磨き布
何度繰り返しても、思い出せる一番古い記憶はガラスに覆われた黒い石のことだった。自分がまだ自転車に乗ることもできなかった頃。正方形の台の上、高い位置に置かれたその石を見上げると、実際よりとても大きく感じたものだった。縦長の平い直方体のような形をしたその石は、元は何かの一部であったようだ。上下の面が大きく欠けていて、ざらついた断面をのぞかせていた。ざらつく断面とは対照的に一番広い側面は人の手で切り出だされ、削られたように滑らかに整っている。その滑らかな表面に、動物や農具を象った記号や、幾何学的な線の集まりが、隙間なく掘り込まれていた。美しい紋様を持つ石が纏った神秘的な雰囲気に少年は心を奪われた。
「これってまほうのいし?」
不意に頭に浮かんだ考えを確かめるために、少年は手を繋いでいる伯父の顔を見上げながら尋ねた。甥の頭から溢れ出た創造力に、伯父は目を見張った。
「どうしてそう思ったんだい?」
驚きの表情は愛情を含んだ微笑みに変わり、膝をたたんで少年の目を真っ直ぐに見つめ返して問いかけた。
「ほんでみたんだよ。おなじのじゃないど・・・。にんげんにはわからないことばで、まほうのじゅもんがかいてあるんだ」
少年は、まるで自分だけが知っている世界の秘密を打ち明けるように答え、"まほうのいし"に視線を向けた。その瞬間、目の前の世界がグラリと揺らいだー
目を覚ました青年は市内を廻るバスの座席に座っていた。揺られているうちに眠ってしまったのだろう。昔の夢をみた。それは伯父の手を握って、初めてこの街に来た日の夢だった。両親と離れることになった、不安と寂しさを必死に隠そうとしていたあの頃の...。そして自分の運命を決定づけたあの"まほうのいし"と出会った日の記憶だった。灰色の層雲が広がる空の下、バスは街中の細い道を縫うように走っている。車内には数人の乗客が乗り合わせていた。そのうちの一人が黙々とペーパーバックを読んでいる。
『幼年期の終わり』
英国が世界に誇る、SF界の大家が書いた名作だ。タイトルを目にして、大人なった今でも自分の幼年期はちっとも終わっていないな、と彼は思った。あの日から、彼の心は少しも変わっていなかった。次の停留所を告げるアナウンスが車内に流れ、バスは速度を緩めた。街の中心部のバス停で自分が育った街へと降り立った青年は、思い出の場所を目指して灰色の空の下を歩き出した。
天井から滴る水のおかげでアイザック・レイブンウッドはバケツに溜まった水を日に三度捨てなければならなかった。彼の家は街の中心部から外れた郊外に位置していた。並んだ家々の外観はどれも同じ時代の古い建築様式で、表通りに面した煉瓦色の集合住宅の地階が彼の住まいだった。上階にはコリンズ氏という高齢の老人が住んでいた。しょっちゅう浴槽の蛇口を閉め忘れるという困った人物だった。そのおかげで、下階に住むアイザックは漏水に悩まされる日々を送っている。家主を通して何度か苦情を訴えたが、未だにその成果は上がっていない。バケツに溜まったこの日最初の一杯を流し台に捨てて、アイザックはダイニングテーブルの上のティーセットに手を伸ばした。慣れた手つきでアルミの包装からタイフーン紅茶の丸いティーバックをつまみあげ、つるりとした白い陶器のティーポットの中へと放り込んだ。火にかけておいたステンレス製の細口ケトルがしゅんしゅんと唸り声を上げている。泡立つほどに沸騰したお湯をポットに勢いよく注ぐと、立ち上った紅茶の豊かな香りが部屋に広がり、忌々しい漏水でささくれ立った気持ちを幾分ほぐしてくれた。砂時計できっかり四分。抽出した熱い紅茶をお気に入のマグに注ぎ、そこへミルクを流し込む。彼はミルク・イン・アフターを支持していた。いつものミルクティーを片手に、アイザックは台所を抜けて居間へと向かった。決して広くはない空間を最大限に活用するために、全ての壁面に床から天井まで棚が据え付けてある。そして、全ての棚に様々な本が隙間なく収まっていた。彼は台所に一番近い壁面の棚の前に立ち、大型本を収めている一番下の段から皮張りの分厚い一冊を引き出した。
台所のダイニングテーブルに本を置き、手に持った紅茶を口に運ぶ。表紙にも背にもその本には題がなかった。それは古いアルバムだった。表紙を捲って最初のページを開くと、今よりもずいぶんな若さが見て取れる自分が、控えめな笑みをたたえてこちらを見つめていた。そして、その隣には笑みの中に憂いの影を宿した小さな男の子が並んでいた。それは、アイザックがアーサーと名付けられた少年と、この街で暮らし始めた最初の日を収めたものだった。両親と離れ、見知らぬ土地で暮らすことになった少年の心を少しでも元気づけようと、アイザックは、街中の観光名所を二人で見てまわった。写真はその中で、少年が一番気に入った場所で撮ったものだった。動物園や観覧車など子供が喜びそうな場所をえらんで訪れてみても、少年の表情に喜びを見つけることはできなかった。そんなアイザックが最後に訪れたのが博物館だった。万策つきた彼は、ただ自分が街で一番好きなこの場所を少年に見せたかったのだ。人類が辿ってきた壮大な歴史。それが持つ未知の謎にアイザックは惹かれていた。仕事の合間や余暇を使っては歴史の謎を探求していた。彼はアマチュアの歴史学者だった。少年が気にいることを期待したわけではない。だからこそ、アーサーという名の少年が博物館に、自分と同じ歴史に興味を抱いてくれたことが只々嬉しかった。
アルバムの写真は、二人の生活と歴史の探求活動を収めた記録写真だった。世の親子が休日に後楽地でレジャーを楽しんだり、スポーツ観戦を楽しんだりするように、二人は歴史探求を楽しんだ。各地の博物館や資料館を廻り(大抵無料で入れる)図書館で一日中、歴史の本を読んで過ごした。(これも無料だった)
週末に開催される蚤の市や古本市にも足しげく通った。大半はさして値打ちもないガラクタばかりたった。その中から古い文書や古書、地図や絵図といった品々を掘り出しては少しずつ蒐集した。年代の特定や真偽の鑑定方法など、アイザックは長い年月と経験から身につけた独自の方法を少年に教えていった。少年は瞬く間にそれらを吸収し、遺物の収集にかけてその才能を開花させた。これらの日常的なフィールドワークを通して、少年は歴史探求に必要な知識と技能を備えながら逞しく成長していった。一番新しいページにはスラリと背の高い青年と、初老に差し掛かった男が並ぶ写真が貼り付けてある。懐かしい記憶の旅を続けていたアイザックは足を撫でる柔らかい感触に意識を引き戻された。黒々とした艶のある毛並を擦り付けながら、飼い猫のアンソンが長いこと姿が見えないもう一人の家族を呼ぶ声を上げた。
「もうじきに帰ってくるよ」
アルバムを棚にしまい、アイザックはダイニングテーブルの上のティーセットを片付けた。立派な歴史学者になり世界中を飛び回っていた息子がもうじき帰ってくる。早る気持ちを抑えながら、彼は再会の祝いの支度に取り掛かった。
肌を刺すような十二月の空気から逃れるように、アーサー・レイブンウッドは古代ギリシアの神殿を模した柱を通り抜けてエントランスへ向かった。本館へと通じるメインエントランスは多くの人で混み合っている。その中央に透明なアクリル製の大きな箱が置かれていた。来館者への寄付を募るために置かれた巨大な募金箱だ。ここへ通うようになってからというもの、エントランスを通る度に、募金箱の仕事ぶりを目で確認する事がアーサーの習慣になっていた。アジア系を思わせる、黒髪と褐色の肌をした少年が、両親に抱きかかれられて、自分の体よりも遥かに大きな箱の中に小遣い玉を落としているところだった。箱は、大小様々な金額の紙幣や硬貨で満たされており、その上々の仕事ぶりに彼は密かに笑みを浮かべた。一日にエントランスを往来する人々は膨大な数になる。それらの内の幾人かが、時折立ち止まっては、それぞれが持ち合わせる歴史や芸術に対する文化的価値観を、己の経済的価値観という秤にかけて、持ち金を投じていくのである。人類の宝と称される文化財の保存を名目に、来館者の財布から金を巻き上げる。それが募金箱に与えられた仕事であった。普段であれば、アーサーがその仕事に手を貸してやることはない。働きぶりをチェックはしても通り過ぎるだけである。しかし、この日は違っていた。アーサーは募金箱の前で立ち止まると、幾分くたびれてはいるものの、未だ上品な風格を充分に備えたモンティのダッフルコートの内ポケットへと手を伸ばした。何事にも例外はあるものである。普段は薄情な彼でも、自ら進んで募金箱の仕事を手伝う日を決めているのだった。それも一年に一度だけ。それが今日である。
ー十二月三十一日ー
一年の最終日。今日が終われば、<年>という単位で括られた時間の輪は閉じられて、また新しい<年>という時間の輪が誕生する。
人類は、世界を取りまいている不可逆的に移ろい続け、途絶える事なく物事が変化していく様に<時間>という名前を与えた。捉えることの難しい<時間という概念を<暦>という仕組みを生み出す事で、捉えることに成功した。秒、分、時間、日、年。恣意的に始点と終点を定め、様々な単位で束ねることで人類は<時間>を把握する事ができるようになった。<時間>という概念を生みだし、<暦>を使ってを自らの手元に留める事の引き換えに、人類は自らが生み出した<時間>という概念に縛られて、囚われる事になってしまった。ずいぶんと皮肉が効いた話しだ。人類が今まで生きてきた膨大な時間の記録を「歴史」というのであれば、間も無く迎える新しい年は、新しく生まれる「歴史」だと言えるのではないか。そんなふうに「歴史」という時間の大河にアーサーは想いを馳せた。人が時間に囚われているのと同様に、彼自身も「歴史」という過去の時間に囚われていた。もうじき生まれる新しい<歴史>への祝福と、人類の歴史を保存し、今に伝えるこの場所への敬意を表して、アーサーは中身の少ない財布から1ポンド硬貨を取り出し、募金箱の控えめに開いた口から底無しの腹の中へ落としてやった。いかに彼が殊勝な心掛けを持っていようと、それ自体が、財布の中身にまで望ましい影響を及ぼすことは無いのである。
私的な年中行事をすませたアーサーはその場を後にし、エントランスを抜けて建物の奥への足を進めた。
館内の混雑ぶりには、普段から人の多さには慣れているアーサーでさえ、呪いの言葉が口から飛び出すほど酷いものだった。彼らの大部分が、古今東西から収集された人類遺産の素晴らしさを旅の思い出に加えようとする観光客たちだ。皆一様に、古代メソポタミアの都市の墓標やら、スコットランドから出土した海象の牙で作られたチェスの駒やら、死者の冥福を祈って、棺に収められた葬祭文書やらが陳列された展示ケースに視線を注いでいる。熱心にカメラを向けたり、記念写真を撮ったり、思い思いの感想を交換したりと忙しない。そんな観光客の姿を眺めながら、アーサーは館内を人の流れに沿って歩いていた。普段の彼なら真っ直ぐに目的の部屋と向かうのたが、館内を埋め尽くす人の流れに逆らうことが出来ず、川に流される落ち葉のように部屋から部屋へと漂っていた。そうしている内に流れ着いたある部屋で見知った顔に遭遇した。
「やあ、ジンジャー、しばらくだね」
旧友との久しぶりの再会に、彼は親しみを込めて声を掛けた。
「毎年のことなんだけれど、相変わらずこの時期の混雑ぶりはひどいもんだね。さすがの君もうんざりじゃないかい?」
問いかけに応じる声はない。それでもなおアーサーは、再会を懐かしむような、穏やかな視線を展示ケースに収められた人型に投げかけていた。その様子に、周りの観光客は怪訝な表情を浮かべ、控えめながらも好奇の視線をアーサーに投げかけていた。旧友のジンジャーは膝を抱くような姿勢でうずくまり、顔の前に重ねて組んだ両手ごしに、影を湛えた眼窩を向けて横たわっていた。ジンジャーが生きていたのはおよそ五千年前のエジプトだった。今はミイラとなって展示ケースの中に居を構えている。埋葬された熱砂の影響で、理想的な保存状態が偶然にも保たれたのだという。失われる事なく残された赤茶色の頭髪が生姜の根を連想させる。彼の名前はそこから来ていた。
幼い日。初めてジンジャーに出会った自分は、恐ろしさのあまり数日間眠れない日を過ごした。寝台の下から、クローゼットの隙間から。穴の空いた目をこちらに向けて、干からびた植物の根のような指を伸ばして手招きする姿を想像しては、恐怖に震えたものだった。今となっては微笑ましい記憶である。
旧友との再会を済ませたアーサーは、ひときわ混雑している目的の部屋へとやってきた。多く来館者が部屋の中央にある展示物を取り囲んでいる。皆が群がるガラスケースの中に、あの"まほうのいし"が収めてあった。伯父に連れられ、初めて訪れたあの日から、彼の心を魅了し、今も尚惹きつけるもの、
ーロゼッタ・ストーンー
この大英博物館で、最も知られている展示物。古代エジプト王朝の勅令が記され、神聖文字の解読の端緒となった遺物だ。
"まほうのいし"の正体に幼い日のアーサーが気がついたのは割とすぐのことだった。事実を知っても尚、この石の魅力はいささかも衰えなかった。魔法が世界に存在しないとわかっても、それは彼にとって悠久の時に隔てられた異世界へと自分を連れて行ってくれる"まほうのいし"なのだった。この石に出会ってからというもの、彼は伯父と共に歴史の探求にのめり込んだ。はじめは童話や御伽噺、伝説や神話に登場する魔法の武具や宝飾品を探すようなものだった。地方の博物館や資料館で実部を見て、それらの詳しい詳細を図書館の本や端末で調べることが、何より楽しい遊びだった。それは同じ年頃の子供たちが、スポーツやビデオゲームに夢中になることと、少しも変わらないった。彼の一番の楽しみは蚤の市で掘り出し物を見つける事だった。古い日用品や生活雑貨、服飾品にレコード、ジャンク部品などの露店が並んだマーケットは最高の遊び場だった。伯父の教えもあるが、彼には雑多な品々の中から、"本物"が放つ気配を感じとる直感というか、感覚のようなものがあった。そんな自分が唯一"外れ"を引いてしまったのは、一人で出歩けるようになってから初めて訪れた市だった。地中海の東側、オリエント世界の品々を扱う骨董店で見つけたそれは、不思議な紋様の入った古い布だった。大きさは少し大振りのスカーフくらいで、ところ所が擦り切れ、ほつれていた。褐色にくすんで全体的に薄汚い。表面に年代も地域も判読できない幾何学的な文様が、かろうじて見て取れる。要するに単なるボロ切れだ。なぜ自分がこれを手に取ったのか、思い返してもよくわからない。更に不思議だったのが、店の主人も覚えがない品物だったということだ。骨董品の愛好家ですらこんなボロ切れに金を出す人間はいないだろう。見事な装飾のガラス細工や複雑なパターンが繊細に織り込まれた絨毯などを扱っている店だけに、この布だけが明らかに異質だった。"靴磨きにしか使えない"ような布は売り物にもならない、と店の主人は代金をとらなかった。むしろこんな物を欲しがるなんてどうかしているとでも言いたげな表情で、押し付けられる形で店から出された。それから時間をかけてこの"磨き布"を調べてみたが、はじめて自分一人で手に入れた戦利品にはさして歴史的な価値はないことがわかった。独り立ちの嬉しさは、たちまち苦い記憶を伴うものになった。それでもアーサーはこの"磨き布"を独り立ちの記念品として今でも持ち歩いていた。これらの遊びを通して彼は優秀な歴史学者へと成長した。調査や講演で世界を飛びわまる多忙な生活が続き、この一年は海外の大学に招かれて教壇に立っていた。今日は一年ぶりの帰省の日だった。たった一年離れただけだったが、もうずいぶん長い間離れていたような感覚を覚えた。自分の故郷の感触を体に染み込ませたくて、彼は全ての始まりとなったこの場所へとやってきた。流れる時間が世界を変化させる。あの時の少年は大人に成り、同じ場所に立っていた。あの時と少しも変わらない気持ちを抱いて、幼い日から変わらない"まほうのいし"を眺めていた。
十二月の最重要行事である聖誕祭が終わった街は、新しい年を迎えようとしている。一年の最後の夜となる今夜は街の中心部で新年のカウントダウンが行われる。そして、年が変わるその瞬間、新年の訪れを祝い、色とりどりの花火が盛大に夜空に打ち上げられる。会場となる街の中心部の川沿いにはは、日没前から祝いの瞬間を生で楽しもうとする多くの観光客で埋め尽くされる。日没までまだ時間がある。それでもなお中心部にほど近い博物館の周辺は、すで通りを埋め尽くすほどの混雑ぶりである。これから日が傾くにつれて、人は益々増えるだろう。通りは溢れかえった人たちで身動きが出来なくなる。そうなる前に、人々の間を縫うようにアーサーは家に向かって博物館を後にした。
その日の夜の出来事を知っているのは飼い猫のアンソンだけだった。酩酊の海へと舟を漕ぎ出したアーサーとアイザックに代わって、夜の間は彼が屋敷の主人となっていた。
ぽたっ、ぽたっ、ぽたっ、、、
夜の闇が塗りつぶした黒一色の室内に微かな音が規則的に響く。居間に置いてあるフェルト張りの肘掛け椅子に陣取っていたアンソンは、音を捕らえた耳をぴくんと動かして、部屋の中へと視線を巡らせた。
ぽたっ、ぽたっ、ぽたっ、、、
闇を見透かす彼の目は僅かな時間空中を漂い、やがて天井のある一点に落ち着いた。天井が滲み、そこから水が染み出している。
ぽたっ、ぽたっ、ぽたっ、、、
上階のコリンズ氏がまた浴槽の蛇口を閉め忘れているのだろう。行き場を失ったお湯は浴室から溢れ出て、長年の使用で働きを失ったシーリング材の間を縫って床に染み込んだ。埃や塗料や断熱材のといった建材も水の侵攻を完全に阻むことはできなかったらしい。水は留まることなく床下を進み、遂にひらけた空間、下階のレイブンウッド家の台所へと降り注いだ。
ぽたっ、ぽたっ、ぽたっ、、、
滴り落ちた水を受けたのは、台所に据えてあるダイニングテーブルだった。いつもならタイフーンの紅茶やらブラウンベティのティーポットが置いてあるはずの場所だ。いつでもすぐにお茶を飲めるようにとティーセットがセッティングされているテーブルは、昨晩の歴史談話の時のままに、収集した古書や文章、図画などが山を成していた。一年ぶりの再会を果たした二人は多いに語り合った。互いの近況から共通の話題である歴史話に花が咲いた。勢いついた二人は歴史を肴に酒盛りを始めたのだった。蔵書を引っ張り出しては、それぞれが興味を惹かれる歴史の出来事や、最新の研究で判明した事実などを遅くまで話し合った。幼い日に骨董市で手に入れたあの"磨き布"のこともアーサーは話題にした。持ちうる様々な資料と知識を基に組み立てた持論や、自分のが未だ知られていない歴史的な事実を証明する遺物を見つけられるかもしれないと言う、もはや願望にも近い可能性への思いを嬉々として伯父に語った。その伯父も甥の鋭い歴史観と、幼い頃から持ち合わせる、逞しい創造力で語られる歴史話に熱心に耳を傾けた。熱狂と興奮で酒が進んだ二人は本の山をそのままに、酔いと睡魔に招かれてそれぞれの寝台へ倒れ込むことになったのである。その山の頂に、あの"磨き布"が置いてあった。
布に滴る水が音を放つことは無い。ここにきて水は初めてその行手を阻まれた。
上階から山の頂に降り注いだ水は、磨き布の表面で跳ねて、ついにその内側に染み込むことはできなかった。布の表面は膜で覆われているように水を弾いて、水滴を受け止めている。滴り続ける水は布の表面で集まり、手のひらほどの大きさにまで広がっていた。肘掛け椅子から眺めていたアンソンは、その水滴から白い煙が微かに立ち昇るのを目の当たりにした。立ち昇る煙とが増えると同時にダイニングテーブルの輪郭が微かな青白い光に浮かび上がった。布の表面にたたえられた水滴が、まるで沸騰したように泡立っている。ぶくぶくと弾ける泡から薄い煙と一緒に、青白い小さな火花が咲いている。弾ける泡が火花を散らせながら、布の表面を走り回る。茶色にくすんだ布地に鮮やかな色彩の世界が浮かび上がった。
広葉樹の葉先を思わせる海岸線で縁取られた広大な大地。緑に覆われた草地、深く鬱蒼と生い茂る森、険しい山脈や荒涼とした台地。
そしてそれらの中に築かれた大小様々な都市や町並。古ぼけた磨き布に現れたのは、この世界のどこにも存在しない国だった。
それは遥かな昔、我々の住む世界とは異なる別の世界で描かれた地図だった。
我々の知る地図とは明らかに異なっていた。地図に描かれた世界では、雲が流れ、森に雨を降らせている。鮮やかな草地は風に揺れ、険しい山々では雪が舞ってた。
世界が動いている。
地図の中では時間が流れている。
動く地図なのだ。
気がつけば、世界を浮かびあがらせた爆ぜる泡は姿を消して、地図の表面は水面のように澄んでいた。天井から滴る水滴が、まるで虚像をかき消すかのように地図の世界を揺らめかせる。
夜の闇の中で、全てを見ていたアンソンは、そのいささか奇妙な光景を目にとどめながら肘掛け椅子からテーブルへと身を躍らせた。足をかけられた本の山は、均衡を失い、地図もろとも床へと崩れ落ちた。途端に部屋を照らした光は衰え、夜の闇が舞い戻った。瓦礫の如く雪崩れ落ちた本の隙間から、あの磨き布が覗いている。アンソンは恐る恐る近づき、鼻先を使ってその地図を改めた。もはや青い輝きは無い。地図はもとの古ぼけた磨き布の姿に戻っていた。アンソンが顔を引いたその瞬間、地図を覆っていた古書が微かに持ち上がり、吹き込んだ風が床に散らばった古文書の写しや書類を巻き上げた。闇と静けさが戻った部屋に、アンソンの低いなで声と草木の匂いだけが漂っていた...。




