枝垂れ桜
剛徳寺のお土産売り場で働いている照子が、突然住み込みで剛徳寺に暮らすこととなった。
照子の夫、勲の病状は予想以上に深刻だった。
脳出血による重篤な状態で、高額な治療費が必要とされていた。
予想外の高額な医療費がかさみ、家計は厳しさを増した。
家賃の支払いが困難になり、ついには電気・ガス・水道が止められてしまった。
照子には息子の颯一が居るが、四度加行の修行を行っている為、連絡することができない。
『しばらくの間だけでも、剛徳寺に身を寄せていただけないでしょうか……』
そう、相談を持ち掛けた照子に、住職の桂之助と僧たちは快く住み込みを許可した。
剛徳寺の一室で暮らすこととなった照子は、最低限の荷物を持って剛徳寺にやってきた。
しかし、照子はどれほど苦しい状況に置かれていても、決してその辛さを表には出さなかった。
いつも以上に明るく振舞い、周りに気遣う素振りを見せていた。
“大変なときこそ、笑っていなきゃね”
そう言い聞かせながら、剛仁の世話まで積極的に引き受ける照子。
剛仁をあやしながら、一緒に遊び、楽しげに過ごしていた。
その笑顔の裏には、夫の病状を案じる不安や、生活の困窮に対する焦りがあった。
食事の時間になると、照子は皆とともに食卓を囲んだ。
食堂には僧侶たちが静かに座し、いただきますの言葉と共に食事が始まる。
心のこもった料理が並び、皆が黙々と食べる中、照子も自然に箸を進めた。
しかし、その手は少し震えていた。
夜になると、一人静かな部屋に戻る。
そこには照子に用意された布団が敷かれていた。
誰もいない空間で、ふと心の支えを失ったような気持ちになった。
(勲……)
涙をこぼすまいと、強くまぶたを閉じた。
だが、溢れ出る感情は抑えられず、静かに嗚咽を漏らした。
照子は大正時代に勲と出会った頃のことを思い出した。
春爛漫のある日、六義園の枝垂れ桜が満開を迎え、その美しさが人々を魅了していた。
淡い桃色の花びらが春風に乗ってひらひらと舞い落ちる中、一人の女性が花柄の着物をまとい、そっと足を止めた。
その女性の名は照子。
照子は和の美しさを体現するかのような凛とした佇まいを持ち、控えめでありながらも芯の強さを感じさせる女性であった。
一方、その桜の下をゆったりと歩いていたのが、和服姿にカンカン帽をかぶった青年・勲であった。
彼は長身で端正な顔立ちをしており、どこか懐かしさを感じさせる雰囲気を纏っていた。
その瞬間、二人の視線がふと交わり、時が止まったかのように感じた。
ただの通りすがりのはずなのに、互いの存在が心に深く刻まれ、理由もなく惹かれ合ってしまう。
まさに運命の出会いであり、それが二人の恋の始まりだった。
恋に落ちた二人は、やがて逢瀬を重ねるようになり、共に過ごす時間が増えるにつれて、その絆はより深いものとなっていった。
しかし、二人の前には想像もしなかった幾多の試練が立ちはだかることとなる。
照子の父は、代々続く饅頭屋を経営しており、照子が結婚する相手には“この家業を継ぐこと”を絶対条件としていた。
それは商売としてではなく、一族の誇りであり、先祖代々守り続けてきた伝統そのものであった。
照子もまた、幼いころから家業を手伝い、その暖簾を守ることに強い使命感を抱いていた。
一方の勲は、まったく異なる世界で育ち、料理の経験などなかった。
しかし、愛する照子と結ばれるためには、その道を受け入れねばならなかった。
勲は意を決し、照子の父に弟子入りを願い出た。
最初は厳しい言葉を浴びせられたが、勲は決して諦めることなく、一から和菓子の修行を始めた。
早朝から深夜まで、粉まみれになりながら生地をこね、餡を炊く日々。
苦しい修行だったが、照子の笑顔を思えば耐えられた。
やがて、職人としての技術を少しずつ認められるようになり、このまま修業を続ければ、いずれは店を任せられるかもしれないと思えた矢先、とんでもない事件が二人を襲った。
ある日、とある神社で巫女として奉仕していた女性が、突然苦しみだし、倒れた。
すぐに駆けつけた人々の手当てもむなしく、息を引き取った。
死因は毒物によるものと判明し、警察は殺人事件として捜査を開始した。
その場に居合わせた人物の中に、勲の妹、恵子がいた。
恵子もまた巫女として神社に勤めており、事件の直前まで被害者と会話を交わしていたことが目撃されていた。
これが決定的な理由となり、恵子は『何もしてません』と訴えたが、有力な容疑者として逮捕されてしまったのだ。
勲は愕然とし、恵子の無実を信じつつも、世間の目は冷たかった。
照子の父は激怒し、結婚の話は完全に白紙に戻されてしまった。
事件はメディアにも取り上げられ、世間では「神社で起きた謎の毒殺事件」として注目を集めたが、決定的な証拠はなく、やがて捜査は難航。
勲の妹は証拠不十分で釈放されたものの、事件は未解決のままとなった。
警察はその後も捜査を続けたが、犯人とされる人物は特定されず、事件は迷宮入りしてしまった。
しかし、世間の疑惑の目は消えず、本当に冤罪なのか?という疑念が燻り続けていた。
この影響で、勲は饅頭屋での修行を続けることが難しくなり、一時は店を去ることを余儀なくされた。
照子もまた、愛する人と家族の間で苦しみながら、それでも勲への想いを捨てることはできなかった。
そして三年後。
時間が経ち、少しずつ世間の関心が薄れた頃、勲は再び饅頭屋に戻ることを許された。
照子の父も、彼の誠実な姿勢と努力を認め、ようやく二人の結婚を許したのだった。
結婚後、二人は子宝に恵まれ、家庭は幸せに包まれていった。
勲は職人として饅頭屋を支え、照子も店を切り盛りしながら、共に生きていった。
しかし、未解決の毒殺事件は、今もなお、彼らの心の奥底に影を落とし続けている。
時折、当時の事件が特集番組で取り上げられることもあり、そのたびに勲と妹は複雑な思いを抱くのだった。
真実はどこにあるのか。
犯人は誰なのか。
事件の謎は、いまだ解かれることなく、静かに時の流れの中に埋もれている。
照子は当時のことを思い出しながら、今後のことを考えた。
翌朝、何事もなかったかのように笑顔で現れる照子。
その姿に、澄子は少しだけ違和感を覚えた。
(いつもの笑顔じゃない)
そう思いつつも、照子の前向きな姿に声をかけることができなかった。
照子の新たな生活は、剛徳寺の中で静かに始まった。
翌朝、最蔵は封筒を手に照子のもとに訪れた。
『これを受け取ってください』
照子は封筒を見つめ、すぐに察した。
『最蔵……お気持ちはありがたいけど、これは受け取れないよ』
『私が子供の頃、照子さんには何度もご助力を賜りました。母を亡くしたばかりで、孤独と悲しみに押しつぶされそうになっていた際、照子さんが温かいお言葉をかけてくださいました。辛い時は、無理に笑わなくてもいいの。誰かに頼ることも大切なこと。あのお言葉が、どれほど私を救ってくださったか、計り知れません。これで勲さんの命をお繋ぎください』
最蔵の強いまなざしに、照子の心が揺らいだ。
最蔵の真剣な思いに、涙がこぼれそうになる。
『……ありがとう、最蔵』
封筒をしっかりと握りしめると、照子はすぐに病院へ向かった。
車を走らせながら、胸の奥で希望が膨らんでいく。
(これで勲の治療が続けられる。きっと、きっと助かる……!)
病院に到着し、息を切らしながら病室へ駆け込む。
勲はベッドの上で微笑みながら照子を見つめた。
『勲、治療しよう。これから先生に話そうと思うの』
しかし、勲はゆっくりと首を振った。
『……照子…………もう、いいんだ………』
『何言ってるの?まだこれからでしょう?これからまた、一緒に……ね?』
勲は震える手で、照子の頬をそっと撫でた。
『照子、ありがとう…………。愛してる……。桜の蕾は見れたけど、もう花が開く様子は見れないみたい。颯一を頼む…』
『……え?』
次の瞬間、心電図の音が途切れた。
『勲!!!!』
照子の叫びが病室に響く。
看護師が駆け寄り、医師が懸命に処置を施したが、勲は目を開けることはなかった。
照子は涙が止まらなかった。
それは、あまりにも残酷な運命だった。
最蔵の優しさも、照子の祈りも、勲の命を救うことはできなかった。
照子は静かに勲の手を握り締め、涙の中で勲に言葉を囁いた。
『私も、愛してる……勲……』
病室の前にある長い廊下は、深夜の静寂に包まれていた。
冷たい蛍光灯の光が床に伸びる影を映し出し、わずかに消毒液の匂いが漂っている。
照子は無意識のうちに両腕を抱え、震える手を押さえながら、ゆっくりと病院の公衆電話の前に立った。
ポケットから小銭を取り出し、震える指で硬貨を差し込む。
受話器をゆっくりと持ち上げ、ダイヤルを回す。
耳元で鳴る呼び出し音が、やけに遠く感じた。
最蔵の落ち着いた声が聞こえた瞬間、照子の中に張り詰めていたものが、一気に崩れた。
『……ごめんね……最蔵……』
その言葉とともに、涙が堰を切ったように溢れ出した。
『間に合わなかった……、助けられなかった……』
震える声で言うたびに、喉が詰まり、嗚咽がこみ上げる。
受話器を強く握る手が小さく震え、肩も震えた。
最蔵は、しばらく何も言わなかった。
しかし、その沈黙がかえって照子の悲しみを受け止めていた。
『……照子さん、謝らないでください』
ゆっくりとした、優しい口調だった。
『あなたの支えがあったから、最期まで穏やかにいられたはずです』
『……でも……』
『あなたは精一杯やりました。それで十分です』
『……颯一には……言えないの……』
涙を拭いながら、照子は震える声で続けた。
『颯一が修行している間は、家族が亡くなっても伝えちゃいけない……それが掟だから……でも、私は……私は……』
『…………………掟は掟です』
最蔵の声は、穏やかでありながらも、僧としての厳格さを帯びていた。
『颯一さんは今、修行の道を歩んでいます。どんなに辛くとも、その道を全うさせることが、我々の役目です』
『……わかってる……』
照子はゆっくりと息を吸い、涙を拭った。
『でも、帰ってきたとき……どうすればいいの? 颯一は、父が亡くなったことを知らないまま帰ってくる……その時、私は何て言えばいいの……?』
最蔵は静かに答えた。
『その時は、あなたの言葉で伝えればいい。きっと、颯一さんはすべてを受け止めるでしょう』
『……うん……そう、だね……』
涙をこぼしながらも、照子は小さく頷いた。
『……葬儀の準備をしなくちゃね……』
『私も手伝います』
最蔵の言葉に、照子は少しだけ微笑んだ。
『ありがとう、最蔵……』
通話を終え、照子は受話器を静かに置いた。
涙の跡を手の甲で拭い、ゆっくりと病室へと向かう。
もう、勲の温もりはそこにはなかった。
しかし、勲が生きた証は、照子の心の中に、そして颯一の未来の中に、確かに残り続けるはずだった。
剛徳寺の本堂には、静かな読経の声が響いていた。
線香の煙がゆるやかに天井へと立ち昇り、薄明かりの中で、まるで魂が静かに旅立つのを見送るかのようだった。
照子は喪服に身を包み、手を強く握りしめながら、祭壇に飾られた勲の遺影を見つめていた。
写真の中の勲は穏やかに微笑んでいる。
その笑顔を見れば見るほど、もう二度と声を聞くことができない現実が、胸を締めつけた。
『勲……』
心の中でそっと呼ぶ。
しかし、返事はない。
剛徳寺の住職・桂之助をはじめ、僧侶たち、勲と照子を知る親族や友人たちが集まり、ひとりひとりが勲に手を合わせていた。
読経が終わると、剛徳寺の本堂は静寂に包まれた。
照子は堪えきれず、声を上げて泣いた。
これまでどんなに辛いことがあっても、決して弱音を吐かなかった照子。
しかし今は、どんなに強くあろうとしても、その悲しみを抑えることはできなかった。
絞り出すような声が、本堂に響く。
最蔵は静かに立ち、言葉もなく、ただそっと照子の隣に寄り添った。
今、この悲しみの中で、どんな言葉をかけられたとしても、照子の心が楽になることはない。
慰めようとする言葉は、今は余計に苦しめるだけだ。
最蔵は何も言わなかった。
ただ、そばにいることで、照子がひとりではないことを伝えようとした。
涙を流し、肩を震わせる照子を見つめながら、最蔵の胸の奥にも静かな痛みが広がっていった。
最蔵も、母を失った経験がある。
そのとき、どれほどの言葉をかけられても、心の穴が埋まることはなかった。
それどころか、人の言葉が、どれほど辛かったか。
だからこそ、今、照子に言葉をかけられなかった。
ただ、隣にいることが、照子にとっての救いになるように。
また、四度加行の修行をしている颯一には、父の死を知らせることはできない。
修行中は俗世との関わりを断ち、たとえ家族が亡くなったとしても、それを知ることなく修行に専念しなければならない。
それが掟だった。
『颯一……、ごめんね…』
この悲しみを分かち合うことができないことが、何よりも辛いものだ。
颯一が修行を終えて帰ってきたとき、ちゃんと伝えられるのだろうか。
今はただ、勲を見送ることだけに集中していた。
そして、出棺のとき。
静寂の中、棺がゆっくりと運ばれる。
照子は最後に、そっと棺の中の勲の顔を見た。
『……勲……ありがとう……』
そっと手を触れ、静かに言葉をかけた。
勲の魂を送り出すかのように、春の風が境内の桜を揺らした。
微かな風が吹き込んでいる。
桜の花びらが舞い込み、ゆっくりと照子の肩に落ちる。
照子は涙に濡れた顔を上げ、そっとその花びらを指でなぞった。
『……勲……』
舞い散る花びらが、まるで勲の魂が空へと昇っていくように、ゆっくりと舞い上がっていった。
照子は微笑みながら、流れる涙を拭った。
(いつかまた、桜の下で会おうね……)
その声は、涙とともに、静かに空へと溶けていった。
剛徳寺の鐘の音は、遠くまで響き渡っていた。




