小児病棟の天体観測、あるいは僕らが未来へ繋いだ星座
病院の夜は、世界で一番静かだと思う。
消灯時間を過ぎて廊下の明かりが落とされると、昼間の賑やかさが嘘のように、大きな建物全体が深い眠りにつく。
点滴の機械が規則正しく刻む小さな電子音と、時々、遠くのナースステーションから聞こえてくる看護師さんたちの話し声。それが、この世界のすべてだった。
「ねえ、本当に今日、流星群が見られるの?」
ベッドのシーツを体に巻きつけ、まるで小さな幽霊のように廊下の隅にしゃがみ込んでいるのはシンジだ。
胃腸炎のピークは過ぎたものの、まだ少し顔色が白い。
彼は相変わらず怖がりで、暗い廊下に怯えて何度も後ろを振り返っている。
「間違いないさ。僕の天才的頭脳と、さっき仕入れた最新の天文ニュースに狂いはない。今夜は『ペルセウス座流星群』が極大を迎える日なんだ」
松葉杖を器用に扱いながら、音を立てないように進むのはタカシだ。
骨折した足を引きずりながらも、その目は相変わらず冒険を前にした少年のように輝いている。
「ちょっと、二人とも声が大きい。大島師長に見つかったら、今度こそ本当に屋上への出入り口にカギをかけられちゃうからね」
二人の後ろから、懐中電灯の光を足元に落としながら歩いてくるのはユウカ。
虫垂炎の手術をしてから一週間、お腹の傷はまだ少し痛むけれど、彼女は5人のまとめ役として、今日もみんなの後に続いている。
「大丈夫だって! ほら、今日の夜勤はあの優しい佐藤さんだし、さっきレイジが『ちょっと喉が渇いたフリ』をしてナースステーションで時間を稼いでくれてるから!」
のんきに笑いながら、パジャマのポケットにたくさんのお菓子を詰め込んでいるのはマイだ。
肺炎の症状が落ち着き、明後日には退院が決まっている彼女は、この5人で過ごす最後の夜を誰よりも惜しんでいた。
彼ら4人が向かっているのは、病院の最上階にある、普段は立ち入り禁止の「屋上庭園」だ。
そして、ナースステーションで必死に看護師の佐藤さんに話しかけ、時間を稼いでいるのが、喘息で入院中のレイジだった。
数分後、佐藤さんの「もう、早く病室に戻るのよ」という苦笑い混じりの声を背に、レイジも無事に屋上へと合流した。
「ハァ、ハァ……大役を果たしたぜ。相棒一号(点滴スタンド)をガラガラ鳴らしながら、怪しまれないように歩くの、めちゃくちゃ緊張したわ」
「ナイスだ、レイジ! これで僕たちの『夜間天体観測作戦』のメンバーが揃った」
タカシが屋上の重い鉄の扉を押し開けると、そこには、昼間の白い病棟からは想像もつかないような、圧倒的な夜空が広がっていた。
都会の真ん中にある病院だが、屋上は周囲の建物の明かりから少し遮られていて、見上げる空は驚くほど深い群青色をしていた。
遠くに見える街の灯りが、まるでひっくり返した宝石箱のようにきらめいている。
「わあ……綺麗……!」
マイが歓声をあげ、屋上のベンチへと駆け寄った。
5人は持ってきたバスタオルをコンクリートの床に敷き、そこに並んで寝転がった。
パジャマ姿のまま、夜の風に吹かれながら、みんなでじっと夜空を見上げる。
「……ねえ、本当に流れるかな」
シンジが呟いた、その瞬間だった。
「あ! 落ちた!」
レイジが指を差す。
夜空の端を、スーッと白い一筋の光が線を引くように横切っていった。
「すごい! 本当に流れた! 今の、見ました!?」
マイが興奮してシンジの腕を揺さぶる。
「うん、見えた……! 本物の流れ星、初めて見たかもしれない」
シンジの目が、星の光を反射してキラキラと輝いていた。それを皮切りに、ひとつ、またひとつと、夜空に光の粒が零れ落ちていく。
5人は言葉を忘れ、ただただ空を見つめていた。
病院という、少しだけ自由を制限された場所にいるからこそ、遮るもののない広い空が、余計に胸に染みた。
「……ねえ」しばらくして、ユウカが静かに口を開いた。
「みんなはさ、退院したら、一番最初に何がしたい?」
その質問に、タカシが真っ先に答えた。
「部活だな。早く思いっきり走って、サッカーがしたい。松葉杖のステップも極めたけど、やっぱり自分の足でボールを蹴るのが一番だ」
「俺は、家のご飯をお腹いっぱい食べたいな」
レイジが苦笑いする。
「病院の薄味の食事も、体に良いのは分かるんだけどさ。お母さんが作った、めちゃくちゃ味の濃い唐揚げとマヨネーズが恋しくてたまらないんだよ」
「私は、学校の友達に会いに行きたい!」
マイが両手を広げる。
「みんなにお土産話……は病院だからないけど、『入院生活、意外と楽しかったよ!』って自慢するんだ。だって、みんなに出会えたもん」
「シンジは?」
ユウカが隣にいるシンジを覗き込む。
シンジは少し考えてから、恥ずかしそうに微笑んだ。
「僕は……学校に行くのが、少し怖かったんだ。入院する前、クラスでちょっと浮いちゃってて、学校に行くのが憂鬱だった。でも、ここでお兄ちゃんやお姉ちゃんみたいなみんなに出会えて、僕、本当は人と話すのが好きなんだって気づけた。だから、退院したら、もう一度ちゃんと学校のクラスのみんなに、自分から『おはよう』って言ってみようと思う」
シンジの言葉に、みんなが優しい目を向けた。
タカシがシンジの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「いいじゃん、シンジ。お前は最高の隠密行動の相棒だ。自信持てよ」
「ユウカちゃんは? 何がしたい?」
マイが尋ねると、ユウカは夜空を見つめたまま、少しだけ寂しそうな表情で言った。
「私はね……お医者さんになる勉強を、本気で始めようと思う」
みんなが驚いてユウカを見る。
「今回の入院でね、手術の前、ものすごく怖くて一人で泣いてたの。そうしたら、主治医の熊谷先生が、お調子者のフリをして、私のくだらない話をずっと聞いててくれた。大島師長さんも、夜中に何度も私の様子を見に来て、冷たくなったおでこのタオルを替えてくれた。……私、今まで大人ってどこか冷めてて、私たちのことなんて見てないって思ってた。でも、違った。この病院の人たちは、みんな一生懸命、私たちの未来を守ろうとしてくれてる。だから、私もいつか、そんな大人になりたいって思ったの」
ユウカの言葉は、夜の風に乗って、真っ直ぐにみんなの心に届いた。誰も言葉を発しなかった。
ただ、それぞれの胸の中に、この病院で過ごした時間が、単なる「病気のための退屈な期間」ではなく、これからの人生にとって大切な宝物になるのだという予感が、確かに芽生えていた。
「よし!」
タカシがガバッと起き上がった。
「僕たちの未来に、乾杯……はお茶がないから、次の流れ星に願いを込めよう。僕たちが退院しても、学校がバラバラになっても、この5人の絆はずっと消えないように」
「うん、そうだね」
5人は再び、夜空へと視線を戻した。
ちょうどその時、今日一番の、大きくて明るい流れ星が、夜空を大きく引き裂くようにして流れていった。5人は心の中で、同じ願いを唱えた。『僕たちの未来が、どうか輝いていますように』それから、一週間の間に、マイ、シンジ、ユウカ、レイジが次々と退院していった。最後に残されたのは、骨折のタカシだった。
みんながいなくなった小児病棟は、元の静けさに戻っていた。
夕方、タカシが一人で面会室の椅子に座り、ノートにくだらない作戦の落書きをしていると、廊下から聞き覚えのある、バタバタとした足音が聞こえてきた。
「タカシくん!」
振り返ると、そこには息を切らせた大島看護師長が立っていた。
その顔は、いつもの厳しい表情ではなく、どこか酷く動揺し、悲しみに暮れているように見えた。
「師長さん? どうしたんですか、そんなに慌てて」
「タカシくん、落ち着いて聞いてね」
師長はタカシの前にしゃがみ込み、その震える手をタカシの肩に置いた。
「さっき……3階のナースステーションから連絡があったの。佐藤さんが……佐藤看護師が、先ほど急な体調不良で……救急搬送されて、そのまま……亡くなったの」
タカシの頭の中が、真っ白になった。
手に持っていたシャープペンシルが、床に落ちて乾いた音を立てた。
「え……? 何、言ってるんですか、師長さん。冗談でしょう? 佐藤さん、この前まであんなに元気で、僕たちのプリンの作戦も手伝ってくれて……」
「急性心不全だったの。本当に、突然のことで、私たちもまだ信じられなくて……」
師長の声が涙で震えていた。
いつも「要塞」のように強かった師長が、タカシの前でポロポロと涙を流していた。
佐藤さん。いつもハスキーな声で笑い、夜勤の時には「早く寝なさいよ」と言いながら、こっそりお菓子をくれた優しい看護師さん。
あの夜、おもちゃのトランシーバーの音漏れを聞いて、わざと幽霊のフリをして電話をかけ、鬼の師長を遠ざけてくれた、僕たちの「6人目の仲間」。
タカシは言葉を失った。
涙さえ出てこなかった。
あまりの現実の重さに、心が追いつかなかった。
その日の夜、タカシは他の4人に、佐藤さんのことをメールで伝えた。
夜遅く、4人から次々と返信が来た。ユウカからは「嘘でしょう」という一言と、涙の絵文字。レイジからは「俺、あの夜、佐藤さんと一番長く話したのに」という悔しそうな言葉。
マイとシンジからは、言葉にならない悲しみのメッセージが届いた。
病院の夜は、世界で一番静かだ。
でも、その日の夜は、ただ静かなだけでなく、冷たくて、恐ろしい場所に感じられた。
タカシはベッドの中で、一人で布団を被り、初めて声を上げて泣いた。
それからさらに1ヶ月が経ち、タカシ達5人は病院のロビーに立っていた。
その手に持つ白い紙袋の中に入っているのは、あの日、みんなで買いに行く約束をしていた、あの洋菓子店の「プレミアム濃厚カスタードプリン」だった。
「――あら? あなたたち、何してるの?」
背後から、聞き覚えのある声が響いた。
ふり返ると、そこには大島看護師長が立っていた。
「ひえっ! 要塞……じゃなくて、大島師長さん!」
大島師長は5人の顔を一人一人見つめて、ふっと表情を緩めた。
「なんだ、みんなすっかり元気になって。学校はちゃんと行ってるの?」
「は、はい! おかげさまで全員ピンピンしてます!」
「そう、よかったわ。……で、その手に持っている箱はなに? また何か良からぬことを企んでいるんじゃないでしょうね?」
「あ、あの!これ、あの時の恩返しです! 佐藤さんと、師長さんに! あと熊谷先生にも!」
大島師長は少し驚いた顔をしたが、タカシの真剣な目を見て、優しく微笑み、箱を受け取ってくれた。
「分かりました。きっと、佐藤さんも天国で喜んでくれますね。ありがとうございます」
5人は深くお辞儀をして、病院の正面玄関へと向かった。
それから、5人は自然と病院の前にある小さな公園へと歩いて行った。
ベンチに座り、お互いの顔を見合わせる。
みんなの目には、まだ少しだけ、佐藤さんを失った悲しみの余韻が残っていた。
けれど、それ以上に、お互いに会えた喜びが勝っていた。
「ねえ、佐藤さんに、プリン届くかな?」
ユウカが静かに尋ねる。
「うん。きっと、届くよ」
タカシが答えると、ユウカは「よかった」と小さく呟き、空を見上げた。
「私ね、佐藤さんが亡くなったって聞いた時、ものすごくショックで、お医者さんになる夢、諦めそうになったの」
ユウカがぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「医療の力でも、治せない命があるんだって、突きつけられた気がして。でも……熊谷先生がね、私にこう言ってくれたの。『僕たちは神様じゃないから、すべての命を救うことはできない。でもね、ユウカちゃん。佐藤さんが遺した優しさや、君たちに見せた笑顔は、君たちの心の中に生き続ける。それを次の誰かに繋いでいくことが、生きている僕たちの役目なんだよ』って」
ユウカは涙をグッと堪え、力強い目で4人を見つめた。
「だから、私、やっぱりお医者さんになる。佐藤さんみたいに、誰かの心に温かい灯りを灯せるような、そんな医療従事者になるって、心に決めたの」
ユウカの言葉に、シンジが大きく頷いた。
「僕もね、学校で『おはよう』って言えたんだ。最初はすごく緊張したし、声も小さかったけど……クラスの何人かが『おはよう、シンジくん。体調もう大丈夫?』って返してくれたんだ。僕、佐藤さんが言ってくれた『あなたなら大丈夫』って言葉を、ずっとお守りにしてたんだよ」
「俺も、部活でへこたれそうになった時、あの夜の流れ星を思い出すんだ。俺たち、あの夜、一生分の運を使って星に願ったんだから、ここで負けてたまるかって思えるんだよね」
レイジが胸を張る。
「私も!」
マイが笑顔を見せる。
「私、将来、看護師さんになろうかなって思い始めたの! ユウカちゃんが先生で、私が看護師。それって、最強のコンビだと思わない?」
4人の話を聞いていたタカシの胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。
悲しみは消えない。佐藤さんがいなくなってしまった事実は、とても切なくて、今でも胸が締め付けられる。
けれど、佐藤さんが彼らにくれた優しさは、彼らが夜中にドタバタと走り回ったあの馬鹿げた思い出は、確実に5人の未来を動かしていた。
彼らはただの病気の子供たちだった。でも、あの4階小児病棟で、彼らは小さな星座のようになったのだ。
一人一人の光は小さくても、5人が繋がることで、暗闇の中でも迷わずに進める、強い星座に。
「よし!」
タカシが立ち上がり、空に向かって手を伸ばした。
「元・病棟5人衆!……いや、佐藤さんも入れて、僕たち『病棟6人衆』の未来は、これからもっともっと面白くなる。みんな、それぞれの場所で、最高に輝こうぜ!」
「「おー!!」」
4人が一斉に立ち上がり、タカシの手に自分の手を重ね合わせた。
みんなの笑顔の上に、眩しい初夏の太陽が降り注いでいる。
見上げる空は、あの日屋上から見た夜空と同じように、どこまでも広く、どこまでも繋がっている。
彼らが歩む未来の道には、きっとこれからも色々なことがあるだろう。
辛いことや、悲しいことにぶつかる日もあるかもしれない。けれど、彼らはもう知っている。
見上げればいつでも、あの夜の流星群が、そして、共に戦った仲間たちの笑顔が、自分たちの行く先を優しく照らし続けてくれているということを。
公園の木々が、初夏の風に吹かれてサラサラと音を立てる。
それはまるで、天国にいる佐藤さんが「みんな、よく頑張ったわね」と、優しくハスキーな声で笑っているかのように、5人の背中を静かに、そして温かく押し出しているようだった。




