第九章──最強の見習い
最強の見習い
Ⅰ
下町で小さな印刷屋、武藤印刷会社を営む武藤和成は経営の危機に悩んでいた。
今どき一枚何円の儲からない仕事でも、武藤は嫌がることなく輪転機を回し続けた。
もともと大手の印刷会社に勤めていた武藤は、部下や同僚、それに上司からも〝鬼の和さん〟と呼ばれるほど、印刷の仕上がり具合には厳しかった。
三十三歳で独立した時は、その仕事ぶりを買われて武藤に仕事を頼む顧客も多かった。それでもそれまで勤めていた印刷会社から恨まれたり妬まれたりされなかったのは、偏に武藤の人望の篤さだと言えただろう。裸一貫叩き上げで一人前になり、一目置かれる存在になっていた武藤は、妥協知らずの頑固な職人気質を持ち合わせていて、これがコンピューターの出現により、時代の波に置いてけぼりを食った。
ガチャンガチャンとうるさい輪転機の音が減っていくにつれて、逆に酒の量はだんだん増していった。
武藤には十歳年下の清美という妻がいた。腰が軽く、家事をこなしながら夫の仕事も手伝う働き者だ。
インクまみれになって働く夫の息遣いを間近で感じていた清美には、酒に溺れてしまう夫の気持ちがよく分かった。最近では昼間でも酒を飲んでしまうことが多くあったが、仕事だけが生き甲斐だった夫を責める気にはなれず、暫くは夫の気が済むようにさせていた。
武藤夫婦の間には二人の娘がいて、二十二歳の長女洋子は佐ノ倉銀行に勤務する銀行員だ。休日のほとんどは、学生時代からつき合っている彼とデートをして過ごすのがお決まりだった。二人は近々結婚する約束もしていて、そのことは武藤夫婦も認めていた。
次女の秀美は二十歳になったばかりで、栄養士の資格を得るため短大に通う学生だった。
洋子も秀美もおとなしい性格で、派手な色合いの服を着ることはほとんどなかった。けれども服を上手に着こなすセンスがあるのも二人の共通点だった。そのせいだろうか──二人は裕福で育ちの良いお嬢様に見られることが多かった。
ここのところ武藤は、毎日のように近所の飲み屋に出入りしていた。家で飲んでも清美は小言など言わない。それどころか酒の肴まで用意してくれる。武藤はそんな清美の良妻ぶりにかえって気が引けた。財布にそれほど響かない立ち飲み屋で、たわいもない会話をして過ごすのが、現実から一時だけ逃避できる場所だった。しかしそれは本当に一時のことで、一人ほろ酔い気分で家に帰る道々、仕事のない虚しい現実が武藤の心に鎌首を擡げて足取りが重くなるのだった。
その日も武藤は立ち飲み屋で一杯ひっかけて帰る途中だった。ふと遠回りをしたくなり、覚束ない足取りで入ったことのない細い路地へと足を向けた。戦火を免たような古い民家が、人の入れる隙間もないほどの間隔で建っている。騒音は全く無いが、テレビの音や子供の笑い声、家族の会話はあちこちから漏れ聞こえてくる。そんな窮屈な路地を気分のまま右に左に進んで行くと、朱色に塗られた小さな鳥居が忽然と姿を現した。武藤もそれを見れば稲荷神社だとすぐに分かった。
「こんな狐の神様でも少しはご利益があるかなぁ…」本気で拝む気もなかったが、朽ちて折れそうな鳥居を武藤は潜ってみた。わずかな賽銭を投げ入れパンパンと手を打ち、ごもごと願いごとをすると、それで気持ちが落ち着いたのか、足取りを軽くして我が家に帰って行った。
武藤印刷会社の輪転機が勢いよく回り始めたのは、それからたった三日目のことだった。次々と注文の電話が殺到し、武藤も酒どころではなくなった。
急に忙しくなった理由がなんなのか──武藤には見当もつかなかったが、再びインクに塗れながら輪転機を回せるなら理由などどうでもよかった。
言わずもがな清美も大喜びだった。水を得た魚のように生き生きと働きだした夫の姿に、ホッと胸を撫で下ろした。
だがこの後とんでもない代償が待っていることを、武藤はまだ知らない。
☆
「智信枝栄よ、順調のようですね?」
「はい天甦霊主様…錫は必ず目的のモノを見つけ出してくれるでしょう」
「だがしかし…狛犬のいしを呼び出すに至っては、気障りの婆の助けが大きかったようですね…?」
「…というより、すべて高宮ハルの助けです…天甦霊主様」
「そ、そうか…。錫に至っては霊力が勝れていたということですか…」
「はい、天甦霊主様。いくら謎が解けても、それだけでは…。やはり錫の霊力を褒めるべきです」
「そうですね。それに良き仲間にも恵まれているようですし…」
「はい、天甦霊主様。私も微力ながら錫の…いえ、錫雅様のお力になれればと…」
「頼みますよ。ところで…いちいち私の名を呼ぶなと前にも言うたでありましょう?」
「そうでしたね…天甦霊主様」
「………ここにはお前と私しかおらぬのですから…」
「存じております天甦霊主様…」
「………」
Ⅱ
夜八時過ぎに仕事場の電話が鳴った。010-509-7171──この回線だ。
香神家には二回線あるが、仕事場の電話は龍門しか取ってはいけない厳しい掟がある。龍門はいつものように静かに受話器を取った。
「はい。聖霊師天登龍門ですが…」少し声のトーンを落とし、ゆっくりと落ち着いた口調で話をするのが天登龍門こと香神一のお約束だ。
「あっ、先生?龍門先生ですか?」聞き覚えのある声だった。
「私、川手治です。その節はお世話になりました。おかげさまで、あれからあの屋敷も穏やかです。…といってもまだ誰も入居していませんがね。わーはっはっはっは!」一人で元気な川手だ。「ところで先生、実はまた先生にお願いがあるのです」
「はい。聞かせてもらいましょう」龍門は落ち着いた声で返答した。川手は少し話が長くなると前置きしてから話し始めた。
「私の友人に清瀬というのがおります。この清瀬の奥さんは潤子さんというのですが、その潤子さんの妹の妙子さんの大親友の娘さんが何かに取り憑かれてしまったらしいのです。妙子さんは親友からその話を聞いたところで何もしてやれず、とりあえず姉の潤子さんに相談しました。潤子さんは昨日の夕食で旦那の清瀬とその話題になり、それを聞いた清瀬は、私が龍門先生と協力して聖霊した話を思い出したんだそうです。というのも、以前清瀬には詳しくあの時の話をしていましたから…。それでいの一番で私に今の話を相談に来た…と、まぁこういう流れなんでさぁ」龍門は中身のない川手の話にちょっとばかりうんざりした。
「娘さんから川手さんにたどり着くまでの流れは分かりましたが…その娘さんが具体的にどういった状態なのかが全く分かりませんな」
「すみません…仰るとおりです。人から人へ伝わっているもんで…。とにかく龍門先生、一度その娘さんに直接会って様子を見てもらえませんか?私と先生の誼で…どうかひとつ」川手にそんな風に言われるほど深いつき合いはしていないが──と龍門は思ったが、それは口にせず飲み込んだ。
「私と川手さんの仲ですから…無下には断れませんな」逆にわざと川手を持ち上げた。
「そ、そうですかぁ?…いやぁ、そうですよね!まいったまいったぁ」川手は声が上擦ってしまうほど有頂天だ。こういう人材を上手に持ち上げておけば、天登龍門の存在を世間に広めてくれることを香神一はよく分かっていた。
電話を終えた龍門はリビングに居る錫に声をかけた。
「おい錫、仕事が入ったぞ。次の日曜日…三日後だ…」
「分かったわパパ…頑張りまっす」
「まぁしっかりパパの下で修行しなさい……見習いとしてな」
Ⅲ
──二ヶ月前──
気障りの婆と出会い、狛犬のいしを集鬼鈴で呼び出して、自分の進むべき道が〝聖霊師〟であると悟った錫は、次に何をすべきかを気障りの婆に尋ねた。
「自分の道は自分で見つけろ…バカ者のションベンたらしが」
「どうせ私はお子ちゃまですよぉ~」
「ご主人様は、このいしが護ってみせますけん心配せんでください」
「ん~ん~、いしだけだよ…そう言ってくれるのはぁ」錫は気障りの婆に当てつけてそう言った。いしは嬉しそうにデレデレしていたが、気障りの婆は知らんぷりだ。「こんな時だけ耳が遠い年寄りの振りして…」
「聞こえとるわ…」。「…ひっっっ!」こんな会話をしながら神社から気障りの婆の自宅に戻ってみると、浩子と信枝は神前の前でまだ眠ったままだった。
「奴さん達まだ目を覚まさんな…。ちょっと薬が効きすぎたかのぉ…きひひひひ」
「きひひじゃないわよお婆さん…二人とも大丈夫なの?」
「心配ないわい。それよりあいつらが目を覚ますまでワシが少し指南しておいてやろう」
「し、指南って…どんな?」恐いことはご免被りたい錫だ。
「難しいことではない。ションベンたらしにも出来ることじゃ」
──「この婆さんだけは…。入れ歯に瞬間接着剤を付けて、永遠に取れないインプラントにしてやる」腹を立てる錫を気にも止めず、気障りの婆は話を続けた。
「晶晶白露と集鬼鈴じゃがの──お前に管理させるわい」
「え──っ!?私が持っててどうするの?」
「それを今から説明するんじゃ。お前は聖霊師になると決めたんじゃろう?」
「そ、そりゃそうだけど…」そう言われると錫はぐうの音も出ない。
「さぁて、そこでじゃ…」
錫が気障りの婆から話を聞き終わった頃、浩子と信枝がやっと目を覚ました。当然錫もお神酒を飲んで眠っていたことになっているが、二つの神霊界賜尊具は、二人が目を覚ます前にそっとトランクに戻しておいた。
気障りの婆の家を後にし、車で二人を送り届ける間も、錫はどうやって神霊界賜尊具のことを龍門に話せばよいのかを考え続けた。
「気障りの婆さんは元気だったか?」
「うん…パパによろしくって…」本当は〝よろしく〟などとは言っていないが、便宜上そういうことにしておいた。
「例のモノはちゃんと返せたか?」
「パパ喜んで。神霊界賜尊具はもう返さなくていいんだってさ」
「えっ…どういうことだ?」
「私にも何のことかさっぱり分からないんだけど…」錫はわざととぼけて、考えていた中で一番良さそうな返答をした。「晶晶白露も集鬼鈴もこれからパパが守ってくれってさ。だから持って帰ってきたの」
「ほぉ~、そうなのか!」龍門の口元が緩むのが分かった。
「ねぇパパ…それってどういう意味なの?」錫はさらにとぼけて聞いてみた。
「あれは霊力の強い貴重な道具なんだそうだ。もともと義父さんの物で、パパがそれを使わせてもらっていたんだが、義父さんが亡くなる前に『これからは気障りの婆さんがあの道具を守ることになった』と言われてな。それからは、必要な時に借りに行くようになったというわけだ」
「どうして気障りのお婆さんが道具を守ることになったかパパは知ってるの?」
「そこまで知らんよ。でもあの時は少し残念に思った。そんなに婿の俺は頼りないのか?…ってな」
──「やっぱりパパは神霊界賜尊具に霊気を補充しないと使えないことを知らなかったんだ」錫はそのことを確信してから龍門に言った。
「どうあれパパは、今や神霊界賜尊具を守れる聖霊師ってわけね」
「そ、そういうことになるかなぁ」父親は娘の煽てに滅法弱い。
「それでねパパ…折り入ってお願いがあります。私を聖霊師にしてください!」龍門はポカンと口を開けたまま暫く錫の顔を見ていた。
「…お前大丈夫か?熱でもあるんじゃないのか?」。「私は本気です!」
「人一倍恐がりのお前が、なんでまた聖霊師に?」。「パパを尊敬しているからよ。パパが気障りのお婆さんに認めてもらえるほどの聖霊師なら、是非弟子にしてもらいたいの」
「厳しいぞ?」。「望むところです」
「当分は見習いだぞ?」。「覚悟してます」
「言い訳はなしだぞ?」。「はぃ…」
「ものスゴ~く恐いんだぞぉ?」。「ま…まぁそれも覚悟のうえで…」
「呪われるかもしれんぞ!?」。「…………ぴえ…」
こんな調子で錫は見習い聖霊師として龍門に師事し、自ら苛酷な道を選んだのだった。
Ⅳ
気障りの婆が錫に神霊界賜尊具を手渡す際、修行として二つの約束を守らせた。
「まず一つ目じゃが、これからはお前が神霊界賜尊具に霊気を補充しろ。方法は簡単じゃ。神霊界賜尊具を握ったまま、その手に霊気を溜めればいい。もし霊気を補充させなければ、こいつはただのレプリカとなり、龍門は聖霊の儀式ができなくなる…この意味は分かるな?」こう説明した。
「はい………頑張ります…」錫は小声で答えた。
「もう一つ……毎晩一本のロウソクに火を灯し、霊力を使って炎を消すのじゃ」
「そんなことできるんですか?」
「精神を集中させればそれほど難しいことではない」
「は、はい……努力はしますが…」
この二つの約束を言い渡された錫は、その夜から早速自分の霊気を晶晶白露と集鬼鈴に補充しようとしたが、錫の霊気は辺りを漂うばかりで補充などされなかった。何日も何日も試みたが結果は同じだった。
ところが火を灯したロウソクを霊力だけで消すという修行は、たった三日目でやってのけた。ゆらゆらと燃えるロウソクの炎に霊気をぶつけてやると、一瞬で葬られるような消え方をしたのだった。その消え方は明らかに息を吹きかけるものとは違っていた。
最初の二日間錫が足踏みした理由は、精神力に欠けていたことだ。ところが三日目になると、じっと見つめていたロウソクの炎が錫の雑念を消し、難なく霊気を集めることができた。気障りの婆がロウソクを使わせた目的は、炎を消すためではなく、実は自分の散漫な精神力を養わせるためだったのだと、その真意が初めて分かり、改めて気障りの婆に感服した錫だった。
一方で一ヶ月経っても神霊界賜尊具に霊気が補充されることはなかった。錫の霊気の放出量は最初に比べて数倍増えていたが、それでも補充はできなかった。この頃にはもともと神霊界賜尊具に蓄えられていた霊気もだんだん漏出して、ほとんど残っていない状態になっていた。
二ヶ月目に入ってもそれは同じだった。その代わりと言って良いのだろうか──錫はなんと十本のロウソクの炎を瞬時に消せるほどの精神力と霊力が身に付いていた。
そんな自分の力に気を良くした錫は、霊気の塊を左の手の平に集めて集鬼鈴を思い浮かべてみると、いとも簡単にあの時の集鬼鈴が現れた。
このことに好奇心が沸いた錫の次の行動は決まっていた。もう一度たくさんの霊気を左の手の平に集めると、今度は晶晶白露を握ったイメージをしながら、刀を鞘から抜き出すジェスチャーをしてみた。
すると────果たして見事に晶晶白露は現れた。
もう一度その手に握ってみたかった晶晶白露との念願の再会だった。
Ⅴ
《では次のニュースです。今日午後四時三十分頃、奈良県玉寺市で二十三歳の女性が何者かに刃物で切りつけられる事件がありました。女性は命に別状はありませんが、目撃者の情報から、奈良県内で相次いで起こっている連続通り魔と同一人物の犯行とみて警察が…》
「しかし世の中物騒だなぁ…おちおち外も歩けん」龍門は豚の生姜焼きを美味しそうに頬張りながら、昨今日本中を震撼させている奈良県連続通り魔事件のニュースに釘付けだ。錫はというと、奈良と聞いて事件のことより大仏殿の柱の穴を思い出していた。
「おい錫、食事がすんだら出発するぞ。下調べのつもりだが、念のために神霊界賜尊具は車に積んでおいてくれ。いよいよお前も見習い聖霊師デビューだ」
「承知しました龍門先生。できれば今日は下調べだけにしてほしいですぅ」
「それは行ってみた都合だ…いつぞやみたいに厄介な憑物なら出直しだ。まぁ、聖霊に危険はつきものだがな…憑物だけに…はっはっは!」
「………」龍門のつまらないジョークをよそに錫は頭を悩ませていた。相手がどんな憑物であれ、今の龍門に聖霊はできない。願わくば今日のところは下調べに留めてもらい、聖霊まで時間を稼いで、なんとしても神霊界賜尊具に霊力を溜めなければと考えていた。
気障りの婆に会ってからこっち、修行の賜だろうか──錫の霊気の放出量は格段に増え、チャクラも半分弱まで開くようになっていた。ありがたいのは、そんな状態でもほとんどアレを見なくてすむことだ。これには二つ理由が考えられた。
一つはチャクラが開きっぱなしでも、精神が安定していれば、霊を見なくてすむよう霊力のコントロールができるようになったからだ。
もう一つはいしの霊力によって、低級霊が近寄り難くなっていることだ。気障りの婆の言い付けどおり極力霊力を封じ込めていても、狛犬の魔除けの力は伊達ではないようだ。
「たぶん、この辺りなんだが…」目的地に到着した龍門が車から降りると、車の前方から見覚えのある人物が早足で向かってきた。
「龍門先生、お久しぶりです。あっ、助手の巫女さんも…どうもです」
──「川手さんだ…またこのおじさんが依頼主なの?」錫は可笑しかったが、それは顔には出さず、龍門に合わせて頭を深く下げて挨拶した。
車を降りてから細い路地に入り、そこから少し歩いた先に目的の家があった。
「私も今日初めてここへ来ましたんで…」そう言いながら、川手は呼び鈴を押した。すぐに「はーい」と女性の声がして、古い横開きの玄関が開いた。
「お待ちしておりました。どうぞ…」言われるまま部屋に上がると、油のような匂いが漂っていた。錫はそれがインクの匂いだとすぐに分かった。
「どうも…初めまして。武藤と申します」間もなく現れた主人は、恰幅が良く、頑固そうだが人は良さそうな印象だった。
「こちらがあの有名な天登龍門先生です。それと助手の巫女さん…」川手に紹介されて、龍門は無言のまま頭を下げた。錫もそれに習って挨拶した。川手は何故か得意そうだ。
「家内の清美です」武藤が紹介すると、清美はお茶を出しながら、三人にそれぞれ目を配りながら挨拶した。
「今回の話が武藤さんから私に辿り着いた経緯は龍門先生に話してありますが、肝心な依頼の内容が今一つ分かってないんです」
「まだご存じないのですか?」武藤は驚いて川手と龍門を交互に見た。
「そうですとも…しかし先生は私の顔を立てて、お忙しい中をこうしてお出で下さったのです」
──「川手のおじさん〝私の顔を立てて〟のとこだけヤケに力が入ってる」
「私のことより、まずお話を伺いましょう」龍門が落ち着いた口ぶりで言った。
──「パパは自分が褒められたり持ち上げられると、どうでもいいような素振りで話を切っちゃうのね…。こうすることで相手にかなりの好印象を与えるわ…。こうやって少しずつカリスマ性を高めていってるんだ…」龍門に霊力がないことを知った錫は、ついつい違う観点から龍門を観察してしまうのだった。
武藤は龍門に促されるように話し始めた。
「私はここで印刷屋を営んでいます。印刷一筋、真面目に仕事をしてきました。しかしだんだんと仕事は減る一方で、いつしか昼間から酒三昧…。ところが、どういうわけだか二ヶ月ほど前から急に注文が殺到して喜んでいたのです。けれど……娘が…娘が取り憑かれたんです……狐に…」
「狐って…いわゆる狐憑きですか?本当にあるんだ…そんなのが…」川手がブルっと震えた。
──「川手のおじさんたら…。狡狗っていう得体の知れないモノが取り憑いてたって知ったら、もっと驚くわよ」
「なぜそうなったか──思い当たる節はありますか?」龍門は冷静に尋ねた。
「はい…実は仕事の注文が入るようになった数日前、酒に酔って寄り道をして帰る途中、偶然小さな稲荷神社を見つけました。まぁ困った時のなんとやらで、遊び半分で仕事繁盛のお願いをしたんですが…」
「酔った勢いでおかしな交換条件を出した…ということですね?」
「は、はい。お分かりになるんですか?」武藤と清美は顔を見合わせて驚いた。
―─「霊力の無いパパは、勝れた洞察力でそれをカバーしているわ」
「…実は…仕事が繁盛したら娘達を差し出すと約束したんです…」あまりにも馬鹿げた約束に錫は腹が立った。「…真剣に拝んだわけじゃないんです。冗談半分で〝もし願いを叶えてくれたら二人の娘を嫁にやる〟と願掛けを…。まさか本当にこんなことになるなんて…」
「狐や蛇など、動物の低級霊は憑かれると質が悪いんです。下手をすると死ぬまで取り憑かれることもある。遊び半分にちょっかいを出すとえらい目に遭います…」それを聞いた武藤の顔からみるみる血の気が引いていった。
「龍門先生、助けて頂けませんか?…いいえ、なんとしても助けてください…」武藤が深く頭を下げると、妻の清美も手を摺り合わせて頭を下げた。
「頭をお上げください。まずその娘さん達に会わせてもらいましょう」龍門に促されて、武藤と清美はゆっくりと頭を上げた。
「こちらへどうぞ…」武藤は三人を二階へと案内した。
二階に上がると、武藤は洋風のドアの前で足を止め、持っていた鍵を鍵穴に差し込んだ。
「この部屋の中に娘達がいます。危害を加えることはないと思いますが、一応注意しておいてください」そう言って〝ガチャリ〟と鍵を開けると、ゆっくりとドアノブを回した。
早くも錫の心臓はバクバクだ──今日は絶対チャクラを開くまいと自分に誓った。
ドアを開けるとまず武藤が部屋に入った。次いで龍門が入って行ったので、錫は仕方なくその後に続いた。さらに川手が入ると最後に清美も中に入り、内側からしっかりと鍵をかけた。
「あの子達の怪我を避けるために、部屋の物はすべて撤去してあります」フローリングの部屋は殺風景な広い空間になってしまっていた。
「それで…お嬢さん達は?」姿が見えないので川手が尋ねた。
「あの中です…」武藤は造り付けのクローゼットに歩み寄り、ゆっくりと扉を開けた。途端に〝クァー〟と叫びながら四つ足の生き物が飛び出してきた。
「うわっっ!」驚いて大声を発した川手の声に錫が飛び上がった。
「きゃっ!──ちょっと川手さんビックリさせないでくださいよ~」
「す、すみません…いきなり現れたんで…つい」
「…あれが娘なんです。たぶん本人達もビックリしたんでしょう」武藤は悲しげに娘達に目を遣った。
二人の娘は部屋の隅っこに逃げて行くと、四つん這いのまま錫達の様子を窺っている。娘達の四つ足動物宛らの走り方にも驚いたが、狐の目のように細く吊り上がった顔つきにも驚かされた。
「見てのとおり二人とも獣そのものです…これを見てください」清美はポケットに忍ばせていたツナ缶を二つ取り出すと、人差し指にリングを引っ掛けて二つとも蓋を開け、床の上にそっと置いた。二人の娘は四つん這いのまま缶詰に口を突っ込んでそれを食べ始めた。人が食事をする姿とはまるで違っている。そうして最後に缶詰を舌で舐めつくした二人は、手の甲のを使って、満足げに口の回りを拭き始めた。手というより前足という感じだ。
「ご覧のとおり何から何まで獣の仕草です。言葉も話せませんし、私たちが誰なのかさえ分かっていないんです。どうか…どうか助けてやってください」清美が泣きながら訴え、次いで武藤が口を開いた。
「娘達の顔もこんな妖怪じみた顔ではありませんでした。左側の洋子の方は結婚の約束をしている相手がいましたが、この姿を見た途端それっきりです」龍門は静かに耳を傾けていたが、錫に目を向けて一言こう言った。
「すぐに聖霊を始めるぞ」その言葉に錫は焦った。
「龍門様…今日は下調べだけでは…?」
「これが放っておけるか!?」龍門の口調は何時になく厳しい。
──「どうしよう…。晶晶白露の霊力はほとんどないのに…」そんな錫の心配をよそに、龍門は武藤夫婦に長い紐を用意してくれと頼んだ。清美は「はい」と返事をすると、急いで言われた物を取りに行った。その間にも何か策がないかと考えていた錫だったが、清美は思ったより早く戻って来てしまった。
──「早っ!もっとゆっくり探してくれればいいのにぃ…」龍門は清美が持ってきた紐の長さと丈夫さを確認すると〝うん〟と頷いて、手を止めている錫にイラつきながら晶晶白露を渡せと小声で言った。錫はしぶしぶ晶晶白露を桐の箱から取り出して龍門に差し出した。
「皆さんはドアの方に下がって。そして聖霊中は何があっても娘さんを助けないように。狐は古い奴ほど邪悪でしつこいとされています。今憑いている狐は残念ながら正にそれです。これからこの厄介な狐を善の狐に生まれ変わらせます。そうすれば娘さん達も元の可愛いお嬢さんにもどるでしょう」武藤夫婦は龍門の説明を信じて大きく頷いた。
そして川手は目を輝かせた。──「今回は聖霊の一部始終を拝見できる」張りつめた空気が川手をより大きな期待へと誘った。
──「パパもよくそこまで言い切れるわ…さすがカリスマ聖霊師」錫はこの龍門のはったりが依頼人に安心感を与えているのだと感じた。そのはったりも聖霊に自信があってのことだ。だが今回は龍門が描いているカッコいい絵図にはならないのだ。錫は用意した紐で龍門を縛って帰りたい気持ちだった。
「これから二人を縛り上げる。そして一人ずつ晶晶白露を使って聖霊する…いいな?」龍門は錫の耳元でそう呟くと、奇声を発して暴れる洋子を素早く押さえつけ、紐で手足を縛るよう錫に命じた。そうして身動きが取れなくなった洋子を、ドアから一番離れた部屋の隅っこまで引きずってくると、一旦そのままそこに放置した。
次に龍門は、怯えて逃げ回っていた秀美も取り押さえ、洋子と同じように手足を縛ると、もう一方の部屋の隅っこまで運んだ。二人の自由を奪った龍門は、まず洋子の前で膝を着き、晶晶白露を逆手に持った。
「…洋子さんの体を押さえててくれ」従うしかない錫は黙って洋子の頭側に回り込むと、体が動かないよう両肩を押さえつけた。
「邪悪な狐よ…これまでだ」龍門は晶晶白露を洋子の胸に振り下ろした。
──「パパの最高の見せ場ね……パフォーマンスも大きい…」錫は龍門の観察を怠らない。
晶晶白露を胸に当てられた洋子は一瞬おとなしくなったが、すぐに再び暴れ出した。龍門は二度三度と晶晶白露を振り下ろしてみたが結果は同じだった。
「おかしい…いつもと手ごたえが違う…。いったいどんな憑物なんだ?」
──「気の毒すぎ…。パパのために一肌脱ぐしかないか…」チャクラを開くまいと誓った錫の決意はまたしても簡単に破られた。
──「…グエェ~…気持ち悪い…動物園だ!」言わずもがな後悔しかない。
「ご主人様、こいつらは人間に殺されて恨みのある動物達です」
「いしぃ!いつ現れたの?」
「ずっとおりましたよ。チャクラを開いたんで気づかれただけですけん」
「あ~、そっかぁ…って口も開いてないのに、なんであんたと喋れるの…?」
「ここ暫くでご主人様の霊力は〝念〟で会話ができるほど強くなったのです」
「スゴ~い!…って感心してる場合じゃないわ。この憑物のこと詳しく教えて」
「この憑物の親玉はかなりの古狐です。怨念を持って死んだ動物を集めては邪気を蓄えているようですよ。龍門殿に聖霊は無理でしょ…」悪賢そうな古狐の回りにはおよそ五、六十匹の動物の霊が見えた。犬や猫だけではない。小動物や爬虫類までもが寄り集まっている。
「みんな虐めの標的にされやすい動物達です。人間をかなり恨んでますね。あと数週間もすれば、この姉妹も精気を吸い尽くされて死んでしまうでしょう」
「そんなぁ。いし…なんとかならない?晶晶白露も今はただのレプリカよ…私はみんなの前で力を出せないし…」
「それは困りましたね…。それより気を付けてください…あの古狐、ご主人様の力が欲しくて堪らないようです」
「冗談でしょ!…イヤだぁ~~」錫は聖霊師になると決めたことを後悔した。
「龍門先生…だ、大丈夫ですか?」川手が心配になって声をかけた。
「やはりしつこい憑物です…方法を変えてみます」強がってはいるが、良い方法があるわけではない。錫も気が気ではなかった。
「あの気の弱そうな男は誰ですか?」いしが錫に尋ねた。
「あの人は川手さん。以前あの人に狡狗が憑いた時、私が晶晶白露で退治したのよ」
「狡狗か…」。「あんた狡狗を知ってるの?」
「はい…。それよりあの男…憑かれ癖がついてますね」。「憑かれ癖?」
「はい、憑かれ癖です。狡狗みたいな奴に憑かれたせいで、とても憑かれやすい体質になってしまっています。ああいう男に取り憑けば簡単に精神をコントロールできるので、憑物に狙われやすいんですよ…」錫は気弱な川手が気の毒になった。
★
「とうとう例のモノを見つけましたぜ阿仁邪様」
「そうかっ、見つけたか!でかしたぞ…で、殺しちまったのか?」
「いいえ、とりあえず阿仁邪様に報告をと思いまして」
「そうか。ではオレ様が直々に奪いに行くか…」
「へい、では案内いたします。あの女の場所へ…」
「グフフ…アレを醜長様に差し出せば、たんまり褒美が貰えるぞ」
「うっっひょう¬ー!オレは上玉の魂を貰って強くなりてぇなぁ」
「好きにせい…。では行くか…グッフフフ」
Ⅵ
無事に鈴子を出産したミツは、乳飲み子の鈴子をおぶって、それまで同様依頼人の窓口になっていた。
依頼人が訪れても、背中の鈴子はたいてい機嫌良く寝ていたが、時に大泣きしてミツを困らせることがあった。ミツも最初はなかなか泣きやまない鈴子に手を焼いていたが、すぐにこの理由が分かった。
ある中年の男がここを訪れた時、鈴子は狂ったように泣き出した。ミツはその男に憑物が憑いているのか否かを調べると、不慮の事故でこの世に未練を残して亡くなった若い男の霊が憑いていた。よく思い返してみると、鈴子は二日前にも大泣きしたが、その時の依頼人も陽性だった。もしやと思ったミツは、次から鈴子が大泣きした依頼人に対し、〝陽性かもしれない〟と踏んで調べてみるとどれも的中だった。〝鈴子が泣くと憑物がいる〟このことを確信してから、ミツは初めて虎にそのことを打ち明けた。
この時の虎は、ミツが懐妊した時と匹敵するほどの喜びようだった。そしてこれからも依頼人に憑物が憑いているか否かは鈴子に任せるようミツに釘をさした。
鈴子が四歳くらいになると、憑物に憑かれている依頼人が訪れても、大泣きする反応を示さなくなった。それどころか陽性の依頼人にも自分のお菓子をあげたり、人懐っこく近づいたりするのだった。虎はそれを認めたくないのか、〝家の中に誰か知らない人が居たりしないか?〟などと頻りに鈴子に問うてみるのだが、返事は決まって〝誰もいない〟だった。乳飲み子の鈴子が陽性の依頼人に反応していたのは、赤子特有の本能だったのかもしれないと思った虎は、それ以来鈴子におかしな質問をしなくなった。
中学校二年生の時、鈴子はイジメを受けたことがあった。イジメのきっかけはたいてい些細なことだが、鈴子の場合は家の生業がその原因だった。
「コイツのお父さん霊媒師なんだぜ」とクラスの誰かが口走ったことで、たちまち数人の男子からイジメの対象にされてしまったのだ。
最初は休み時間に鈴子を囲んで「お前の家は幽霊屋敷だろ?」とか「香神に近づいたら呪われるぞ」などとからかわれていたが、そのうち学校の下駄箱に〝お前の親は人を騙して金儲けしている嘘つき霊媒師〟と書かれた紙切れが入れられたり、机の上に〝呪われた女〟とマジックで書かれたりと、だんだん嫌がらせがエスカレートしていった。それだけされても芯の強い鈴子は全く相手にしなかった。男子の幼稚な行動に呆れるばかりで抵抗する気にもならなかったのだ。
ある朝のことだ──。教室に入ると鈴子を誹謗する落書きが黒板いっぱいに書かれていた。鈴子はこの時初めてイジメていた男子達の目の前までゆっくり歩いて行くと、声を荒げることなくこう言った。
「間違っていることがあるから教えてあげるわ。お父さんは霊媒師ではなく聖霊師なの。悪霊を説得して助けることが仕事よ。だけど逆に悪霊を使って呪うこともできるわ」鈴子は一呼吸置き、目を大きく開いて話を続けた。「でもね…悪霊を使って誰かを呪うことは私にも簡単にできるの。一週間以内にやってみましょうか?でもそれをしたら一生呪われ続けたり、呪い殺されることもあるから覚悟してね。これ…脅しじゃないわよ。私はあなた達の言うとおり…本当に呪われた女だからね」そこに居た男子は全員凍りついた。
その日の夜のことだ。鈴子をイジメていた男子生徒の一人が〝もう二度とあんなことはしないから呪わないでくれ〟と詫びにきた。鈴子は冷ややかな口調で、他の男子も含めて今度だけは許すが、もしまたこんなつまらないことを繰り返したら容赦しないと釘を刺した。男子生徒は鈴子と目を合わせることなく、反省とも恐怖とも取れる表情で逃げるように帰って行った。
実際のところ鈴子は腹を立ててはいなかった。ただ幼稚な男子の行為が鬱陶しくて、わざと噛みついてみたのだった。
こんな時間に友達が何しに来たのかと両親に聞かれた鈴子は、今までの経緯を正直に話した。虎は鈴子がイジメにあっていたことよりも、悪霊を扱えることに食いついたが、それが鈴子のはったりだと聞かされて残念そうに肩を落とした。
思春期になると、鈴子はよく金縛りに悩まされた。耳鳴りと共に身体全体が硬直して身動きが取れなくなってしまう。このことを母親のミツに相談した。父に話すと、また事が大袈裟になるからだ。ミツは鈴子から相談を受けると、にっこりと笑って言った。
「精神が不安定な若い頃や、疲れている時は金縛りが起きやすいのよ。鈴子の金縛りは霊のいたずらとは違うから心配しなくていいわよ。二十歳にもなれば治まるでしょうよ…。けれどもし金縛りに遭った時、足下から自分の身体を引っ張られるような感覚だったら、それは悪い霊の仕業…そのまま魂を抜かれることもあるのよ」そう教えられて鈴子は戸惑った。もしそんな金縛りに遭ったらどうすればいいのかと尋ねると、ミツは笑いながらこう言うのだった。
「鈴子はお父さんのお婆さまに護られているわ。とても高徳な霊のようね。〝鈴子は私が護ってやるから心配するな〟今もここでそう言ってるわよ」鈴子はそれを聞いてホッとしたと同時に驚いた。母親に霊感があると知ってはいたが、まさかこれ程までとは思っていなかったからだ。
Ⅶ
龍門は困り果てていた──。川手が依頼してくる聖霊は、なぜだかすんなり事が運ばない。責めても仕方ない川手に愚痴りたい気持ちだった。仕方なく錫を呼んで耳元で囁いた。
「もう一度だけ晶晶白露を使ってみる…。それでダメなら出直しだ」
「うん…仕方ないわね」口ではそう言いつつ錫は内心ホッとした。
龍門は祈る思いで洋子に晶晶白露を振り下ろした。けれど洋子は紐を解こうと藻掻くばかりで聖霊される気配がない。もはや龍門は敗北を認めざるを得なかった。
と──その時、気味の悪いわめき声が部屋中にこだました──川手だった。目はつり上がり、口元は不気味な笑いを見せている。明らかにさっきとは別人だ。
「川…手さん…?」錫が恐る恐る声をかけた。川手がその声に反応してギロッと錫を睨むと、嗄れた声でこう言った。
「仕事と引き替えに娘を花嫁にする約束だったはずだ。違えることは許さん」またしても川手に憑物が憑いたようだ。
「でもこれは酷すぎるわ。武藤さんは冗談のつもりだったのよ」錫が強気で言い返した。同じ女性としてこんな理不尽な形で花嫁にされるのは許せない。
「知ったことか!約束したのはそっちだ。こっちから頼んだ覚えはない」
「だったら撤回するわ。お願い…許して…」錫は手を合わせて頼み込んだ。
「ふん…ならば許してやろう。だが武藤という人間に仕事はもう与えてやった。撤回は都合が良すぎる。…お前が代わりにワシの花嫁になれ」
「はっ?」錫はその言葉に恐怖して後ずさりした。
「逃げるな…お前が花嫁になれば、そいつらは助かる…クックック」
「そ…そんなぁ…。なんで私が?イヤ、絶対にイヤ…」錫が拒否しても川手は容赦なく近づいてくる。「…助けてパパ!」娘の一大事に龍門は無言で川手に飛びかかった。
「バカが…人間がワシに敵うわけがないだろう」川手に両手で押された龍門は、簡単に壁まで吹っ飛ばされた。
「イタたた…川手にはいつもこのパターンだな」龍門がもたついている間に、川手は錫に歩み寄る。
「パパァー来るわよ…こいつこっちに来る!」川手は錫の恐怖心をわざと煽るかのように、じりじりと近づいてくる。
「パパ…晶晶白露を使ってみて──一か八かよ、早くぅー!」
「晶晶白露を…?分かった。やってみよう」透かさず龍門は持っていた晶晶白露の柄の先で川手の額を叩いた。その一発がかなり効いたのか、川手は仰向けに倒れた。龍門は川手に立ち上がる隙を与えず馬乗りになると、短刀を逆手に持ち替え胸に刃を突き立てた。
「なんだ…なんだこれは…?や、焼ける、焼けるぅ…ぐあぁぁぁ…」娘を思う龍門の気持ちが晶晶白露に伝わったのだろうか…。川手は喉を掻きむしり、身体を弓なりに反らせて転げ回った。武藤夫婦は瞬きもせずその一部始終を見守っていた。
次の瞬間錫が叫んだ──。
「パパァ…今度は洋子さんが苦しんでいるわ。川手さんに憑いている狐に影響されているのかも…。早く晶晶白露を!」錫はのたうち回る洋子を必死で押さえつけている。
「よし!お前は退いていろ」今なら晶晶白露も威力を発揮するかもしれない──龍門もそれを思った。
「はい…」錫は洋子の胸元から手を放し、今度は急いで妹の秀美の前に移動し、秀美を庇う格好で洋子に背を向け、龍門の聖霊を見届けようと頭だけ後ろに振った。
龍門は錫と入れ替わりに、仰向けになって苦しんでいる洋子に馬乗りになり、大きく晶晶白露を振り上げると、見た目よりふくよかな洋子の胸の谷間にその刃先を押し当てそのまま臍の方へと刃を滑らせた。洋子はそれ以上暴れることなく、そのまま穏やかな寝息を立て始めた。
それからすぐ──また狂ったような叫び声が部屋中に響いた。
「パパ、今度は秀美さんがおかしいの…早く助けてあげて!」龍門が錫の背後に駆け寄り秀美を覗き込むと、洋子同様、錫は暴れる秀美の身体を必死で押さえつけていた。
「パパ早く…このまま押さえておくから急いで!」錫は一刻も早くけりをつけてほしそうだった。龍門は錫に向かい合う形で秀美の前に膝を立てて座った。
「頑張れ…もう少しだ」川手と洋子の聖霊に成功した龍門の顔には余裕の表情が見えていた。「邪悪な古狐よ…おとなしく聖霊されるがよい…」言葉が終わらないうちに晶晶白露を大きく振り被ると、胸元に刃先を押し当てた。その後、臍に向かって刃を滑らせるのが龍門のお約束だ。そうして秀美もまた、それ以上暴れることなく深い眠りについたのだった。
「………」龍門は静かに息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。
「助かったのですか?」武藤は心配そうに娘達を見ながら龍門に尋ねた。
「えぇ…。邪悪な古狐もお稲荷さんに戻りましたよ」龍門の言葉に武藤夫婦は何度も何度も礼を言い頭を下げた。
「さて…私たちはこれで用済み。引き上げるとしましょう」潔く帰ろうとする龍門を、武藤夫婦は慌てて引き止めた。しかし龍門はそれには応じなかった。
「奇々怪々な憑物退治が生業の私たちは、人様にどんな禍をもたらすやら分かりませんから、長居はしない主義なのです。どうぞ気を悪くなさらずに」
「そうですか…。先生がそう仰るなら…」残念そうな武藤夫婦だったが、龍門と錫を駐車場まで見送る僅かな道すがらも惜しんで話をした。
「こんな摩訶不思議な世界が本当にあるとは…。そこに精通されておられる先生達の見事な除霊というのか…聖霊というのか…あの儀式には度肝を抜かれました」武藤が感服して言うと清美も続いた。
「私もです…。それに先生と巫女さんが親子だったとは…ふふっ」眉間に皺を寄せた龍門に横目で睨まれた錫は、目をクリッとさせてお茶目に舌を出した。
「川手さんには内密にね…」錫は武藤夫婦に手を合わせて頼んだ。
「はい…言われるとおりに」清美はそれ以上聞かずに笑って頷いた。
──「川手さんはパパを崇拝している。私達が親子で、しかもパパなんて呼んでることが分かったらそれだけでショックでしょうからね…。パパの威厳を保つためにも黙っててもらわないと…うふふ」
駐車場に着くと、武藤夫婦は改めて深々と頭を下げた。「ではこれで…」龍門が先に車に乗り、錫も運転席に乗ろうとしたその時だ──。
「龍門せんせぇ~!」駐車場までの僅かな距離を、ゼイゼイと息を切らしながら川手が追いかけてきた。「…あ~間に合ったぁ。私どうしたんでしょう?突然意識がなくなってしまったようで…」
「何も覚えてないんですか?川手さん憑物に憑かれてしまって大変だったんですよ。そちらの巫女さんを花嫁にすると言って大声で叫びながら抱きつくわ…先生を何度も投げ飛ばすわ…そりゃ手がつけられない始末だったんですから…」武藤はかなり話を盛って川手をからかった。
「せ…先生を投げ飛ばした!?…なんと失礼なことを…。すみません、すみません」川手は自分が取り憑かれたことより、龍門を投げ飛ばしたことがショックだったようだ。
「故意ではないのですから気になさらずに…」龍門は極めて冷静だ。
「しかし龍門先生は流石ですなぁ…。短刀を川手さんの胸に振り下ろすだけで、忽ち邪悪な憑物を聖霊してしまうんですから…。その後も次々と娘達を聖霊してくださって…。お見事としか言いようがない!」それを聞いた川手は、またもショックを受けた。
「うわ~…また見逃してしまったのかぁ…。その場にいるのにいつも大事な時に……ついてないなぁ…」その言い方が可笑しくて武藤と清美は遠慮がちに笑った。「それにしても、どうしてでしょうか?…目が覚めるといつもおでこが痛いんですよね…」
──「川手さんお気の毒…。今度はパパに短刀の柄で殴られて…」
「さてと…では私たちは本当にこれで…」龍門は川手の疑問を聞かなかったことにして、別れを告げるとその場を立ち去った。
〇
「錫、パパはいかんと言っただろうが…」車中では龍門がご立腹だ。
「そうだけど…憑物の憑いた川手さんに襲われて咄嗟に出ちゃったのよ。それだけ恐かったってこと…。パパだってそれを察したから本領を発揮できたんでしょ?」
「まぁ、確かにそうだ…。よし、今回だけは大目にみよう。お前のおかげでパパが本物の聖霊師だと証明できたんだからな」
「どういうこと?」
「最初は出来なかった聖霊が、どうして急に成功したと思う?助けを求める娘を思う一念が眠っていた霊力を目覚めさせたとしか言いようがないじゃないか!」
「なるほど!でも、そんなにまで私を思ってくれてたの?」
「当たり前だ!自分の命より娘の命が大事に決まってるだろ」その親心に錫は胸が熱くなった。
「ありがとうパパ…。ところで今日聖霊することにしたのはどうして?最初は下調べのつもりだったんでしょう?」
「それも今の話と同じだ…。パパも親だからな…子を思う親の気持ちはよく分かる。武藤夫婦の気持ちを考えると、一刻も早く助けてやりたかったんだ」
──「パパはインチキ聖霊師なんかじゃないわ…ただ霊力が無いだけ。憑物で苦しむ人を助けたい──そう思って聖霊をしているのね…」
「まぁ、錫がパパみたいになるには三十年かかるかな…がっはっは」
──「はいはい…私はずっとパパの見習いでいいですよぉ~」
Ⅷ
その夜、龍門は上機嫌だった。グラスを手に今日の出来事を篤く語っていたが、その武勇伝も鈴子には理解してもらえず、錫を危険に巻き込むなと叱られるだけだった。それでもお構い無しに一頻り喋ると、疲れた身体に酔いがまわったのか、さっさと寝室に入って行った。
錫も鈴子からお小言を言われぬうちに自分の部屋に戻ると、ベッドの上に胡座をかいて、誰もいない部屋で声をかけた。
「いし、そこに居るんでしょ?」少しチャクラを開いて気を強くしてみた。
「はい!ご主人様。いしはここに居りますけん」机の上に子犬ほどの大きさになったいしの姿が現れた。
「あんたのおかげで無事に聖霊ができたわ」
「ご主人様のタイミングも絶妙でした」
「川手さんに襲われた時〝助けてパパ〟って叫んだのは演技じゃなかったんだからね…」
「すみませんご主人様。あれぐらいしないと龍門殿が本気になってくれないと思ったもので…」
「そうだけど…。しっかしあんたが川手さんに取り憑くって聞いた時はビックリしたわ」
「へ、へい…。でも川手は予想どおり憑きやすい人でした…」
○ ○ ○ ○ ○
川手に憑かれ癖があると察したいしは、錫に一計を持ちかけた。自分が川手に憑依して錫を襲うというのだ。
「あくまでも真似事ですけん。ご主人様は龍門殿に助けを求めて、なんとか晶晶白露を使わせるよう誘導してください。思惑どおり龍門殿が川手の胸に晶晶白露を突き立てましたら、私は大袈裟に苦しむふりをして皆さんの注意を引きます」
「うん分かったわ…それで?」錫はなんだかワクワクしてきた。
「ここからがご主人様の腕の見せどころですけん。みんなの視線が川手に向いている隙に、ご主人様はもう一つの晶晶白露で洋子さんの憑物を聖霊してください」
「なるほど!それなら私の行動を不自然に思われることもないわね──それから?」
「洋子さんに晶晶白露を突き刺しましたら、ご主人様は龍門殿に洋子さんを聖霊するよう誘い込み、恰も龍門殿が洋子さんの聖霊に成功したかのように見せかけるんです」
「時間差でパパが聖霊しているように見せかけるってことね?」
「そのとおりですけん。後は秀美さんにも同じことをしますんで」
「なるほど!パパが洋子さんの聖霊をしている間はみんなの意識がそっちに向くから、私はその隙に秀美さんの聖霊をする。そして急いでパパを呼び寄せて晶晶白露を使わせる──そういうことね?」
「さすがご主人様は飲み込みが早いです。龍門殿を誘導するタイミングさえ合えば上手くいくはずですけん」
「やってみるわ!」
○ ○ ○ ○ ○
「あの時のご主人様の迫真の演技に、龍門殿もすっかりその気になっていましたからね」
「いしのおかげよ!みんなに気づかれずに聖霊ができたんですもの」
「晶晶白露を自由に出せるようになったご主人様のお力ですけん」
「大袈裟よ……いし…」
「いいえ、ご主人様は最強の見習い聖霊師ですけん!」いしの忠実さに胸が熱くなった錫は、生まれる前に、どうやっていしと過ごしていたのかを想像するのだった──。
そこへ誰かが錫の部屋をノックした。「はーい、どうぞ!」
「じゃまするよ…」声の主はドアノブを回してそっと戸を開けた──。
Ⅸ
独居老人の自殺は決して珍しくない。核家族化が進んだ今、老後を一人で暮らす高齢者の数は年々増すばかりだ。
自らの命を絶つ理由も、孤独ゆえに先の楽しみを見出せなかったり、嫁との折り合いが悪すぎたり、我が子から突き放されたりと様々だ。中には老いてゆく我が身にいたたまれなくなり、若い者に迷惑をかけないうちにと、死を選択する悲劇もある。
〇
「近所の人がたまたま用があって声をかけても返事がないので、中を覗いてみたら首を吊っていたそうです。遺書は見当たりませんが、部屋を荒らされた形跡もありませんし、争った様子もありません」
「自殺に間違いないだろう…一人でさみしかったのかもな…。首など吊らなくても、もうすぐお迎えが来る年齢なのに…」
「家族は誰もいないようですが、たった一人だけ身内に妹さんがいることが分かりました。先ほど連絡が取れたようで、明日にでもこちらに向かうそうです」
「そうか…ご苦労さん。しかし孤独とはそんなに耐え難いものかな…」
「本人しか分からないですよ」
「そうかもな…。検死の結果もおそらく自殺だろ…孤独さゆえの…」
「でしょうね。…警部、もう引き上げますか?」
「あぁ、そうだな──────高宮ハルか…ナンマンダブ…」
Ⅹ
「じゃまするよ…」ドアから顔を覗かせたのは、錫の祖母ミツだった。
「おばあちゃん、お帰りなさい!」錫はベッドから跳び降りてミツに抱きついていった。錫はおじいちゃん子だったが、ミツのことも大好きだった。
博学だったミツは、錫が知らないこともたくさん教えてくれた。目立つようなタイプではなかったが、家の中を和ませてくれる明るい性格だった。
「飛行機がなかなか飛ばなくてね…こんな時間になっちゃったよ」
「それはそれはお疲れ様でした。で…沖縄はどうだった?」
「とっても楽しかったよ。向こうさんも一人暮らしの未亡人でね…。気兼ねなくお邪魔してたら、いつの間にか一緒に生活してたよ。くふふっ」
「おばあちゃんらしいわ。こっちはおばあちゃんが居なくて寂しかったよ」
「あらあら、ありがとう。お世辞でも嬉しいよ。それより錫、あんたも十八歳になったんだね!?少しは何か変わったかい?」
「うん…人生が一変したわ…」錫はどことなく消沈な態度を見せた。
「おや…?一変したわりには元気がないじゃないの?」
「うん…それが…」錫はミツに全てを話すべきか否か悩んだ。
「話したくないなら、その気になった時でいいんだよ錫…」
「ごめんねおばあちゃん…。何のことやら分からないでしょ?今はその理由をおばあちゃんに話して良いのかどうかさえ判断できないの…」
「気にしなくていいんだよ錫…。突然そんなモノがおでこに現れたらビックリするだろうよ…。それにこんな狛犬まで…」
「………おばあちゃん?…………………………えぇっっ!?」
★
「バカ者どもが!──掘り出し物を見つけ出したと言うから来てみたらこのザマか。お前ら全員喰ってやろうか?」
「ひえぇぇ~。勘弁してください阿仁邪さまぁ…。以外に勘のするどい婆さんで…」
「逃げられたらどぉーしようもないではないか!?」
「オレたちもまさかこんな形で先手を打たてるとは…」
「言い訳はいらん。こうなったら寄り道せず、早く醜長様の探している例のモノを見つけ出せ。今度は失敗するなよ…?醜長様はワシと違って、失敗したら本当に喰われるぞ」
「ひゃ~!勘弁ですって…頑張りますから…」