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禅定 ー後編ー

朝霧がゆっくりと晴れゆく剛徳寺の境内。

真っ白な雪が朝日に照らされ、きらりと輝いている。

澄んだ空気の中、読経の声が静かに響き渡る。

蒼太郎は僧侶たちの動きに目を凝らしていた。

心は、まだ固く閉ざされたままだ。

だが、この静寂の中で何かが少しずつ変わり始めていた。


『むじょう~じんじ~んみみょう~のほう~は~』


『ひゃく~せ~んま~んごう~にも~あい~あう~こと~かた~し~……』


本堂に響く読経の声は、静寂とともに堂内を満たす。

灯籠のほのかな明かりが揺れ、線香の香りがかすかに漂う。

僧侶たちは一糸乱れぬ動きで経典をめくり、大きな声で読んでいた。


心平もまた、まっすぐな背筋を保ち、堂々と読経を続けている。

その姿は、蒼太郎が知るかつての息子とはまるで別人であった。


(こんな顔もするのか……)


蒼太郎は思わず息をのんだ。


子どもの頃から、周りに合わせることが苦手で、何かと言えば自分を抑え込んでいた心平。

その心平が、今は迷いのない表情で僧侶としての務めを果たしている。


僧侶たちの声が堂内に響き渡る。


蒼太郎の中に、これまで感じたことのない感覚が広がっていく。

それは、静かで確かに胸の奥を揺さぶるものだった。

しかし、まだそれを認めるわけにはいかなかった。


(こんなものに惑わされてたまるか……!)


ギリ、と奥歯を噛みしめる。

だが、その手は、無意識のうちに膝の上で震えていた。


堂内に響く読経の声。

普段の表情とは違う僧侶たちの姿。


その中心で、心平が僧侶としての役割を全うしている。


真剣な眼差し。

揺るぎない姿勢。

剛徳寺全体が一つになるこの瞬間。


蒼太郎の知る息子は、ここにはいなかった。

だが、違う。

確かにそこにいるのは心平だ。

だが、それは蒼太郎がこうあってほしいと願っていた息子ではない。


僧侶たちは静かに読経を終え、すぐに移動した。

朝のお勤めの余韻を残したまま、それぞれの役割へと移行。


そして、食事の準備が始まった。


『蒼太郎さんも手伝っていただけますか?』


桂之助が穏やかに声をかけた。

蒼太郎は戸惑いながらも、促されるままに台所へ向かった。


そこには、無駄のない動きで淡々と調理を進める僧侶たちの姿があった。


とても静かだ。

鍋の湯が沸く音、包丁がまな板を打つ音、炊きたてのご飯の湯気。

会話もなく、それでいて厳かで、どこか温かい。


蒼太郎は思わず息をのんだ。


この静寂の中にあるものは何なのか。

心平は、この世界で生きているのか。


蒼太郎はエプロンを受け取り、言われるがままに野菜を切り始めた。

ぎこちない手つきで包丁を握る。

隣では心平が淡々と手を動かしていた。

蒼太郎は、ごぼうを洗いながら、ふと問いかけた。


『料理は楽しいと私の妻は笑顔で言うけど、実際にやってみると大変だな。どんなに眠ても弱音を吐かず、これを毎日やっていると思うと私は妻に文句を言いすぎたな……』


心平は手を止めず、少しだけ微笑んだ。


『私もここに来るまでお料理は全くやったことなかったけど、ここに来て初めてお母さまに感謝したよ』


かつて当たり前のように出された食事。

その裏にあった手間や気遣いに初めて氣づいた。

蒼太郎は不器用に野菜を刻みながら、静かに言った。


『明日から洗い物は私がしよう…』


『明日からではなく今日からしよう』


『そ、そうだな……』


『お母さまより先に動かないとだめだからね。お父さまは椅子に座ってる時間が長すぎるよ』


『余計なことを言うんじゃない。全く…、私の変なところばかり似るんだから』


『えへへ』


台所に差し込む朝の光が、二人の小さな変化をやさしく包み込んでいた。

何気ない親子の会話を聞いていた最蔵は、静かに微笑みながら手際よくにんじんを切っていた。

蒼太郎の心は少しずつ変化し始めていた。


包丁の音が規則正しく響く。

その佇まいはどこか温かく、まるで二人の時間を見守るようだ。


やがて、最蔵は軽く息を吐きながら、ふっと呟いた。


『料理というのは、不思議なものでしてね』


蒼太郎と心平が顔を上げる。


『作る人の心が、そのまま味になるものなのですよ』


最蔵は穏やかな眼差しで二人を見つめると、また黙々と包丁を動かし始めた。

鍋の中で湯気が立ち上り、剛徳寺の台所には、静かでやさしい時間が流れていた。


蒼太郎は最蔵の言葉を聞き、思わず手を止めた。


『作る人の心が、そのまま味になる……か』


小さく呟きながら、ふと昔のことを思い出した。

仕事で忙しく、家ではほとんど何もしなかった自分。

疲れて帰宅すると、妻が黙って食事を出してくれた。

いつも当たり前のように受け取っていたが、妻の料理の味が変わった日があった。


『あの日の味は……苦かったな』


それは夫婦喧嘩をした翌日。

仕事のストレスを妻にぶつけてしまい、険悪な空気のまま家を出た。

帰宅して口にした味噌汁は、しょっぱくもなく、薄くもなく、ただ妙に苦く感じた。

妻の心が、そのまま味に出ていたのかもしれない。


そんな記憶を思い出しながら、蒼太郎は目の前の鍋を見つめた。


『……なら、今の俺の作る料理の味はどうなんだろう』


心平はそんな父親の様子を横目で見つつ、手を動かし続けた。

剛徳寺に来てから、心を込めて作ることの大切さを知った。

最初は義務感だったが、今では一皿一皿に感謝の気持ちを込めるようになった。


『お父さま、もうすぐ味噌を入れるよ。味見、してみる?』


そう言って、試食用皿を手渡した。

蒼太郎は戸惑いながらも受け取り、そっと口をつけた。


しばらく沈黙した後、蒼太郎はぽつりと呟いた。


『……あたたかい』


心平は小さく微笑み、最蔵は静かに頷いた。

こうして、剛徳寺の朝は静かに変化の兆しを見せながら進んでいくのであった。


食事が完成し、朝食の席に着くと、僧侶たちは整然と座り、静寂の中に厳かな空気が流れていた。

蒼太郎も席につき、落ち着かない様子で周囲を見渡しながらも、周りの動きを真似て手を合わせた。


桂之助がゆっくりと口を開く。


『吾今幸(われいまさいわい)に……』


僧侶たちが一斉に手を合わせ、低く澄んだ声で唱え始めた。


『仏祖(ぶっそ)の加護(かご)と衆生(しゅじょう)の恩恵(おんけい)によって、この清(きよ)き食(じき)を受(う)く。つつしんで食(じき)の来由(らいゆ)をたずねて、味の濃淡(のうたん)を問わず。その功徳を念じて品(しな)の多少をえらばじ。いただきます』


唱え終えると、静かに箸を取り、食事が始まる。


蒼太郎は最初の一口を慎重に口に運んだ。

噛みしめるたびに、米の甘さがじんわりと広がる。

味噌汁は優しく体に染み渡り、野菜の煮物にも深い味わいがあった。


静かに食事を続けた。

目の前の食事に意識を集中させ、一口ずつ丁寧に味わった。


蒼太郎はふと、昨晩の自分を思い出す。

怒りと不安でいっぱいだった心が、今は驚くほど静かだ。


心を込めて作られた食事を心を込めていただく。

たったそれだけのことが、こんなにも心を落ち着かせるとは思わなかった。


食事が終わると、僧侶たちは再び手を合わせた。


『われ今、この清き食(じき)を終わりて、心ゆたかに力(ちから)身(み)に充(み)つ。願(ねが)わくは、この心身(しんじん)を捧(ささ)げて己(おの)が業(わざ)にいそしみ誓って四恩(しおん)に報(むく)い奉(たてまつ)らん。ごちそうさまでした』


桂之助が静かに目を開け、蒼太郎の方を向いた。


『さて、蒼太郎さん。今のお気持ちはいかがですか?』


蒼太郎は箸を置き、しばらく考え込んだ。


そして、小さく息を吐きながら、ゆっくりと答えた。


『……考えさせてくれ』


桂之助は微笑み、心平も静かに父親を見つめていた。

食事が終わると、僧侶たちは無言のまま立ち上がり、手際よく後片付けに移った。


蒼太郎はそんな様子をじっと見つめていた。

誰一人として嫌そうな顔をすることもなく、むしろ淡々と無駄なく動いている。


最蔵が静かに蒼太郎へ声をかけた。


『さあ、洗い物をしましょう』


『はい』


蒼太郎は袖をまくり、台所へ向かう。

桶の中には、きれいに食べ終えた器が並んでいた。


桂之助が湯を張った桶を差し出す。


『まずは、この湯で器についた油を落とします』


蒼太郎は言われるがまま、器をそっと湯の中へくぐらせた。

ぬるま湯が手に心地よく染みる。


『……不思議だな』


蒼太郎はぽつりと呟いた。


『どうしました?』


最蔵が尋ねる。


『こんな単純な作業なのに、なんだか落ち着く。……いや、心が整理されていく感じがする』


桂之助が微笑みながら頷いた。


『洗い物はただの後片付けではありません。一つ一つの器に心を込めて洗い、整えることで、自分の心も整っていくのです』


蒼太郎は、その言葉を噛みしめながら、丁寧に器を洗い続けた。

心平も隣で静かに手を動かしている。


父と息子。

長年すれ違ってきた二人が、同じ水に手を浸し、同じ器を丁寧に洗っている。

それは、ほんのわずかだが、確かに縮まった距離のように思えた。


外は完全に朝になり、続々と観光客が現れ始めた。

澄子はお寺の裏方として、剛徳寺の運営サポートや事務・会計・報告活動や寺院行事・法要の準備と運営などの重要な役割を果たしていた為、この日から、お土産売り場では照子が一人で接客することになった。


『あのお土産売り場は一人で接客しているのか……』


『はい、面接時でテストに合格できた者しか、あの店に立つことは許されません』


『……なんだね、それは?こだわりが強すぎるのではないのかね』


『うっ……、それは……』


蒼太郎に正論を言われ、珍しく小さくなる最蔵。


そして、心平が観光客へ剛徳寺の案内をすることになった。

本堂の前に立った心平は、一度深く礼をし、静かに口を開いた。


『皆さま、おはようございます。本日は剛徳寺へようこそお越しくださいました』


観光客たちが静かに耳を傾ける中、心平の配信を観てお寺に足を運んできたファンが口を開いた。


『配信観てます!前乗りで鹿児島から来ました!』


『あら、遠くから。ありがとうございます。今日は特別に生歌も披露しましょう』


『きゃーっ!うれしい!きゃーっ!』


『しーっ、最後のお楽しみ♪』


蒼太郎も少し後ろに立ち、息子の姿を見つめていた。


『剛徳寺は今から約七百年前のお寺です』


心平の声は落ち着いており、どこか温かみがあった。


『剛徳寺では仏道の修行だけでなく、皆さまの心が安らぐ場を提供したいと考えています。写経、座禅、精進料理などの体験を通して、日々のできごとを改めまして、自分自身と向き合う時間を過ごしていただければ幸いです。本日、皆様には写経・ヨガ・止観の体験をしていただきます。写経は、ただ経文を書くことではなく、一筆一筆に心を込め、無心になって仏さまと向き合う時間です。筆を持ち、心を落ち着けることで、普段気づかない自分自身の思いや感情が見えてくることもありますよ』


観光客の中には、少し緊張した表情を浮かべる人もいたが、心平が優しく微笑みながら続ける。


『上手に書くことが目的ではありません。ただ、心を込めて、一文字ずつ書いてみてください。それでは、ご案内いたします』


こうして、観光客と共に写経体験が始まった。

畳の上に整然と並べられた机には、硯、筆、半紙が用意されている。


観光客たちは緊張した面持ちで筆を持ち、硯に向かった。

蒼太郎も見様見真似で筆を手に取る。


『……緊張するな』


ぼそっと呟くと、心平が小さく微笑んだ。


『最初はみんなそうですよ。焦らず、一文字ずつ書いてみてください』


静寂の中、墨を含ませた筆が半紙の上を滑る。

蒼太郎は、ゆっくりと一文字目を書き始めた。


思ったよりも、難しい。


筆先が思うように動かない。

線が歪み、墨が滲む。


こんなに集中して字を書いたのは、いつぶりだろうか。

観光客の中にも、最初は戸惑いながらも、徐々に筆を進める者が増えていく。

堂内は墨の香りと、静かな筆の音だけが響いている。


やがて、書き終えた人から静かに筆を置き、合掌する。


写経は、上手に書くことが目的ではなく、大切なのは、無心になって一筆一筆に心を落ち着かせること。

蒼太郎は自分の書いた文字を見つめた。

決して綺麗ではないが、どこか自分の心が映し出されているような気がした。


父と息子が並んで写経をする。

これまで考えたこともなかった光景が、今ここにあった。


写経が終わり、静寂に包まれた部屋に、軽やかな空気が流れ始めた。

次の活動はヨガの時間だ。

参加者たちが動き始めたその瞬間、突然、重厚な扉が開かれ、見慣れない影が現れた。


バキュラが堂内に足を踏み入れると、その存在感が一気に部屋を染め上げる。

大きな体、やわらかくてぷにぷにした皮膚、そしてチャームポイントの特徴的な丸い目。

まるで精霊のようなその姿に、蒼太郎は思わず声を上げ、すぐに一歩下がった。


『ひぃっ!!!!』


『バキュラちゃーん!!!!きゃーっ!!!かわいいーっ!!!!きゃーっ!!!!』


それを見ていた観光客たちは、顔を輝かせながら近づき、手を伸ばしてバキュラの皮膚をそっと触ったり、記念に一緒に写真を撮ったりしている。

しかし、初めてその姿を見る者にとっては、どうしてもその大きさや不思議な雰囲気に圧倒され、一歩引くのが常だ。


『ほんとにプニプニしてる!触ってもいいんですね!』


『ギュラ~』


楽しげに声を上げると、バキュラはのんびりと反応し、体をリラックスさせながら嬉しそうにうなずく。


蒼太郎はその光景を少し離れた場所から見守りつつ、まだ少しビクビクしている様子だ。


『触っても大丈夫なのか…?』


蒼太郎は呟きながら、少しずつその場の雰囲気に馴染んでいく。


バキュラがまるで蒼太郎の不安を感じ取ったかのように、蒼太郎の方を向いて穏やかな表情を浮かべている。

その優しい目に、蒼太郎は次第に心が和らいでいく。


蒼太郎は少しずつ近づいていくが、いまだにどこか緊張した表情を崩せないでいた。

バキュラはその様子に気づいたのか、ほんの少し首を傾げ、蒼太郎に向かってゆっくりと歩み寄る。


バキュラは穏やかに蒼太郎の手を軽くスリスリと当てるだけだった。

その触れ合いに、蒼太郎は驚きつつも、少しだけ安心したような表情を浮かべた。


『あれ…?なんだか嫌なことが忘れていくようなポカポカした気持ち……』


と蒼太郎がぽつりと呟いた瞬間、バキュラは自分の体を軽く揺すり、プリプリとした音を立てた。

それは、まるで蒼太郎を歓迎するかのように聞こえた。

だが、それはまさかの小さくてかわいらしい屁だった。


周囲の観光客たちはその様子を見て微笑んでいたが、蒼太郎の心情は少しずつ変わり始めていた。


『バキュラと居ると優しい気持ちになれるよ』


と、自然に口にしてしまう。


その時、蒼太郎はふと周囲の雰囲気に気づいた。

すでにみんながヨガマットを広げ、姿勢を整え始めていた。

バキュラが少し退いた後、蒼太郎は自分もマットを広げ、ヨガを始める準備をした。


ヨガの先生は、なんと、バキュラだ。

バキュラは言葉を話すことはできないが、静かに指導を始めると、室内の空気は再び静寂に包まれ、みんながひとつのリズムで体を動かし始めた。

蒼太郎もバキュラの動きに合わせて、少しずつ緊張を解いていく。


そして、ヨガが進む中、蒼太郎は気づいた。

最初の緊張から少しずつ解放されていく感覚。

動きが心地よく、体の奥深くにまで届くような感覚が広がった。

バキュラが言葉にならない不安を取り除いてくれた優しさが、今度は自分の心の中に広がり、包み込んでいるようだった。


心も体も軽くなったみたいだ…、と心の中で思い、静かに目を閉じる。

今、蒼太郎は何か新しい感覚を味わっているようだった。

バキュラが穏やかな表情で更に難易度を上げて指示を出し、みんながゆっくりと体を動かし始める。

蒼太郎もその流れに乗るが、少し無理に姿勢を取ろうとして、足が少し滑った。


『おっと…!うわっ?!うわぁ!!!』


その瞬間、蒼太郎がバランスを崩して後ろに倒れそうになり、顔が驚きとともに一瞬引きつったが、すぐに柔らかい笑顔を浮かべた。

床に手をつきながら、まるで自分の不器用さに気づいたかのように軽く笑う。


『あはは、ちょっと…やりすぎたみたい』


その声に、周りの仲間たちも一斉に笑い声を漏らす。

蒼太郎は顔を赤くして、少し恥ずかしそうに体勢を戻しながらも、笑顔は止めなかった。

そして再び体を整え、ゆっくりと深呼吸をした。


その瞬間、空気が一層和やかになり、みんなの心が少し軽くなったような気がした。

蒼太郎の笑顔が、どこか愛される存在としてみんなに温かなエネルギーを与えているようだった。


蒼太郎がヨガの後、次の修行が始まると聞いて少し驚いた。

部屋の中は再び静寂に包まれ、みんながそれぞれの場所で正座をするように言われた。

蒼太郎は指示通りに正座をして、背筋を伸ばした。


『これからは止観を行います。剛徳寺は天台宗ですので、座禅のことを止観といいます

。目は完全に閉じず、下に向けてください』


心平が静かに告げる。

蒼太郎は心の中でその意味を考えた。

止は心を静めること、観は物事を観察すること。

要するに、何も考えずに心を落ち着け、ただ目の前の事物をありのままに観察することなのだろうか。


『心を無にすること。息を整え、心を静めることから始めましょう』


心平が穏やかな声で説明を続けた。

蒼太郎は呼吸を整えようとした。

深呼吸をしてみたが、思った以上に難しい。

息を吸っても、吐いても、次々と考えが浮かんできて、心が落ち着かない。

それどころかさっきまで気にならなかった音がよく聞こえてくる。


蒼太郎は感じた。

雑念が浮かんでは消え、また新たな思考が顔を出す。

無理に考えを止めようとしなくていい。

ただ、心が浮かんできた考えを、あたかも外の風景を見ているように、ただ観察するだけでいいのだと。


蒼太郎は再び深呼吸を試みる。

今度は浮かんだ考えを拒絶せず、ただ受け入れてみる。

自分の心が感じる雑念や不安を、ただ観るだけのこと。

浮かぶ思考に抵抗せず、そのまま静かに流れていくのを見守った。


心を静めることは簡単なことではないが少しずつ、雑念を手放す感覚がわかってきた気がした。

蒼太郎は、そう感じながら、再び呼吸を整えた。


時間が経つにつれ、心の中の波が徐々に静まっていくのを感じた。

それは、まるで海が穏やかになっていくような、静かな変化だった。

心が少しずつ落ち着き、思考が散らばらずに一つにまとまっていく。


その静寂の中で、蒼太郎は初めて止観の意味を少しだけ理解したような気がした。

心を止めること、無理に何も考えずに、ただその瞬間の自分を受け入れること。

その感覚が、自分の中に少しずつ根付いていった。


その後、心平は穏やかな表情で歌の準備を整え、観光客を前に静かに立ち上がった。

心平の心はすでに深く沈み、歌う準備が整っていた。

空気がほんの少し静まり返ると、心平はその澄んだ声で生歌を披露し始めた。


歌声は、まるで寺の庭に響く風のように優しく、聴く者の心に静かな波紋を広げていった。

その歌詞の一つ一つに、心平の修行の成果や、仏教の教えが込められているようだった。

観光客たちは、その美しい歌声に酔いしれ、自然と静かに耳を傾けていた。


歌が終わると、観光客たちは拍手を送り、心平を称賛した。

心平は軽く頭を下げ、照れくさそうに微笑んだ。

その笑顔には、日々の修行で得た心の平穏と、何事にも動じない安定感が滲み出ていた。


心平は歌を通じて、自分自身の成長を観光客と共有したのだ。

その歌声は、ただのパフォーマンスにとどまらず、仏教の教えに基づく心の静けさと深さを伝える手段となり、観光客たちにとっても忘れがたい体験となった。


観光客たちは心平の歌声に心を打たれ、しばらくの間その余韻に浸っていた。

静かに席を立ち、ひとりひとりが感謝の言葉を口にしながら、お寺の敷地を後にしていく。


『ありがとうございました。本当に素晴らしかったです』


『お寺の雰囲気、そして心平さんの歌、どちらも心に残ります』


『また来ますね、次はもっと長く滞在したいです』


そんな言葉を交わしながら、観光客たちはゆっくりと出入口に向かって歩き出した。

お寺の静かな空気が再び戻ってきて、まるで今しがたの出来事が夢のように感じられるほどだった。


心平も静かな笑顔を浮かべながら観光客の一人一人に軽く頭を下げ、見送った。

その一瞬一瞬が、どれもかけがえのないものだと感じながら。

修行の一環として、このような交流が持てることに心から感謝していた。


そして、観光客たちがすべて去った後、寺内は再び落ち着きを取り戻し、静かな時間が流れ始めた。

心平は深呼吸を一つし、寺の庭を見渡すと、しばらくその風景に目を凝らしていた。


『次に何かが始まるだろう』


心の中で、そんな思いがふと湧いた。


その静けさの中で、心平はまた一つ、新たな修行の一歩を踏み出す準備が整ったのだ。


それからお昼が過ぎ、寒い冬の午後、温かな部屋で、僧侶たちが集まり、手に持った小さなチョコレートの塊を頬張りながら、幸せそうに笑顔を浮かべていた。


『今年のバレンタインも沢山チョコ貰いましたね』


『うわぁ!すごい量!お菓子の国にやってきたみたいだぁ!』


甘い香りが部屋中に広がり、誰もがその一口を待ちきれない様子だった。

そんな中、ただ一人、静かにその光景を見守っていた者が居た。

バキュラだ。

その姿は、まるで幼い子どものように純粋で、何もかもが新鮮に映るような存在だ。


バキュラは、他の僧侶たちと違って、チョコレートを手に取ろうとはしない。

ただ静かにその場に座り、目の前のチョコレートをじっと見つめていた。

僧侶たちは、夢中でチョコレートを楽しんでいるが、バキュラは一向に手を伸ばさなかった。


だが、そんな中、ひとりだけ、その異変に気づいた者がいた。

周囲が次々とチョコレートを楽しむ中、ただ一人、バキュラが食べていないことを不思議に思ったのは、あの人だった。

無言でその様子を見守りながら、何かを考えていた。


なぜバキュラは食べないのか。


それは、ただの興味ではなかった。

そこには何か深い理由があるに違いないと、感じ取っていた。


『もしかしたら、バキュラにはチョコレートを食べる方法がわからないのかもしれない』


そんな思いが心に浮かんだ。


バキュラは、チョコレートを触っているものの、食べようとはしない。

手のひらで軽くチョコレートを握りしめ、考え込むようにじっと見つめていた。

どうして食べないのか、その理由が少しずつ浮かび上がる。

バキュラの口には歯が四本しかない。

そして、人間と違って体温もない。

固いチョコレートをうまく噛み砕くことができないのではないか、また、口の中で溶かすことができないのではないか。

それを思い至った瞬間、心の中で決意を固めた。


ならば、温めたらいい。


すぐに立ち上がり、お皿にチョコレートをのせて後ろの電子レンジに入れて温めた。

そして、電子レンジから出してチョコレートが溶ける様子をじっと見守りながら、慎重にかき混ぜ、バキュラが食べやすい状態に仕上げていった。

蒸気が立ち上る温かなチョコレートを、少し冷ましてから、再びバキュラのもとに戻った。


スプーンで少し取ったチョコレートを自分の指先で舐め、温度を確認する。

その甘さと温もりが、バキュラにもきっと喜ばれるだろうと確信を持って、ホットチョコレートをバキュラの前に置いた。

そして、指でチョコレートを取って舐めるジェスチャーを見せた。


バキュラは、最初は少し驚いた様子でその動作を見つめたが、すぐに理解したように、同じように手にホットチョコレートをつけて舐め始めた。

バキュラの顔には、次第にその純粋な喜びが広がり、口の周りにチョコレートをつけながら、目を輝かせて笑顔を見せた。


その瞬間、心がホットチョコレートになった。

何気ないひとときの中で、バキュラが嬉しそうにチョコレートを舐める姿に、安堵の息を漏らした。

そして、バキュラがホットチョコレートを楽しむ様子を、ただ静かに見守りながら、共にその甘さを味わっていた。


その時、何も言わずにただバキュラの笑顔を見つめる瞳に、やわらかな優しさが広がっていた。

言葉では表せないほどの温かさが、二人の間に確かに存在していた。


時間がゆっくりと流れ、部屋の空気がひとしずく、そして心地よい。

誰も見ていない場所でバキュラを笑顔にし、静かな幸せを共有していたのは蒼太郎であった。


挿絵(By みてみん)

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