人事が漏れる一流企業
「冷蔵庫の中、掃除しておいてくれる? 」
給湯室を支配するような口調が耳に届いて、廊下の壁ぎわに身を潜める。
聞き覚えのある声質、可愛さゼロの口の利き方で、誰が言ったのかはわかったが、言われている相手が誰なのかは、見てみないとわからない。一呼吸待ったが静かだ。
「お局さま池田」に返事をしないでいられるのは、一人しかいない。確信を持って「おはようございまーす」の挨拶と共にノリコは中に入る。
予想どおり、リカだった。
奇しくも、その日、池田とリカは二人とも、ベージュのスラックスに白のトップスのコーデだ。
眼鏡をかけ、前髪を軽く横に流して、耳を見せるショートヘアの池田と、夜会巻きをカジュアルダウンして、ビジュー付きのコームでまとめたリカが、ガチンコ勝負状態だった。
池田の細い目が放つ冷ややかな視線は、細身のローライズのスラックスに包まれた、リカの長い脚に嫉妬しているようにも見える。
リカが冷蔵庫の扉を開けてかがむと、スラックスのベルトの位置に空間が出来て、黒いレースのショーツがのぞいた。セクシーだ。池田はこんなの履けないだろう。
ノリコは、池田の前に割り込むようにして、リカの背後に立った。
「リカさん、ごめんなさい。私がお当番だったの……」
自然な動きで、冷蔵庫の前からリカをどかす。「お局サマ」の攻撃を回避する為のとっさの嘘は、慣れたもんだ。
そんな当番あったっけ? という表情で、リカはノリコを見た後、
「あっ、じゃあ、鈴木さん、後はお願いします」
と、立ち上がったリカの背中を、ノリコは、ポンポンと優しく叩いて、給湯室から追い出した。
池田の訝しげな表情は、最後まで消えなかったが、ノリコは気にせず背を向けた。
「あ、鈴木さん」
もう居ないだろうと安心していたので、池田に呼びかけられて、体がビクっと動く。
「最近、冷蔵庫に、果物を酢漬けしているみたいなビン、たくさん入ってるけど、会社の冷蔵庫なのよ。止めるように若い子に言っておいてね」
今度こそ池田が立ち去るのを確認した後、冷蔵庫の中を見た。
「酢漬け? なるほど……、そういう風に見えるのか」
ノリコは、女子社員のお弁当のお供アイテムとして流行っている、果物を使ったデトックスウオーターのビンの一つを、手にとってつぶやいた。
池田は子会社の社長の娘で、その立場はいかんなく発揮された。
入社した社員の殆どが取得する資格を取っていない。本社以外の支店や倉庫などで扱う製品の管理業務にその資格は不可欠だ。なので、本社以外に異動も出向もない。必死に理数系の科目を勉強して、その資格を習得したノリコ達には、面白くない存在だ。
正確な年齢は知らないが、四十代半ばだろう。プライベートはあまり知られていないが、「あの会社の娘さんだよ」だけは大いに広まっていた。男性社員も気軽に仕事を頼めない、近寄りがたい存在で知られている。理系出身者が多い中、芸術系の大学卒らしいという噂が、一時広まった。
筆ペンを持たせると、紀貫之も真っ青な達筆で署名するから書道専攻だとか、手先のネイルが上手だから美大卒だとか……。
日常の業務を終えた後は、オフィスの片付いていない箇所を、指摘して歩くのが日課で、「巡回」と揶揄されている。
輪郭がはっきりしない中年女性特有の顔立ちに、しまりのない体型……。
自分もいずれこうなるのだろうか。
対照的に、リカは「才色兼備」という言葉に負けていない。
外見的にも、普通の女の子が欲しいと思うもの、ほとんどを持っていた。
サトシの話では、リカは大学時代、あまりにも多くの男性に言い寄られ、その煩わしさを解消する為の対策として、彼を作ったという。
その時の彼が、今のリカのダンナさんだ。リカに言わせると「二十人以上に言い寄られて大変な時に、守ってもらったから」という理由で、迷わず決めたらしい。
高校までアメリカで育ったせいか、合理的な考え方で、物事を進める傾向があったが、そのさばけた性格は仕事では有利に働いた。
ノリコとは同期扱いだが、リカは修士卒なので二歳年下になる。同期の男性社員と同等に昇進してきた、数少い女子社員の一人だった。
容姿も良かったが、仕事に対する情熱は比類ない。応接室で徹夜したリカに、ノリコは何回朝ごはんを届けたかわからないし、大雪予報が出ると、会社に泊まる支度をして出勤するのはリカだけだ。
冷蔵庫の中は、確かに雑然としていたが、緊急を要するほど、汚れているわけではなかった。池田はこんな事でしかリカに物を言えないのだ。
数分後、姿を消したはずのリカが再び現れて、冷蔵庫の前でかがみこんでいるノリコに声をかけた。振り返ると、ノリコが作ったイチゴとブルーベリーがふんだんに入ったデトックスウオーターを手に持っている。
「ノリコねいさん、今日のコレ、超絶ウマイ! いつもと違う? 」
「炭酸水ベースにしてみたの。もう炭酸は抜けてると思うけど、そんなに違う? 」
ノリコは、自分の分はまだ飲んでいない。リカは本当に気に入ったようで、一気に飲んでしまいそうだ。
「ノリコー、さっきありがとう。助かった、ホントに」
「そんなの別にいいよ。それより、忙しいんでしょ、ここに居て大丈夫? 」
リカは、ノリコにお礼を言う為だけに、このフロアーに降りてきたのではなさそうだ。
「もし良かったら、今日、ランチ一緒にどうかなって……」
お昼ご飯を誘うだけなのに、随分と気を遣っている。
「ごめん、あたし、午後イチ、倉庫に行かなきゃ行けないの。また今度! 」
リカは、うなづく仕草の後、納得したような表情を見せて、こう言った。
「倉庫の方、新事務所移転だもんね、内示中から動かないと間に合わないか……。ノリコがあっちに行く前に、個人的に食事したかったけど、うん、またにする」
もしかしたら、自分の顔のどこかに、驚きが表れていたかもしれない。そうなんだ、倉庫へ異動の内示が、間も無く自分に届くんだ。
「たまにはこっちにくるんでしょう? 」
「も、もちろんよ」
そう答えたノリコだったが、動揺を隠すのが、精一杯だった。
人事が漏れる会社は一流じゃない。
化学製品を扱う業界では、一応名の知れた会社だったが、こんなもんだ。
自分の上司からでなく、リカから辞令を聞いた。
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最後まで読んでいただきましてありがとうございました。
今日7/6(月)の夜、9時前後に、第9話の投稿予定日時をお知らせします。よろしかったらそちらもご覧くださいませ。担当は、多分、リカがやりそうな気配……です。