中道ー前編ー
徳密が剛徳寺から三重県へ帰省した後、雨が止み、澄子は朝の静けさの中で目を覚ました。
澄子はすぐに顔を洗い、鏡の前で自分の表情を整えた。
薄暗い廊下を歩くと、心地よいひんやりとした空気が肌を撫で、清々しい一日の始まりを感じた。
スーパースターの銅像の前で、澄子は片足を上げてバランス体操をする楓芽を見つけた。
スーパースターが楓芽のバランス体操を静かに見守っている。
楓芽:『おはようございます』
澄子が先に見つけたというのに先に挨拶をしたのは楓芽だ。
澄子は自然に微笑んで応えた。
澄子:『おはようございます』
楓芽はバランスを崩さずに澄子をじっと見つめ、心配そうな表情を浮かべた。
楓芽:『昨日退院されたばかりなのに、ずっとお動きになられておりますが、お身体の具合はいかがでしょうか?』
澄子は心遣いに感謝しつつ、穏やかに答えた。
澄子:『お心遣いありがとうございます。おかげさまで、身体の具合は問題ありません』
楓芽:『それは良かったです。無理せず、くれぐれもご自愛くださいね』
澄子:『ありがとうございます』
楓芽:『私も女性でございますので、女の子の日というのは、においや顔色で分かりますよ』
澄子:『えぇっ?! 楓芽さん、女性でいらっしゃったのですか?!』
楓芽:『心は男でございますので………。あまり理解されないかもしれませんが、心は男であっても恋愛の対象は女性ではなく、男性でございます。最近の若い方々は、本当にテレビや新聞をお読みにならないのですね……。私のことは毎年のように取り上げられておりますよ』
澄子:『申し訳ございません、こちらに来る前はテレビもスニャートフオンも購入するお金がなくて……』
楓芽:『スニャートフオンもお持ちでないのに、どのようにしてこちらを調べられたのでしょうか?』
澄子:『実は……私の目の前でカラスがフンをいたしましたので……ついていったところ、たまたまこちらに辿り着いたのでございます……それで……その……』
楓芽は少し微笑みを見せて続けた。
楓芽:『ご先祖様にしっかりと感謝なさってくださいね。それと、僧侶よりも早く起きることは素晴らしいことでございますが、次は私よりも早く起きなさい』
その言葉に、澄子は思わず微笑んだ。
楓芽の声にはいつも冷たさの中にポカポカとする何かがある。
澄子:『楓芽さんは何時に起きていらっしゃいますか?』
楓芽:『後輩よりも早く寝たことも、後輩よりも遅く起きたことも一度もございません』
いったい、楓芽はいつ寝て、いつ起きているのだろうか。
その後、澄子は楓芽と共に朝の掃除を始めた。
朝の爽やかな風が吹き抜ける中、参道の掃除へと向かう。
澄子はほうきを持ち、落ち葉や小さなゴミを丁寧に取り除いた。
そんな中、ふと心の中で思い出したのは、自宅での無気力な日々だった。
朝も昼もなく、ただ時間が過ぎるのを待つ生活。
それが今、こうして規則正しい日常の中にいることに感謝を覚えた。
暫くすると、楓芽が眉間にしわを寄せて叱責する声が聞こえてきた。
楓芽:『遅いですよ。住み込みの新人バイトよりも遅いとは、いかがなものかと………』
起きたてほやほやの僧侶たちは、その言葉に頭を下げ、素早くほうきを持ち、掃除に取りかかった。
僧侶たちが列になって動く様子は、まるで龍のようである。
9月に入ったとはいえ、夏の名残はまだ残っており、日差しは強く、汗がじんわりとにじんできた。
澄子は何度も落ち葉が一つも落ちていないことを確認しながら、真剣にほうきを動かした。
自分が何を求めてここにいるのか、そしてどれほど恵まれた環境にいるのかを考えながら。
あのままの生活を続けていたら今頃どうなっていたのだろうか。
そう思うと、自然と胸が熱くなり、今のこの生活がどれほど大切なものかを実感した。
自分の努力が、この穏やかな朝を作り出している。
澄子は、今日もまた、一歩一歩確実に前へ進んでいくのだと心に刻んだ。
この日、思わぬ事件が発生してしまった。
それは朝食後の出来事である。
朝食が終わり、僧侶たちが静かに集まる中堂の中に、陽光が柔らかく差し込んでいる。
副住職の最蔵は、座っている僧侶たちの顔を一人一人見渡しながら、清らかな声で語り始めた。
最蔵:『さて、皆さん、今日は少々重要なお知らせがございます。今日から三日間、私の一番のお気に入りの弟子でいらっしゃる徳密さんが、三重県へ里帰りされることになりました』
最蔵の言葉には、少しばかりの誇りがにじみ出ていた。
それを聞いた僧侶たちの表情は、さまざまに変化した。
穏やかな微笑を浮かべる者もいれば、少し戸惑いを見せる者もいた。
しかし、楓芽だけは何かが引っかかっていた。
楓芽の目は、最蔵の言葉を追いながらも、じっと口を噤んでいた。
最蔵は続けた。
最蔵:『徳密さんは私にとって特別な存在でございますので、彼が里帰りされるのは少し寂しい気持ちではございますが、彼の成長を促すためには必要なことだと理解しております。ですので、皆さんにも徳密さんを支え、温かく見送っていただけますようお願い申し上げます』
その瞬間、楓芽の中で何かが弾けた。
楓芽の眉が寄り、目が鋭くなっている。
最蔵の“特別”という言葉が、楓芽の心の奥深くに突き刺さったのだ。
楓芽は、静かにしていた自分の感情を無視できなくなり、思わず立ち上がって口を開いた。
楓芽:『一番やお気に入り、特別といった言葉、よくない表現ですね』
その声は、中堂の静けさを一瞬にして破った。
僧侶たちは驚き、楓芽を見つめた。
楓芽の心の中で、疑念と怒りが渦巻いていた。
楓芽:『あなたがおっしゃる“特別”という言葉は、どのような意味ですか?私たちは皆、同じように2ヶ月間比叡山で修行をしてここにいるのに、なぜ徳密さんだけが特別なのでしょうか?彼が里帰りされることが、他の者にとってはどうでもよいことで、あなたにとってだけ特別なことだとおっしゃりたいのでしょうか?』
最蔵は一瞬言葉を失った。
周囲の僧侶たちも驚愕の表情を浮かべている。
しかし、楓芽は止まらなかった。
楓芽の声は次第に高まり、感情がむき出しになっていた。
楓芽:『私たち全員が、日々の修行を通じて同じように努めているのに、なぜその努力が無視されるのでしょうか?徳密さんは確かに素晴らしい僧侶でいらっしゃいますが、特別扱いされる理由がどこにあるのか、教えてください』
最蔵は、楓芽の言葉に対して反論する余地もなく、ただ静かに楓芽の目を見つめた。
楓芽の真剣な眼差しは、最蔵の心の奥に何かを突き刺すかのようである。
周囲の僧侶たちは、楓芽の言葉に共感を抱く者もいれば、楓芽の大胆さに驚く者もいた。
その静寂の中で、楓芽の怒りは炎のように燃え上がっている。
楓芽:『私も、あなたが徳密さんを特別視されるお気持ちを理解したいと考えております。しかし、それが他の者たちの努力や気持ちを軽視するものであってはなりません。私たち全員を平等に見ていただきたいものです』
その言葉が中堂に響き渡ると、周囲は更に静まり返った。
最蔵は、徐々に心の中で楓芽の言葉の重みを感じ始めていた。
果たして、どのように答えるのか。
最蔵は、一瞬の沈黙の後、静かに息を吐いた。




