第38話:王国騎士団の進軍と、未知の防衛機構
地下迷宮の第五層へと続く長く薄暗い石造りの階段の終端。
王国の第一騎士団から選抜された先遣隊五十名が二列の堅固な陣形を組んで重い足取りで前進していく。
彼らの身体は迷宮の最深部で想定される未知の凶悪な魔獣の爪牙や、致死性のトラップから命を守るため、王国が誇る最高クラスの重武装で完全に覆われていた。
厚手の綿の肌着の上に衝撃を吸収するための分厚い革の鎧下を重ね、その上から全身を覆う細かい鉄の輪を編み込んだ鎖帷子を着込む。
さらにその外側を厚さ数ミリの頑強な鋼鉄の板金鎧で覆い尽くしている。
一人あたりの装備の総重量は武器や水筒などの携行品も含めれば優に三十キログラムを超える。
彼らが階段を一段下り前へ足を踏み出すたびに各関節部の金属パーツ同士が激しく擦れ合い、ギガァッ、ガシャァッという重く鈍い摩擦音が静寂に包まれた空間に反響した。
先頭を歩くのはゼクスだ。
彼の右手には、かつての錆びついた聖剣の残骸ではなく王城の奥深くにある厳重な武器庫から新たに特別に支給されたミスリル製の真新しい長剣が固く握られている。
刃こぼれ一つない白銀の刀身が通路の微かな光を反射して鋭く冷たい輝きを放つ。
ゼクスの目は血走り、眼球が小刻みに左右へと動き、視界の先にあるはずの標的をせわしなく探し求めている。
五十名の武装集団は過去の過酷な迷宮探索の経験と未踏の第五層という未知の領域に対する警戒から極度の身体的緊張状態を維持していた。
脳の交感神経が極端に優位になり、血流に大量のアドレナリンが絶え間なく放出される。
彼らの心拍数は安静時の倍近くまで上昇し暗闇の中でわずかな光も逃さないよう瞳孔が大きく開いている。
いかなる方向からの奇襲であってもコンマ数秒の反応速度で即座に迎撃行動へと移行できるよう全身の骨格筋が固く収縮し、いつでも爆発的な運動エネルギーを出力できる状態にセットされていた。
だが彼らが階段を降りきり第五層の通路へと足を踏み入れた瞬間、研ぎ澄まされた感覚器官に入力されるすべての情報は、彼らの事前の想定と完全に乖離していた。
彼らが踏みしめる床は迷宮特有の不規則で凹凸の激しい岩肌や靴底にまとわりつく湿った粘土質の泥ではない。
水準器で測ったかのように完璧に水平に整地され、微かな弾力を持つ特殊な合成樹脂で均一にコーティングされた滑らかな床材が通路の奥に向かってどこまでも続いている。
重い鉄のブーツの底が均等な摩擦を捉え足首や膝の関節にかかる不規則な負荷や衝撃が完全に消失している。
壁面には一定の間隔でオレンジ色の魔石灯が整然と埋め込まれ、その光量は通路全体を均一に照らし出すよう完璧に調整されている。
空間内に濃い影が落ちる場所が一つも存在せず魔獣が奇襲を隠すための死角が光学的に完全に排除されていた。
第一騎士団長の右手が静かに挙がる。
金属の籠手に覆われた指が特定のサインを作り五十名の重い足音が統率された動きでピタリと停止した。
団長は兜のバイザーの狭い隙間から前方の空間を鋭く凝視する。
魔物の狂暴な咆哮はない。
岩が崩れる音や不気味な水音もない。
壁の上部に等間隔で設けられた細いスリット状のダクトから一定の風量で無音の微風が絶え間なく流れ込んでいる。
高度な換気システムによって空気中の酸素濃度が人体の活動に最適な濃度に保たれ迷宮の底に澱むはずの腐敗臭や有毒なメタンガスの成分は検出されない。
気温は摂氏二二度、湿度は五〇パーセント前後に固定された異常なまでの適温空間がそこに広がっていた。
団長の脳内で、長年の過酷な戦場勘と経験則が高速で現状と照合されていく。
敵の姿がどこにも存在しない。
物理的な罠の気配もない。
毒ガスや瘴気もない。
この深度の迷宮において物理的な脅威が一切検出されないという、あり得ない異常事態。
その決定的に矛盾した状況を前に彼の百戦錬磨の戦術判断は過去の最悪のケースを想定した一つの結論を導き出した。
「……全隊、陣形を密にしろ。大盾を胸の高さから下げるな」
団長の低く押し殺した声が静穏な通路に響く。
「ここは物理的な空間ではない。高度な幻惑魔法、あるいは我々の脳に直接作用する広域の精神干渉トラップだ。我々の視覚と嗅覚は、すでに何者かによって都合よく誤認させられている」
その音声による指令が五十名の騎士たちの鼓膜に入力される。
彼らの脳は団長の論理的誤認を絶対の事実として処理し、見えない脅威に対する防衛機能をさらに強く出力した。
騎士たちは両腕の筋肉をきつく収縮させ十キログラム近い鋼鉄の大盾を胸の前に固く構え隙間なく密着させる。
盾を空中で力で静止させるその動作によって彼らの肩と背中、そして前腕の筋肉に持続的で強烈な負荷がかかり始めた。
「一歩ごとに足元を確認しろ。この平坦な床は、直下に無数の剣山が仕掛けられた落とし穴の幻影である可能性が高い。流れている快適な空気にも、無色無臭の遅効性の神経毒が混じっていると想定しろ」
ゼクスもまた新調されたミスリルの剣の柄を指の関節が真っ白になるほどの強い力で握りしめた。
彼の脳内では『裏方の男が勇者を陥れるために仕掛けた凶悪な罠』というログが完全に固定化されている。
この不気味なほどの平穏さ快適さこそが、あの男の陰湿な悪意の証明なのだと彼の狂信的な思考回路は事実を変換して処理した。
騎士団の歩行速度が極端に低下する。
彼らは平滑で安全な床材の上を一歩進むごとに数秒の安全確認作業を挟みながらブーツの底を床から離さずにすり足でじわじわと進み始めた。
均一な光量の魔石灯の下で存在しない死角からの奇襲に備え、重い兜を被った首を絶え間なく左右に振り続ける。
戦場とは思えない穏やかな居住空間。
外部からの物理的な負荷や攻撃は、この空間には一切存在しない。
だが重武装の内部に密閉された騎士たちの体表からは、おびただしい量の汗が噴き出していた。
幻影の罠を警戒する過剰な脳の処理と重い盾を構え続ける骨格筋の持続的な収縮。
厚い綿の肌着と革鎧、鎖帷子、そして通気性の全くない鋼鉄の板金鎧の内部に、彼ら自身が発する体熱が急速に蓄積されていく。
筋肉の運動によって消費されたエネルギーが熱に変換され、逃げ場を失って鎧の内側にこもる。
兜の内側で自分たちの吐いた息が熱くねっとりと顔に跳ね返る。
換気ダクトが供給する清浄で冷涼な空気は分厚い兜のバイザーに阻まれ、彼らが真に求めている酸素として肺の奥底に届く前に浅く早い呼吸のサイクルによって吐き出されてしまう。
ガシャァッ、ギギィッ。
一歩進むたびに鳴る金属の摩擦音が次第に重く、鈍いリズムへと変化していく。
隊列の中ほどを歩く数名の若い騎士の呼吸が、ヒューッ、ヒューッと不規則に乱れ始めている。
彼らの顔面は逃げ場のない熱と極度の緊張によって赤黒くうっ血し、額から流れる汗が目に入って強烈に染みても盾を構えた両手を動かして拭うことすらできない。
ただ「歩きやすい」だけの空間。
その未知の防衛機構の中で王国最強の精鋭騎士団は自らの過剰な警戒心と重武装によって自らの熱に内側から炙られるように体温を上昇させ、ただ静かに消耗していく。
リアンが設計したインフラ設備は誰かを攻撃することもなく、ただ設計された通りに静かに働いているだけだ。
通路の奥で換気ダクトのファンが一定の駆動音を立てて回り続けている。




