ることはできなかった。
慧心は震えながら、風呂敷包みを手に取った。
その手が、まるで冷たい石のように固くなり、震えている。
『お願いします』
桂之助が静かに言い、そのまま何も言わずに全員が立ち去ると、慧心はその場にひとり残された。
胸の奥がしめつけられるような感覚の中、慧心は風呂敷を抱え、徳密が居る金剛龍寺に行く決心をした。
しかしその足は重く、思うように進まない。
何度も何度も足を止め、心が揺れる。
剛徳寺の長い廊下を進むたびに、心の中で激しく葛藤が渦巻いた。
徳密が何を思い、どう受け取るのか。
それを想像するたびに、慧心は自分の心がますます小さくなっていくのを感じるのであった。
【次回】義徳は慧心に過去にやったことを一つ一つ全て口に出すことを命じ、作品の中で最大の鬱展開に…。




