中道ー後編ー
静寂の中、最蔵は一度深く息を吸い込み、お線香を立ててから優しく穏やかな声で語り始めた。
最蔵: 『楓芽さん、あなたの言葉は真実を突いていらっしゃいます。ここにいらっしゃる皆様は、それぞれが日々の修行に全力で取り組んでいらっしゃいます。だからこそ、私が“特別”と申し上げたことが、あなたの心に重く響いたのだと思います』
楓芽はその言葉を聞き、目を少し細めたが、まだ納得はしていない様子だ。
最蔵は続けた。
最蔵: 『しかし、私が徳密さんを“特別”と申し上げたのは、彼が他の誰よりも優れているからではございません。また、12年間も比叡山にいらっしゃったからというわけでもございません。徳密さんが私にとって“特別”な存在でいらっしゃるのは、彼が私の近くにいて、身近で長い時間を共に過ごしてくださったからでございます』
その言葉に、僧侶たちが少しざわめいた。
最蔵は穏やかに手を挙げ、僧侶たちを静めながら話を続けた。
最蔵: 『私たちは皆、人として限られた時間の中で、特定の方との関わりが深くなることがございます。それは決して、他の方が劣っているわけではなく、ただ単に縁が深いということでございます。徳密さんは私にとって、長い時間一緒に過ごしてきた弟子でいらっしゃいます。その意味で、彼は私にとって特別な存在でございます』
楓芽の表情は少し和らいだが、心にはまだ疑念が残っているようだった。
最蔵はそれに気づき、さらに優しい口調で付け加えた。
最蔵: 『私たちが日々の修行を通じて学ぶことの一つは、中道、つまり偏らない心でございます。特別扱いは、不公平に見えるかもしれませんが、実際には、身近にいらっしゃる方々を大切にすることが自然にそうなるのでございます。しかし、それは決して他の方々の努力を無視しているわけではございません』
最蔵は静かに微笑み、僧侶たちを見渡した。
最蔵: 『すべての方が、私にとって大切でございます。皆様それぞれが私にとって、そしてこのお寺にとってかけがえのない存在でいらっしゃいます。今日ここにいらっしゃる全員が、何かしら“特別”なものをお持ちでございます。徳密さんだけではなく、皆様お一人お一人が』
楓芽はその言葉を聞き、一瞬目を閉じた。
そして、頭を振った。
楓芽: 『納得できません、そのようなお言葉では。何故なら、あなたはこうおっしゃいましたからね。“お気に入りの弟子”と。そんなお言葉を目の前で仰せられたら、不快な気持ちになります』
最蔵は、楓芽の鋭い質問に一瞬息を止め、深く考え込んだ。
楓芽の視線は鋭く、最蔵の答えを厳しく求めている。
最蔵:『"お気に入り"というお言葉が誤解を招いてしまったかもしれません。しかし、ここで私が申し上げたいのは、特別というのは、単に能力や成果のことを指しているのではございません。特別とは、私たち一人ひとりの関わり合いの中で築かれる絆や、距離の近さのことでございます』
最蔵は冷静に続けた。
最蔵:『徳密さんとは長い間、共に修行を重ねてきた中で、自然と距離が縮まりました。彼がここで成長していく姿を間近で見守ることで、私の心の中に特別な存在としての位置づけが生まれたのでございます。これは、ダイヤモンドのような特別な存在というわけではなく、徳密さんが“優れている”とか“他の方よりも価値がある”という意味でも決してございません』
楓芽は眉間にしわを寄せながらも、最蔵の話を最後まで聞き、一つ一つ、何度も確認しながら自分の誤解を解いていった。
最蔵:『私たちは皆、それぞれが自分の修行の道を歩んでおります。その道の中で、誰かと深く関わり合うことができるのは自然なことでございます。皆様も、それぞれに特別な絆や経験を持つ相手がいらっしゃることでしょう。そうした関係が、修行の中で生まれるのでございます』
楓芽の鋭い表情は少し和らいだが、まだ納得しきれていないようである。
楓芽:『私たち他の者たちも、そのように"特別"な存在になれるのでしょうか?』
最蔵は微笑みながら頷いた。
最蔵:『もちろんでございます。私たちの関係は、共に時間を過ごし、修行を重ね、互いを理解することで自然と深まっていくのでございます。誰かが"特別"になるために、他の誰かが"軽視される"わけではございません。むしろ、全員がそれぞれの形で大切な存在なのです』
楓芽:『そうでございますか……。しかし、あなたは“一番のお気に入りの弟子”とおっしゃいました。皆様は二番手と言っているようなものでございませんか』
楓芽の言葉は、部屋の空気をピリッと緊張させた。
僧侶たちは唾を飲み込んで真剣な眼差しでじっと聞いた。
最蔵は、楓芽に向かって穏やかに口を開いた。
最蔵:『ごめんなさい。"一番"というお言葉は、私が誤って選んでしまいました。私たちが歩んでいる道には、順位や優劣など本来は存在しないのでございます。しかし、人間である以上、時折そのようなお言葉を使ってしまうこともございます。それは、決して他の者を軽んじたり、競争させようとする意図ではございません』
楓芽:『……………』
楓芽の視線は厳しいままだが、最蔵の言葉を理解しようとしているようだった。
最蔵:『私が徳密さんを"一番"と表現したのは、彼が私にとって大切な存在だからでございます。しかし、それは個人的な関係であって、皆様や他の僧侶が二番手というわけでは決してございません。それぞれの修行には、それぞれのペースや関係性がございます。そして、その全てが仏の教えの中で大切な一部なのでございます』
最蔵は楓芽をまっすぐ見つめた。
最蔵:『楓芽さんもまた、私にとって非常に大切な存在でございます。あなたの修行の道も独自のものであり、他の誰とも比較する必要はございません。私が誤った表現を使ったことで、あなたに不快な思いをさせたことは申し訳なく思っております。しかし、仏道においては、競争や優劣を超えたところに真実の道があるのでございます』
楓芽は眉間にしわを寄せ、考え込むように視線を下げたが、やがて顔を上げ、少しだけ表情が柔らかくなった。
楓芽:『私は、ただ、自分たちの存在がどのように受け取られているのかを知りたかっただけでございます』
最蔵は優しく頷いた。
最蔵:『そのお気持ちはよくわかります。しかし、自分は他者との比較で見つけるものではなく、自分の内側で築くものでございます。それが、仏道における"一番"でございます』
楓芽はしばらく沈黙した後、静かに頷いた。
楓芽:『……そうですね。少し、感情的になってしまいました。私も自分の修行にもっと集中いたします。他人と比べず、自分の道をしっかりと歩んでまいります』
最蔵:『それが、仏教の中道でございます。感情に左右されることなく、物事を冷静に見つめ、他人との比較を超えて、仏の教えに従って進むこと。それが真の修行者の“道”でございます』
楓芽は最蔵の言葉を噛み締めるように深く頷き、その場の静けさが再び戻ってきた。
最蔵は微笑みながら楓芽に頷き、言葉を続けた。
最蔵: 『楓芽さん、あなたの言葉は決して間違っておりません。これからも、皆で支え合い、修行に励んでまいりましょう』
その後、中堂には再び静けさが戻ったが、その静けさには今までとは違う、穏やかで和やかな空気が流れていた。
最蔵は自身の言葉の選び方の重要性と、個々の修行者の心情に対する配慮の必要性を学んだ。
“一番”という表現を軽く使ったことで、楓芽に誤解を与え、無意識に比較や優劣の感覚を生んでしまったことに氣づいたのであった。
また楓芽は、他人の言葉をどう受け取るかについての自己認識と、自分自身の感情を客観的に見る力を学んだ。
最蔵が“一番”という表現を使ったことで、楓芽は自分が他の人と比較されているという感覚を抱き、不満を感じたが、それを深く考えることで、これは自分自身の心が他人と比較する癖を持っているからだと氣づいたのであった。
自分の価値は他者の評価や順位ではなく、自分自身の修行や努力にかかっていることを理解するように努めることを決意した。
楓芽は、他人の言葉に過度に反応してしまうことで、心が乱され、修行への集中力を失っていたことにも氣づくことができた。
他の僧侶たちも楓芽が徳密をいじめていた理由をこの場で知り、先輩僧侶が副住職である最蔵の些細な言葉で傷付いていたことを理解し、頭を丸めた。
この経験を通して楓芽は、仏道の本質は外部の評価や優劣を超えたところにあり、自分の修行において自らを信じ、揺るがない心を持つことが重要であると学んだのである。
また、感情を冷静に見つめ、他人の言葉や行動に過度に反応するのではなく、内面的な成長を大切にする姿勢を身につけることの必要性を感じていた。
これにより、楓芽はより成熟した視点を持ち、修行に取り組む意志がさらに強まるのであった。
また、澄子もその場に立ちながら、最蔵の言葉に深く感銘を受け、自分自身の修行の道について改めて考える機会となった。
“特別”という言葉の概念が、単に優劣を表すものではなく、人と人とのご縁や関わり合いを示すものであることを感じ取った。
そして、このお寺での生活を通じて、精進していくことを誓った。
最蔵が立てたお線香は僧侶たちが外に出た瞬間に消えていたが、3km先までにおいが届いていたのであった。




