禅定 ー中編ー
剛徳寺に怒気をはらんだ空気が漂っている。
澄子、慧心、浄光、法照は無言のまま掃除へ戻った。
誰一人として息を乱さず、ただほうきの音だけが鳴り響いている。
微細な塵すら逃さぬように、研ぎ澄まされた動作で床を掃き清める。
しかし、背後から感じる気配は、まるで刀の切っ先が肌をかすめるかのように張り詰めていた。
桂之助は一歩、一歩重く静かに踏みしめながら歩き、心平と蒼太郎を僧坊へと導いた。
二人の足音も、わずかな衣擦れの音も、すべてがこのお寺の空気と溶け合うようだ。
その途中で犬の天ちゃんが蒼太郎を見てボールを加えて目の前に置き、遊んでとジャンプしながらアピールした。
『ほっほっほっ、この子は天ちゃんといって、このお寺の僧侶と関係者だけが見ることができるアイドル犬です。こんなに甘えん坊になっちゃって、天ちゃんにも人間の本性が判るようですなぁ、ほっほっほっ』
『……………………』
桂之助は笑顔で天ちゃんを紹介したが、蒼太郎は表情を変えずに吠える天ちゃんを見て無言で素通りした。
天ちゃんは遊んでほしくて何度も追いかけて目の前にボールを置いたが、残念そうにボールを加えたまま下を向きながら最終手段として寺務所へレッツゴーした。
いったい、なぜ天ちゃんは蒼太郎に遊んでほしいと訴えていたのだろうか。
そして宿坊の襖が、わずかに軋む音を立てて閉じた。
次の瞬間、世界が沈んだ。
風の流れが止まり、外の鳥の声すら遠のき、桂之助がゆっくりと座った。
心平は拳を握りしめたまま、視線を逸らすことなく父親を見据えている。
蒼太郎は、その目を真正面から受け止め、呼吸の奥で何かを押し殺すようにしていた。
ここで桂之助が口を開いた。
『まず、剛徳寺へお越しいただき、ありがとうございます』
その声は低く、静謐な水面に一滴の雫が落ちるように響いた。
心平の肩がかすかに震える。
蒼太郎は微動だにせず、桂之助を睨みつけた。
『感謝される筋合いも話し合う必要もございません。還俗の手続きを進めていただきます』
その言葉が宿坊の静寂を揺るがした。
心平の呼吸が浅くなる。
拳を握るが、爪が食い込む痛みすら感じなかった。
桂之助は動じなかった。
微細な空気の揺らぎさえも吸収するように、ただ静かに蒼太郎を見つめていた。
『本人の意思を無視して僧侶をやめさせるとはどういうことでしょうか』
その一言が、まるで深い鐘の音のように響いた。
桂之助の声は静かだが、逃げ場を与えない真剣な眼差しである。
蒼太郎は険しい目つきのまま、腕を組み始めた。
『考えるまでもありません。俗世に戻るということでしょう』
桂之助はゆっくりと首を振った。
『いいえ。それは修行を放棄させるだけでなく、心平さんの生き方そのものを否定する行為です。そして、心平さんが積み上げてきたものを無かったことにするということ。あなたは、その責任を負う覚悟がありますか?あなたの思い通りに事が運んだとして、苦しむのは心平さんだけではありません。あなた自身も、その痛みを背負うことになります』
蒼太郎の瞳が一瞬だけ揺らぐ。
『…………………』
桂之助の声がさらに静まった。
『仏門に入るとは、自分と向き合い続けること。それは、世間からどう見られるかではなく、己の心の奥底を照らし、問い続ける道です。あなたが世間体を気にするのは構いません。しかし、それを理由にして心平さんの道を奪うのは因果の理に反することでしょう』
その瞬間、部屋の温度が一段下がったかのように、張り詰めた空気が漂う。
蒼太郎は言葉を失い、心平は父親の横顔をじっと見つめた。
桂之助は再び口を開いた。
『話し合いの必要がないかどうか……、今一度、考えてみてはいかがでしょう?』
その言葉が響いた瞬間、時間が引き裂かれるように、お寺の空気が変わった。
蒼太郎は強い語気で言った。
『心平を、いますぐ連れて帰ります!』
心平は、胸の奥から湧き上がる感情を必死に押し込めた。
熱くなる喉をゆっくりと鎮め、震えそうになる指先を静かに握りしめる。
そして、まっすぐ父親の目を見つめ、冷静に一言だけ告げた。
『帰りません』
蒼太郎の顔が一瞬で怒りに染まった。
『ふざけるな!』
低く、鋭い声が宿坊の静寂を切り裂いた。
拳を固く握りしめ、肩を震わせながら、蒼太郎は叫んだ。
『お前は何を言っているんだ! 家族がどれだけ恥をかいていると思ってるんだ! これ以上、世間に恥を晒さないでくれ!さぁ、こんな馬鹿げた真似を今すぐやめて、家に戻るんだ!』
桂之助は、ゆっくりと静かに首を振った。
『恥、とは何でしょうか? 仏法の前に、優劣や貴賤はありません。どのような人も仏性を持ち、それぞれの道の上に仏がいます。もし心平さんの行いが人を傷つけ、迷わせるものならば、それは誡めねばなりません。しかし、心平さんは自分を偽ることなく、正直に生きてます。そのどこに、恥じることがあるのでしょう』
蒼太郎は、憤然と桂之助を睨みつけているが、桂之助は冷静である。
『世間はそう思わない。 人は見た目や立場で判断するんだ。それが現実だ』
桂之助は目を閉じ、ゆるやかに法を説いた。
『仏法において、すべてのものは縁によって存在し、完全なるものではありません。一念三千という教えもございます。あなたが心平さんの生き方を否定することは、無限の可能性を断ち切ることに他なりません。心平さんは、生を用いて仏の道を歩まれております。それがたとえ、あなたの価値観と異なっていたとしても、あなたが心平さんの将来を決める権利など一切ございません』
これに対し、蒼太郎は苛立ったように吐き捨てた。
『そっ……、そんな綺麗事を言われても困りますよ! 現実は理想では生きていけないのですからね…』
『現実こそが仏の世界であり、迷いの世界でございます。仏は衆生の世界に降り、さまざまな形で法を説かれております。これを四悉檀といいます。すなわち、人に合わせて法を説き、心を救い、真理を示し、最終的に仏の教えに導くのです。心平さんはその方法のひとつとして、配信を用いております。それによって、剛徳寺や仏法に興味を持つ人が増え、救われる人もおります』
『ふんっ!くだらん!そんなものが本当に意味があるとでもいうのかね?』
桂之助は厳しい目で蒼太郎を見つめた。
『仏の智慧を教えましょう』
蒼太郎は息をのんで桂之助の話を聞いた。
『この世に生きるすべての者が、それぞれの仏性を持ち、それぞれの縁の中で生きています。円融三諦の教えのもと、この世界には真理と俗世が調和して存在する。心平さんの行いが、ただの遊びに見えたとしても、それが誰かを救っているのならば、あなたにそれを否定することはできないのです。天台の教えは法華一乗、すなわちすべての人が仏となる可能性を秘めているというものです。もし、あなたが心平さんを否定するならば、それは彼の未来だけでなく、あなた自身の仏道をも閉ざすことになるのではないでしょうか』
蒼太郎の手が小さく震え、沈黙が降りる。
そして蒼太郎の肩が、わずかに落ちた。
そこで、心平がそっと言った。
『私は自分が選んだ道を歩むよ。お父さまの言う恥が何なのかは、私には分かりません。私はここで、沢山の人と出会って仏教を学んで……、ようやく、自分がどう生きるか見つけました』
桂之助は微笑んだ。
『仏法は、まさにこの瞬間にあります。迷いながらも、一歩を踏み出すこと。それこそが、仏の道です』
『ここには人間を何度も襲ったバキュラというバケモノもいたな。こんな恐ろしいお寺に心平を置いとくわけにはいきません』
桂之助はその言葉に鋭い眼光を蒼太郎に向け、低くも揺るぎない声で言った。
『バキュラですか』
蒼太郎は拳を握りしめ、荒い息のまま続けた。
『そうだ! 何度も人間を襲った化け物がいるだろう! そんな危険な場所に心平を置いておけません』
桂之助は静かに立ち上がり、まるで堂宇そのもののように揺るがぬ姿で告げた。
『……あなたが恐れているものは、バキュラではありません』
『なっ…、なに……?』
『あなたが本当に恐れているのは、心平さんがあなたの期待通りの息子ではないという現実でしょう』
『……………………』
蒼太郎の表情が強張った。
『バキュラとは何か。何度も人を襲った化け物とは何か。その正体は、あなた自身が心平さんに押し付けてきた、こうでなければならないという価値観ではありませんか?』
『あ……、あんなの怪物だろう!』
宿坊の空気が張り詰める。
『剛徳寺に怪物などおりません。だが、あなたが生み出した怪物は確かに今ここにいる』
蒼太郎は言葉を失った。
絞り出すような声で吐き捨てる言葉も出ない。
確信めいた怒りもない。
桂之助の言葉が蒼太郎の奥底に巣食う何かを突いていた。
『心平は私の息子だ。親として当然のことをしているだけだろう!』
『あなたの言う“親としての当然”とは、心平さんを理解することなく、自分の価値観に従わせることですか?』
『うちには月光と日光がいるんだ! 兄弟が大事な時期に心平が恥を晒して……、それでどうなるかくらい想像がつくだろう!』
顔を真っ赤にして叫ぶ蒼太郎。
『それは、誰にとっての恥ですか?』
桂之助の声が少しだけ鋭さを増した。
『世間の………』
蒼太郎の言葉が詰まる。
桂之助はその一瞬の沈黙を逃さなかった。
『あなたは心平さんの人生を生きてるのでしょうか?月光さんと日光さんもあなたと同じように恥だと言っておりますか?私は、そうは思いませんけどなぁ……』
蒼太郎の表情が固まる。
桂之助は言葉を継いだ。
『あなたの人生は、あなたのものです。そして、心平さんの人生も、心平さんのものです。親であっても、我が子の人生を支配することはできません。親ができることは、我が子の決断を見守り、必要なときに手を差し伸べること。それが親の在り方ではありませんか?』
『…………………!!!!』
蒼太郎はその場に立ち尽くした。
そして、お腹が鳴った。
蒼太郎の顔が一瞬、強張った。
『べ、別に腹なんか……』
しかし、その言葉を遮るように、再びお腹が大きく鳴る。
ごんごろごろぎゅぐぅぅぅぅ……。
心平はそれを聞いて、期待を裏切られたことを含めて実際のところ、何も食べずに来るほど自分のことを心配して来たのかもしれないと思ったが、桂之助の静かな視線に気づき、口を噤んだ。
桂之助は柔らかく微笑んだまま言った。
『心平さんのことを思い、朝から何も口にされていないのでしょう。どうか、私たちと一緒に朝ごはんを召し上がってください。温かいごはんを食べれば、心もきっとほぐれますよ。それから、改めて話すとしましょう』
蒼太郎は腕を組んだまま、しばらく押し黙った。
しかし、空腹は誤魔化せない。
やがて、小さくため息をつき、しぶしぶと口を開た。
『……まあ、……少しぐらいなら……』
『ほっほっほっ、その前に朝のお勤めじゃ。朝のお勤めや食事を通して、心平さんが本気で仏道を歩もうとしていることが伝わるでしょう。さぁ、レッツゴーじゃ!レッツゴー!』
そう言いながら、桂之助は軽やかに袖を翻し、まるで何も問題がなかったかのように明るく先導した。
果たして、蒼太郎の心は揺らぐのか。
それとも、父親としての誇りと執念が、最後まで彼を突き動かすのか。
長い長い廊下を歩く足音が静かに響く中、蒼太郎はただ目を閉じ、心平の背中を見つめていた。
その答えが出るのは、まだ少し先のことになりそうであった。




