止まった時計塔 その1
大学のキャンパスの片隅に、誰も使わなくなった時計塔がある。
石造りの壁には蔦が幾重にも這い、隙間という隙間から緑の触手を伸ばしている。上部の文字盤はひび割れて、もう何十年も同じ表情のまま、変わらぬ空を見上げている。針は午後三時十七分を指したまま、もう十年以上動いていないらしい。地元の学生たちの間では、「触れると呪われる」「中に入った者は二度と出てこない」という、根拠のない噂がまことしやかに囁かれていた。夜になると、塔の周りには誰も近づかない。もちろん湊は、そんな話を本気にするタイプではなかった。
蒼井湊は工学部の三年生で、壊れたものを見ると直したくなる性分だった。子どもの頃から、家にある目覚まし時計やラジオ、壊れた自転車の変速機まで、何でも分解しては組み立て直してきた。母親はそんな湊を見て、いつも呆れたように笑っていた。
「男の子って、どうしてそんなに機械が好きなのかしらね」
――そう言いながらも、壊れたおもちゃを持ってくるたび、彼女は少しだけ嬉しそうだった。
祖父は時計職人で、幼い湊はその工房の隅で、小さな歯車が噛み合う音を聞くのが好きだった。油の匂い、鑢の音、そして祖父の無骨な指先が、繊細な部品を扱う様子。それはまるで、一つの世界を丁寧に組み立てているかのような光景だった。祖父が死んでから、もう五年が経つ。あの工房も、今は誰も使っていない。
研究室の帰り道、夕暮れの光の中で、彼はその塔の扉が半開きになっているのに気づいた。普段は鎖と南京錠で固く閉ざされているはずのその扉が、今日はなぜか、誰かを招くように開いている。夕日が塔の影を長く伸ばし、その先端が、まるで湊を指し示しているかのようだった。
「立ち入り禁止、って書いてあるんだけどな」
そう呟きながら、湊は足を踏み入れていた。理性では引き返すべきだと分かっていたのに、身体は勝手に前へと進んでいく。まるで、長く待たされていた約束を、ようやく果たしに来たかのように。心臓が、いつもより少し速く鼓動していた。
祖父の工房を思い出すと、いつも同じ光景が蘇る。窓から差し込む午後の光、机の上に整然と並べられた小さな部品たち、そして
「湊、時計はな、嘘をつかない機械なんじゃ」
という祖父の口癖。壊れた時計を前にするたび、湊はその言葉を反芻してきた。目の前のこの巨大な時計塔もまた、何かを語りかけようとしているように思えてならなかった。単なる好奇心だけでは片付けられない、もっと深い何かに呼ばれている気がしていた。
時計塔の扉に手をかけた瞬間、湊の脳裏に、なぜか亡き祖父の声が蘇った。
「機械にはな、待っている時間ってのがあるんじゃ。誰かが手を差し伸べてくれるのを、じっと待っとる」
子どもの頃には理解できなかったその言葉の意味が、今になって、ほんの少しだけわかるような気がした。この塔もまた、長い間、誰かを待ち続けていたのかもしれない。
夕暮れの光が徐々に弱まっていく中、湊は自分の呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえることに気づいた。まるで世界そのものが、これから起こることを固唾を呑んで見守っているかのようだった。
それでも湊は、後戻りできないという確信だけを胸に、静かに前を見据えていた。
湊はゆっくりと深呼吸をした。これから起こることへの予感が、胸の奥で静かに渦巻いていた。




