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予言の夜の、その先に



 予言は、覆らない。



* *  *



 ふわりと前髪を揺らした冷たい風に、圭子は目を覚ました。ぼんやりとした視界の中に、僅かに光が差し込んでいる。昨晩、月を見たいからと蔀を開けて、そのまま眠ってしまったらしい。打掛の外に出ていた手足はすっかり冷え込んでいた。かじかむ指先を擦り合わせて打掛の中に潜り込む。それを再び外に引きずり出そうとでもするかのように、冷たい風が再度圭子の瞼を撫ぜた。

 目を閉じて耳を澄ますと、微かに誰かの歩く足音が聞こえた。おそらく母だろう。朝早くに出仕する父のため、朝餉を作っているのだ。そろそろ手伝いに行かないと、怒られてしまう。もうすぐ嫁に行くというのに、家のことも手伝わないでと小言を言われるのにはもう飽き飽きだ。早く起きなければと、そう思いながら、圭子の身体は何故かちっとも動かなかった。

 なんだかおかしい。

 圭子は、ゆっくりと視線を巡らせる。何気なく天井に顔を向けると、目が合った。

「ひっ……!」

 思わず息が詰まる。

 そこに浮かんでいたのは、人間の顔だった。奇妙に歪んだその顔は、ぽっかりと宙に浮かんでいる。否、よく見ると、暗い天井と半ば同化するように、その首からは黒い獣のような身体がつながっていた。

 あまりに恐ろしい化け物の姿に、圭子は打掛にくるまったまま逃げ出そうと身体を起こした。急に動いたからだろうか、くらりと眩暈を覚えて身体が傾いだ。そのまま、近くの几帳ごと畳に倒れ込む。咄嗟に手をついて身体を支え、圭子は天井を仰いだ。化け物が、変わらずそこにいる。逃げなければと思うのに、身体は全く言うことを聞かなかった。

 浮かんだ顔が、ぐにゃりと笑う。ゆっくりと開かれる唇。

『――お前は――』

 聞こえた言葉に、圭子の頭が凍り付いた。にたりと笑み崩れた顔が、ぐにゃぐにゃと崩れていく。廊下からあわただしい足音。きっと、先程几帳が倒れた時の音を聞きつけた誰かだろう。誰か、と声にならない声で呼ばわる間にも、目の前の怪物は闇に喰われるように崩れていく。

「圭子!どうした!?」

 父の声だ。

 答えなければ、そう思うのに声が出ない。見開かれたままの圭子の目には、崩れていく化け物の姿が映っていた。

 部屋に駆け付けた父が、圭子の視線を追ってその化け物を見る。その目が驚きに見開かれた瞬間、化け物の身体は完全に崩れ去り、見えなくなった。

 くだん、とそう低く呻いた声は、父のものか。

 圭子はのろのろと父を見上げる。圭子の視線にはっと我に返り、彼は娘に駆け寄った。

「圭子、大丈夫か!?」

「父様……」

「何て言っていた?」

「え?」

 切羽詰まった父の言葉に、圭子は目を瞬かせる。

「あの化け物は、お前に何と言ったんだ!?」

 焦れたように声を荒らげるその顔は、珍しいほどに蒼白だった。気圧されて一歩下がった圭子が、震える唇で先ほど聞いたばかりの言葉を繰り返す。

「――死ぬ、って」

『――お前は――』

 冷たい声。温度のない、平坦な、それでいてどこまでも歪んだ声。

「死ぬって言ってた。――私の、子供が」



『――お前の子は十二の年を越えられぬ』



* *  *



 どこからか、笛の音が聞こえる。何の前触れもなく始まった演奏は、ところどころ音を縺れさせながら、たどたどしく響き、やがて不意に途切れた。夜風とともに聞こえる音色に耳を澄ませていた章子は、不自然な曲の終わりに首を傾げた。

「……諦めちゃったのかしら」

 お世辞にも上手とは言えない演奏だった。けれど、初めて聞くその曲が奇妙に耳に残って、できればもう少し聞いていたかったと名残惜しい気持ちになる。せめて少しでも覚えているうちに、と章子は琴を取り出すと、記憶の中の音を探して指を動かす。ひとつ、ふたつと重なっていく音は、しばらくすると先ほどの笛の音よりも流麗に旋律を紡ぎだした。聞いたことがない、なのに懐かしいような不思議な気持ちになる旋律。先ほど音が途切れてしまった箇所までを繰り返しなぞっていく。最後の一音を最初の一音へ。小さな円環の中をくるくると回り続ける演奏に、ぱきり、と異質な音が混じった。驚きに手を止めて、章子が音のした方へ視線を向ける。しかし、そこには僅かに揺れる木立があるのみで、動くものの姿は見えなかった。

 なんだか興が削がれたように思えて、章子は琴の前を離れる。少し早いけれど眠ってしまおうと、袿の中に潜り込んだ。



* *  *



 夢を見た。

 夢の中で、章子はまたあの旋律を聞いている。誰の物とも知れぬ笛の音。その音は、章子がそうしたように、短い旋律を繰り返し繰り返し奏でる。章子は、覚束ない足取りでその音が聞こえる方へと歩を進めた。辺りの景色はぼんやりとしていてよく見えない。少しずつ近くなる音だけが、章子が一方向へと進んでいることを教えてくれた。しかし、その音の出所を確かめる前に、唐突に笛の音が途切れる。

 一瞬遅れて、天を衝くような笑い声が響く。低い男の声のような、甲高い女の声のようなその笑い声に、章子は背筋が粟立つのを感じた。笑い声は、段々と近づいてくる。身を翻そうとしたが、足はその場に凍り付いたように動かない。声が響く。何か蔑むような、見下すような下卑た笑い声。耐えられず硬く目を瞑った瞬間、右耳にねじ込まれた笑い声に、章子は思い切り叫び声をあげた。



* *  *



 荒い呼吸とともに目を覚ます。夢の中で感じた恐ろしい感情が、息と鼓動を走らせていた。章子は袿の中に胎児のように丸くなると、夢の残滓を追い払うように固く目を閉じた。



* *  *



「母様、少し市に行ってくるわ」

 笠を被りながら、繕い物をしている母に声をかける。母は弾かれたように顔を上げると、血相を変えて叫んだ。

「待ちなさい章子、一人で行くの?駄目よ、私も一緒に行きます」

 やりかけの繕い物もそのままに、外出着に着替え始めた母に、章子は面白くない顔になった。

「一人でも大丈夫」

「いいえ、だめですよ。今日はなんだか調子も悪そうじゃないの。一人でなんて行かせられないわ」

 章子はぎくりと動きを止めた。昨晩、あの笛の音が気になってしまって遅くまで琴を弾いていたうえに夢見が悪く、確かに今日はなんとなく身体が重いような気がしていた。反論がないのをいいことに、母は尚も言い募る。

「それに、市にはどんな人がいるか、わかったもんじゃありませんからね。人攫いや人殺しにでも遭遇したらどうするの」

 大真面目に言う母に、章子は思わず吹き出した。

「もう、母様は心配しすぎよ」

「そう言って、ついこの間だって、橘の次男坊――確か、たけるでしたっけ、市で誰かといさかいになって殺されたんでしょう?楽の才に秀でた将来有望なお方だったっていうのに」

 そう言うと、母は大きくため息をつく。章子はつられたように息を吐き、唇を噛むと小さな声で言い返した。

「……私も、もうあと数日で年が明けたら十三になるのよ。もう大人よ」

「その次男坊だって、あなたと同い年だったわ」

「でも……」

「さ、あと少しで支度ができるから」

 有無を言わせぬ口調で言い切る母親に、章子は唇を尖らせてその場に座り込んだ。二人の声が案外大きく響いていたのか、書斎にいたはずの父親まで顔を出してきた。

「どうかしたのか」

「何でもありません。あなた、今から章子と市に行って来ますね」

「そうか。気を付けて行ってくるんだぞ」

 父の顔を見た途端、何事もなかったかのように穏やかな顔になった母を想像の中だけで張り倒して、章子は自分より少しだけ広い背中を見つめた。



* *  *



 夜、月を見ながら、琴を爪弾く。

 あの不思議な旋律を聞いた日から、章子は毎晩のように琴でその旋律を奏でていた。あの日以来、同じ笛の音を聞くことはなかった。それなのに、妙にその旋律が耳に残ってしまい、時間が空くたびに琴に触れていた。不思議な旋律は、繰り返しなぞる度に少しずつ音色を変えていく。まるで何かに操られてでもいるように同じ指の動きを繰り返す。自然と夜更かしになってしまうため、昼間は身体の怠さや頭痛を覚えることもあったが、今日こそは早く休もうと思っていても、不思議と琴の前に座ってしまうのだ。その晩も、章子は重くなる瞼を押し上げながら琴を爪弾いていた。

 不意に、ガサリと大きな音が響き、琴の音を打ち消す。章子ははっと顔を上げると、蔀を開けて外を見た。庭の木立の中に、人影が見える。

「――誰!?」

 誰何の声に打たれたように人影が動きを止める。月明かりに照らされながらゆっくりと振り返ったのは、狩衣を纏った少年だった。年の頃は章子と同じくらいだろうか。目を丸くして辺りを見回すまだ幼さの残る顔立ちには、強い驚きが浮かんでいた。やがて、徐にひざを折り、その少年が口を開く。

「申し訳ありません、姫。私は通りすがりの者です。今宵はただ夜の散策のつもりでしたが、聞こえてきた貴女の琴の音が素晴らしく、つい足を止めて聞き入ってしまいました。ご無礼をお許しください」

 聞こえてきた声は、存外低く響いた。章子は無意識に袿を引き寄せると、一歩前に出る。冷たい指が、少年の輪郭を撫でるように御簾に触れた。

「訳あって、今宵この場で身分を明かすことはできぬ身でございます。失礼は承知ですが、私のことは口外しないでいただけませんか」

「――貴方は」

 淡々と語る少年に、章子はつい声をかけていた。

「貴方は、今私が奏でていたこの曲をご存じなのでしょうか」

 問いかけられた少年は、微かに身じろぎをすると、その場に膝をついたまま答える。

「……いえ、知っているというわけではないのです。ですが、なんと申し上げたらよいのでしょうか……」

 言葉を探すように、少年は俯いたまま首を傾げた。章子は、こくりと唾を嚥下する音を耳の奥で聞いた。

「……とても心地よく、妙に耳に残って……それで気がついたら、こちらまで足を向けていたのです。この曲は、どのような曲なのでしょうか」

 少年の言葉に、章子はどう返すべきか言葉を探して俯いた。冷え切った指先を握りこむ。結局唇から零れたのは、迷子のような頼りない言葉だった。

「――私にも、わからないのです」

 少年は僅かに顔を上げると、怪訝そうな眼差しを章子へと向けた。御簾越しに目が合って、章子はびくりと身を竦ませる。急かされたような気持ちになって、章子は慌てて言葉を継いだ。

「私も、先日この旋律を聞いたのです。笛の音でした。少したどたどしい……けれど、奇妙に耳に残ってしまって。それで、自分でも爪弾いていたのです。だから、もし貴方がご存じならと」

 少年は納得がいったのか、一つ頷くとゆっくりと身体を起こした。

「そうだったのですね。お役に立てず、申し訳ございません。……ですが、私の知り合いに、楽に詳しいものが居ります。もしよければ、その者に聞いてみましょう」

 その提案に、章子は頷いた。

「ですが、その前に、もう一度聞かせていただいてもよろしいでしょうか。知人に尋ねる際に、わからなくなってしまっては問題ですから」

 章子は、少年に背を向けて御簾から離れる。先ほどまで弾いていた琴を手元に寄せ、ひとつ息を吸うと、ゆっくりと弦に触れた。この数日ですっかりと馴染んでしまった指の動き。閉じた円環のようにくるくると同じ旋律を繰り返し弾いていると、いつの間にか少年もそれをなぞるように小さな声で同じ旋律を口ずさんでいた。しばらくそうした後、少年の声がふっと止む。

「ありがとうございます。……今宵はこれにて、失礼いたします」

 その言葉を最後に、少年は背を向けてその場を立ち去った。

 章子は、まるで夢でも見ていたかのような心地でその背を見送っていた。



* *  *



 それが果たして夢ではなかったとわかったのは、数日後のことである。

 その日も、章子は例の旋律を琴で爪弾いていた。最早、夜寝る前にこの曲を弾くことが習慣と化していると言っても過言ではない。続く寝不足が祟ってか、昼間に転寝をすることも増えたし、ちょっとした家事手伝いにも身体が重く億劫に感じる。しかしそれでも、自室へ戻ってくると身体は琴の前に座りたがるのだ。

 突然、ガサリと木立が音を立てて割れた。感じた既視感にはっとして音のした方へ目を遣ると、見覚えのある少年がそこに立っているのが、御簾越しに見えた。

「貴方は……」

「失礼。本当は二度もこのような失礼を働くつもりではなかったのですが。少し、込み入った事情がありまして」

 浅黄色の狩衣に身を包んだ少年は、衣についた木の葉を払うと、改めて章子のいる方へと向き直る。

「姫、もう一度、あの曲を聞いた時のことをお聞かせ願えませんか」

 唐突な申し出に、章子は戸惑いながらも先日と同じ話を繰り返した。突然聞こえてきた、たどたどしい笛の音。それをいつの間にか琴でなぞっていたあの夜のこと。

「その笛の演者に、心当たりはないのですね?」

「ええ。誰なのか、どうしてこの旋律がこんなにも気にかかるのか……私にもわかりません」

 少年は、目を伏せて次の言葉を探しているようだった。

 その時。

 二人の耳に、笛の音が聞こえた。

 それは、時々途切れそうになるほどにたどたどしく、先ほどまで章子が奏でていたのとまったく同じ旋律を奏で始めた。そして、先日は音が途切れたその箇所まで、演奏がなんとかたどり着いた。

 繰り返しなぞっていたその音の、次の音が空気を震わせる。

 少年は、我に返ったように立ち上がった。

「姫、音の出所を調べてきます」

 そう言い残すやいなや、少年は身を翻して駆け出す。章子が止める暇もなかった。呼び止めようとした手と声が、御簾に触れる直前で止まる。そうしている間にも、笛の音は続いていた。聞いたことのない、けれどどこか懐かしいような、不思議な気持ちになるその音を、目を閉じて脳裏に刻み込む。やがて、先日と同じように不意に笛の音が途切れた。章子は、手元の琴ですぐさま先ほどまで響いていた音をなぞり始める。先日からずっと奏でている部分と合わせても、ごく短い時間の旋律は、少しだけ大きくなった円環を描くように、またくるくると回りだした。

 しばらくそうしていると、また外から何かの音が聞こえた。もしかして先ほどの少年がまた来たのかと思ったが、御簾越しにいくら外を見ても、誰の姿も見当たらなかった。



* *  *



 その翌日。思い切り朝寝坊をした章子は、母に叱られながら火鉢の準備をしていた。いつにも増して身体が重い。なんだか頭も痛くなってきたような気がしていた。

「全く、朝寝坊なんて、子供のすることですよ」

「はい……」

 朝餉の片づけをしている母に背中越しに叱られ、章子は力なくため息をついた。今まではこんなことはなかったのに、と胸の内だけで呟く。本当に寝不足なだけなのだろうか。もし体調を崩しかけているのだとしたら、誰かにうつしてもいけない。もう今日は何もせずに部屋にいたほうが良いのかもしれない。そんなことを重い腕を動かしながら考えていると、背後から母の呆れたようなため息が聞こえた。

「最近、夜更かししてるんじゃないの?今日はちょっとバタバタするけど、準備が終わったら早く寝たら?」

「準備……」

「本当に寝ぼけているみたいね。今日は大晦日おおつごもりよ。最後に色々準備をしなくちゃ」

 言われて、ああそうだったと思い出す。この日だけは、家族が全員そろって豪華な夕餉を食べるのだ。日が沈めば、新しい年が始まる。その瞬間を、美味しい料理に舌鼓を打ちながら迎えるのが習わしだった。

「この夜を越せば――年が明ければ貴女も十三歳よ。……十三歳になるのよ」

 感慨深げにそう呟いた母の顔を、こっそりと振り返る。花が綻ぶようなという言葉がぴったりの、あどけない少女のような横顔に、章子は喉元まで出かかった声を飲み込んだ。

「……さ、それが終わったら、まずは料理の準備からよ。早く終わらせて、今日ははやく休みましょう」

 そう言われたものの、動いている間にも重さを増す身体に耐え切れなくなり、章子は夕餉の支度もそこそこに自室へと引っ込むことになった。せめて父の顔を一目見たかった、と思いながら、今日ばかりはまっすぐと寝具の中に潜り込む。冷える室内に、袿を口元まで引き上げて瞼を閉じた。



* *  *



 夢を見ていた。

 まただ、と章子は辺りを見回しながら思った。どことも知れぬ風景の中、聞き覚えのなる拙い笛の音色だけが響いている。章子は、躊躇った後、目を閉じて耳を澄ませ、音の聞こえる方へと足を向けた。実際には途中で途切れてしまったはずの笛の音は、夢の中ではやはり同じ個所ばかりを繰り返し繰り返し奏でていた。その演奏が、徐々に滑らかになっていく。章子は無意識のうちに足を速めていた。速く、この音の聞こえる場所へ。そう思った次の瞬間、笛の音が不気味な高笑いにかき消される。初めは遠く、けれどあっという間に近づいてくる笑い声。凍り付いたように動かない足に気づいた時には、息がかかりそうなほどの至近距離から笑い声が耳の奥にねじ込まれた。頬に触れる柔らかな感触と鼻腔に忍び込む獣脂の匂い。音にならない悲鳴を上げる。



* *  *



 目を覚ますと、もう夕刻だった。あるかなしかの僅かな光が室内をぼんやりと浮かび上がらせている。いつの間にか眠っていたらしい。あまりの夢見の悪さに、またすぐに眠る気になれず、章子は寝台から起き上がった。重苦しく、熱を持った身体で御簾をくぐり、蔀を開ける。見上げる空は、そろそろ日も沈み切るだろうという様子で、薄墨の夜を従えている。もうすぐ、日付が変わる。

 その時、章子の耳が微かな音を捉えた。

 龍笛の音だ。章子もよく知っている、雅楽の曲。滑らかに響くその音が、闇夜を照らす月明かりのように章子の身体に沁み込んでいく。身体が不思議と軽くなるのを感じて、章子は音のする方――庭の方へと向かった。音をたてないように気を付けて、外の空気の中へと身を躍らせる。その冷気の中、少し離れたところに人影が見えた。

 その人影は、章子のいる母屋に背を向けて、月を見上げながら龍笛を吹いていた。真冬の冷たい空気が、章子の身体から急速に温度を奪っていく。

 不意に、人影が章子の方を振り向いた。

「……姫?」

 聞こえた声は、二度だけこの場所で会った少年の声だった。慌ててこちらへと向かってくる少年の姿に、章子は薄く笑った。

「何をしておいでです、早く家の中へ。ここは冷えます。何より、そのように不用意にお姿を見せては――」

 章子を諫める言葉は、最後まで音になることなく途切れた。その後を引き継ぐように、笛の音が聞こえてくる。最早指に馴染んでしまったその旋律に、章子は誘われるように地面へと降りた。冷たかったはずの指に、不自然に熱がともる。

「姫!」

 傍らで少年が腕を引こうとするのを躱し、章子は裸足でいるのも構わず早足で歩きだす。まるで夢の中の光景をなぞるように、速く、速くと気持ちが急ぐ。あの音が途切れる前に。あの声が聞こえる前に。

 どこをどう通ったのかもよくわからないまま、章子はいくつもの路を横切り、いくつもの角を曲がっていく。

「姫、お待ちください!」

 そのやや後方を、龍笛を手にした少年が追っていた。そのことを気に留めつつも、今は音を追わなければと、理由もなく心が急ぐ。

「なりません、姫!その笛は――」

 少年が、必死に何かを伝えようとしている。章子は、心の内で謝りながら、聞こえてくる笛の音だけに集中していた。もう近い。この角を曲がれば、あと少し。

 角を曲がる。視界が開ける。

 そこには、一本の横笛だけが浮かんでいた。



* *  *



『それは、呪歌まじないうたじゃな』

 そう重々しく告げたのは、手足が生えた琵琶だった。付喪神となってから早百年を数えるというこの琵琶は、この辺りのあばら家に住み着いた妖たちの仲間内では一番の物知りだった。

「呪歌?」

『そうだ。おそらくその姫、何者かに魅入られておるな。繰り返し呪歌を聞かせることで、その姫をおびき出そうとしているのだろう。悪意の塊みたいなやつじゃな』

「……でも、こんなに綺麗な曲なのに」

 なんだか物悲しくなってそう言うと、琵琶は目つきを険しくした。

『お前さんも、その姫とやらの琴を通じて取り込まれかけとるんだ。なんとかせねばなるまいよ。橘の。その姫を助けるためにも、な』

 そう呼ばれた少年は、驚いたように目を瞠る。

「……助ける?」

『そうだ。その姫を、助けたいのなら、だが』

「でも、そんな――」

 言いかけて、少年は口をつぐんだ。耳の奥に蘇る言葉。『――その死の先で――』。

『橘の?』

「――助けたい」

 少年は、何かを振り切るように言い切った。

「……助けたい。助けられるはずなんだ。俺は」

 あの予言が、本当なら。

 少年の傍らで、琵琶がその小さな手足を伸ばしてぴょこんと起き上がる。

『……ふむ。では、考えるとしようか』



* *  *



 宙に浮く横笛に視線を奪われ、章子の足が止まる。健も足を止めると、章子の一歩前に出て彼女を庇うように立った。二人が見つめる中、浮かぶ横笛の周囲に、黒い靄のようなものが凝り始める。やがて、それは漆黒の毛並みの狐の姿をとった。闇夜よりも暗い瞳に射すくめられ、章子の喉がひゅっと鳴った。

 再び、横笛がひとりでに音を奏で始める。

 その時だった。

 ひときわ高い龍笛の音が、横笛の音をかき消した。そのまま、健の龍笛は、章子の良く知る神楽歌を奏でる。狐の周りを覆うように黒く凝っていた靄が、その音に震えたかと思うと、薄く散らされていく。狐の姿も、徐々に小さくなったかと思うと、甲高い声を残して唐突に霧散した。それと同時に、宙に浮いていた横笛が粉々に砕け散る。

 その光景を茫然と見つめていた章子は、目の前の少年が突然うずくまったことで我に返った。慌てて膝をついて、少年の肩に触れる。

 触れた、つもりだった。

 けれど、章子のその手は空を切っただけだった。



* *  *



『……ああ……どうして……』

 誰かの嘆く声が聞こえる。

 健は、ゆっくりと目を開けた。見慣れた自分の家。何かに縋りつくようにして泣いている母。母を抱きながら、肩を震わせる父。

『健……健……!やっぱり、一人にするんじゃなかったのよ……!あの子が十三になるまでは、絶対に一人にするのではなかった……!』

『圭子……』

『私の……私のせいよ……!』

『お前のせいではない、お前のせいでは……っ!』

 途方に暮れたように身を寄せ合う二人の前に横たわる自分の顔を見て、健は何があったのかを認識した。そういえば、身体のどこかも痛むような気がする。

 死んでしまったのか、自分は。

 それなのに何故、このような形で両親の姿を見えているのだろうかと自問する。その傍ら、頭のなかで響く声があった。

『お前の子は、十二の年を越えられぬ。――だが、その死の先で、一人の命を救う』

 本来ならば知るはずのない言葉だったのだろう。知ってしまったのは偶然だった。両親が話しているのを聞いてしまったのだ。随分と深刻そうに話していた両親の声が子供心に恐ろしかった。時間が経つにつれて思い出さなくなっていたけれど、きっと心のどこかには引っかかっていたのだろう。

 きっとあの言葉は、今の状況のことを指しているに違いない。そう思って、何か自分にできることはないかと母の背に手を伸ばした。

 しかし、その手は母の身体を素通りする。

「母上……?」

 恐る恐る声をかけるが、母は振り向かない。途方に暮れて、健は屋敷の中を走り回った。けれど、誰にも健の姿は見えていないようだったし、声も聞こえていないようだった。健も何にも触れることもできず、混乱した頭のまま、気がつけば家を飛び出していた。

 どれくらいそうしていたのか、健にもわからない。当てもなくあちこちを歩き回り、疲れたら適当な場所で休む。そんなことを繰り返していた、ある夜のことだった。

 不意に聞こえてきた琴の音に、健は足を止めた。短い旋律をまるで円環をなぞるように繰り返す琴の音は、奇妙に耳に馴染んだ。無意識のうちに、音のする方へと足が向く。やがて、彼は音の源へとたどり着いた。小さな屋敷の庭から、母屋の方を覗き見る。ひとつだけ開いた蔀から、その琴の音が漏れ聞こえてくるのがわかった。

 唐突に、強い風が健のいた木立を揺らす。

「――誰!?」

 響いた誰何の声。御簾越しに、その声の主と目が合った。

 慌てて周囲を見回すが、自分のほかには誰の姿も見えない。どうやらこの声の主――おそらく声からするとまだ幼い少女だろう――には、自分が見えているらしい。そう認識すると、健は失礼のないように慌てて膝を追った。

「申し訳ありません、姫。私は通りすがりの者です――」



* *  *



「ねえ、貴方!大丈夫?」

 章子は、何度も少年の身体に手を伸ばす。しかし、その手は身体を素通りするばかりで、一向に少年に触れることはできなかった。そればかりでなく、少年の姿は徐々に薄らいできているように、章子には見えていた。

「ねえ!ねえってば!」

 繰り返し呼び掛けると、少年はゆっくりと目を開け、少し足を動かすと地面に仰向けに寝転がった。

「……あれ……」

「気が付いた……!」

 泣きそうな顔で笑みを浮かべた章子に、少年は僅かに首を傾げた。

「あの笛は……」

「よくわからないけど、壊れてしまったのかしら。貴方の演奏のおかげよ」

「そ、か」

 ともすれば遠のきそうになる意識をかき集めて、健はゆっくりと笑った。

「よかった」

「え?」

「……ちゃんと、助けられたんだ」

 その言葉を最後に、健の身体がゆっくりと解けていく。何が起こっているのか理解できずに、章子は茫然とその光景を眺めていた。我に返って辺りを見回すが、少年の姿も、宙に浮かぶ笛も、真っ黒な狐も、何もない。空には、ほんの僅か、名残ばかりの陽の光が今にも消えようとしていた。

 あの光が闇に溶ける頃、年が変わる。新しい年を迎える。

 章子は十三歳になる。

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