プロローグ
声が聞こえる。
それは教室で数十人の生徒を前にして教壇に立つ教師の声だったり、グラウンドで走り回りながら自分が持っているボールをパスする相手に向かって叫ぶ生徒の声だったりする。
どれも遠くから聞こえてくる声だ。声の主から僕がいるところに届くまでの間にその声は輪郭を失い、ぼやけた音の塊として僕の耳に伝わってその内容をはっきりと聞き取ることはできない。
それらの声に混じって、僕のすぐ近くで聞こえる声がある。
……いや、声じゃなくてそれは単なる息、呼吸音だった。
学校の三階から屋上に繋がる薄暗い階段に腰掛けている僕の隣には、僕と同じようにこの階段に腰を下ろしている女子生徒がいる。
彼女は頭を僕の左肩に預けて上半身を僕の身体に寄せ、そのまま穏やかに眠りながら、微かな寝息を立てている。
彼女は瞼を閉じて睫毛を下ろし、小さく唇を開け、彫刻のように美しく整ったその顔を無防備に僕に晒していた。
彼女はスカートの膝の上に教科書とノートとペンケースを置き、その上に自分の両手を乗せていた。ノートの表紙には”2年6組 伯楽カエデ”と記されている。
伯楽さんがこうやって眠っているところを見るのは初めてだった。
とはいえ僕が初めて伯楽さんと言葉を交わしたのがつい昨日のことなのだから、今まで見たことがなかったのはある意味当然のことだった。
だけど今、伯楽さんが僕に見せているこの寝顔を、彼女の恋人は見たことはあるのだろうか?
サッカーチームに所属してプロのサッカー選手となるべく連日連夜のトレーニングに情熱を注ぎ、その代償に付き合い始めて一年になる恋人とすれ違う日々を送っているという彼に、こんな彼女の姿を知るチャンスなんて存在しているんだろうか?
僕は今いる場所から動いたり、階段から立ち上がることができなかった。深い眠りに落ちている伯楽カエデを起こすことなんてできなかったからだ。
今の僕にできるのはここにじっと座ったまま、この状況に至るまでの昨日からの一連の出来事を、順番に思い返していくことだけだった。




