信仰
剛徳寺の朝は、いつもと同じように静かに始まるはずだった。
しかし、その日の空気はどこか違っていた。
清晨の澄んだ空気の中に一抹の異変が混じっているのを感じ取る者は、長く修行を積んだ者ほど敏感に察知する。
その静寂を破るように、天光堂から勢いよく走り出す一つの影があった。
法照だ。
法照は僧衣の裾を乱しながら、境内を駆け抜ける。
額には汗が滲み、口元は強張っている。
何かに追い立てられるような足取りだ。
普段の穏やかで冷静な法照の姿とは程遠く、その様子は一目で尋常ではないと分かるものであった。
桂之助の部屋の前にたどり着くと、法照は荒い息を整えようともせず、襖を開けた。
『和尚さん』
室内では、桂之助が筆を執り、静かに書をしたためていた。
微かな墨の香りが漂い、書の流麗な線が紙の上に刻まれる。
しかし、法照の突然の乱入により、その静寂が破られた。
桂之助はゆっくりと筆を止め、顔を上げた。
『どうしました?』
その声は落ち着いており、微塵も動揺を見せない。
法照の表情は焦りに満ちていた。
肩で息をしながら、震える声で言った。
『今日のヨガのことですが……今日はバキュラを休ませてください……』
桂之助は静かに法照の様子を観察した。
目の奥に宿る焦燥、握り締めた拳、そして今にも崩れ落ちそうな気配。
『何かありました?』
『実は……昨夜からバキュラの様子が……。とにかく、暴れていて……』
法照の声は震えていた。
桂之助は少し目を細め、ゆっくりとした口調で問いかけた。
『それで?』
法照は、さらに言葉を続けた。
『バキュラが私を襲いました。今日、ヨガに参加するわけにはいきません』
桂之助は静かに聞いていた。
『それを止めるのも法照さんのお務めです』
『………………えっ?』
桂之助の言葉に、法照の顔が一瞬固まった。
『自分で何とかしてください』
法照は絶句した。
『そ、そんな……』
桂之助は法照の戸惑いを見つめた。
法照に対しては、時に厳しく接する必要があると判断していた。
法照は本来、繊細で人の心に寄り添うことができる僧侶である。
しかし、法照の優しさは時として判断を鈍らせ、依存する傾向を生み出すことがあった。
困難に直面したとき、すぐに誰かに頼ろうとする姿勢。
それを桂之助は改めさせる必要があった。
このままでは、法照は自分で考えることをやめ、いざという時に判断を誤るかもしれない。
それでは僧侶としての本質を失ってしまう。
だからこそ、今、法照を突き放すことが必要な時間なのだ。
普段は温厚な桂之助だったが、必要とあらば心を鬼にすることを躊躇わない。
法照に対しては、今がその時だった。
法照の目は揺れていた。
『……ですが、私では……もう……どうにもなりません……………』
『あなたにしかできないことです』
桂之助の声は静かだったが、その一言には確かな重みがあった。
法照は息を呑んだ。
桂之助は再び筆を取ると、何事もなかったかのように静かに書をしたため始めた。
その姿は、まるで動じることのない大樹のように堂々としていた。
法照は拳を握りしめると、深く頭を下げ、踵を返して部屋を後にした。
桂之助は書の筆を進めながら、法照の背中を見送った。
(法照よ、努めよ、己を超えよ、精進せよ。真の僧侶になるのだ)
境内の外では、朝の陽がゆっくりと昇り始めていた。
剛徳寺では、今日もまた何かが起きる。
法照にとって、これは最大の試練だった。
これまでバキュラとは順調に交流を深め、慎重に祀ってきたが、今、天光堂の中では異変が起きていた。
法照は天光堂の扉をそっと開けた。
『ギュラララララ!!!!!!』
突風のような衝撃が襲いかかり、法照は反射的に扉を閉める。
バキュラは怒っている。
それも、尋常ではないほどに。
(いったい、何が……?)
息を整え、冷静さを取り戻した法照は、再び扉を開け、中へ足を踏み入れた。
法照はまず灯明に目をやった。
(しまった……!)
ロウソクの炎が消えている。
灯明は智慧と悟りの光の象徴。
それが消えているということは、バキュラがこの場が穢れたと感じた可能性がある。
慌てて新しいロウソクに火を灯す。
しかし――
『ギュラララララ!!!!!!』
バキュラの怒りは収まらない。
法照は次に供物の並びを確認した。
すると、果物の配置が左右逆になっていることに気づく。
(清らかなものを右、力強いものを左……本来の並びと逆だ……!)
急いで正しい位置に戻すが、バキュラの咆哮は止まらない。
法照の背中に冷たい汗が伝う。
(他に、何か……)
周りを見渡しながら、天光堂の掃除が行き届いているかを確認する。
香炉の中を覗くと、灰が溜まりすぎていた。
本来なら定期的に清めるべきだが、ここ最近、忙しさにかまけて見落としていた。
(これも原因か……?)
急いで香炉を清める。
だが、それでも――
『ギュララララララララ!!!!!!』
バキュラの怒りは消えない。
法照は焦りながら、ふと昨日の出来事を思い出した。
(まさか……!)
昨日、法照は何気なくバキュラの前でこうつぶやいてしまった。
『最近忙しくて大変です……』
その時はただの独り言のつもりだったが、バキュラはそれを聞いていたのかもしれない。
信仰を集める守護神であるバキュラにとって、僧侶が修行が大変などと口にするのは愚痴にも等しい。
ましてや、天光堂の神聖な場でそのような言葉を発したことが決定的な怒りを招いていた。
法照は膝をつき、深く頭を下げた。
『バキュラ、私の至らぬ行いの数々、心よりお詫び申し上げます。灯明を絶やし、供物の配置を誤り、祠の清めを怠り、さらには不敬な言葉を発してしまいました……。これより一層精進し、清らかな心でお仕えいたします』
静かに力強く誓いの言葉を述べる。
すると――
『……ギュララ……』
バキュラの咆哮が、次第に静まっていった。
法照は再び灯明を確認した。
炎は揺らめきながらも、今度はしっかりと燃えていた。
法照は改めて、自らの未熟さを痛感する。
僧侶として、信仰を守る者として、決して慢心してはならないのだと。
(バキュラ……ありがとうございます)
心の中でそう呟き、法照はそっと天光堂を後にしようと扉を開けようとした。
その刹那、天光堂の中でバキュラはなおも怒りを放ち、堂内の燭台の炎が激しく揺れ、風が渦を巻くように吹き荒れた。
“信仰の本質を見誤るな”
バキュラの気配が法照を圧倒する。
背筋を冷たい汗が伝い、震える手を必死に合わせた。
『申し訳ありません……!』
だが、バキュラの怒りは止まらない。
堂の梁がきしみ、床が不気味な音を立てる。
法照は、これまでの失敗を思い返した。
『供物の高さが違っていた……礼拝の手順も誤った……本当にそれだけかな?』
心の奥底で、別の声が囁く。
“お前は信仰を形だけのものとしていなかったか?”
法照はハッとした。
ただ決まりを守るだけで、バキュラへの真の敬意を忘れていたのではないか。
日々の作法に慣れ、それが当たり前になりすぎていたのではないか。
『バキュラ様……私は、ただ決まりを守ることだけに囚われ、本当の信仰を忘れていました』
床に額をつけ、心からの祈りを捧げる。
決まり事としてではなく、心の底からの謝罪と敬意をこめて。
すると、荒れ狂っていた風がふっと止んだ。
燭台の炎が穏やかに揺れ、堂内に静寂が訪れる。
バキュラは法照をじっと見つめた。
“万物に仏性が宿る。ようやく氣づいたか……”
バキュラの声が頭の中に直接響いた気がした。
試されていたのは、作法の正しさだけではなかったのだ。
信仰とは何か。
その本質を問われていたのだ。
法照は深く息をつき、改めてバキュラの御前に座した。
『ありがとうございます。私はもう、同じ過ちは犯しません』
その瞬間、天光堂の空気が清らかに風が吹く。
澄み渡るような静寂の中、バキュラの威厳ある存在感が優しく包み込むようなものへと変わっていった。
こうしてバキュラは、法照の成長を見届けたのだった。




